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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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城北高校美術部長 飯塚守

「綾子さん、どうしました?」ライトハウス店主の目の前に黒い瞳があった。

「アッ、華ちゃん・・・。ううん、何でもないわ」飯塚綾子はカウンター席に座っている女子高校生の存在に今、初めて気づいたような感覚があった。

「えーっと、あの、華ちゃんがこの時間帯にお店に来るのは珍しいわね」綾子は赤いマグカップに入っているブレンドコーヒーを慌てて一口飲んだ。

「エッ、そんなことないですよ。部活がない時は、私結構この店に来ていますよ、ねえ南ちゃん」綾子と離れたところで黒いカップを拭いていた内田南は小さく頷いた。

「アラッ、そうだったかしら」店主は記憶の糸を辿った。だが彼女の頭の中は深い霧がかかっていた。だから華の言葉を裏付ける風景を見ることはできなかった。

「でも私は一人の時はいつも本を読んでいるから、綾子さんと殆どお喋りしませんよね」華はニコッと笑った。

「そうねぇ」だが綾子の脳裏にはカウンター席に座って読書に夢中になっている華の姿も思い浮かばなかった。(私はいつから・・・ライトハウスにいるのかしら?)

 綾子は目の前の快活な女子高生が自分に何か語りかけていることは分かった。しかしその芯のある低い声が自分に何を伝えているのか理解できなかった。

 宮森華は不思議そうな表情を浮かべた。

「・・・・・・子さん、大丈夫ですか?」この高校のアイドルは右に少しだけ首を傾げた。

「エッ、何?」

「もぉー、綾子さん、聞いてなかったのですか。最近、権先生の様子がおかしいってこと言ったのに」華は少しだけ赤くなった頬を膨らませ、目の前の店主を軽く睨んだ。

「アッ、ごめんなさい。ちょっと気になることがあって・・・」

「うん? 綾子さん、気になることって何ですか?」

「私がこのお店で働き始めたのはいつだったかなって考えていたの」

「・・・」華は真っ直ぐ綾子を見ていた。

「その辺りの記憶が曖昧なのよ」

「綾子さんは私が入学する前の年にライトハウスを始めたって以前言っていましたよ」

「そうだったかしら」

「三年前に一人でお店を始められて、二年前に南ちゃんが加わったと綾子さんから聞きました」華はそう言うと黒いコーヒーカップにピンクの唇をつけブレンドコーヒーを一口味わった。

 入口のドアが開き長髪の痩せた男子高校生が入って来た。

「あら、守」飯塚綾子は驚いた。

「こんにちは、飯塚君」飯塚守は少しだけ頷いた。

「あなたがここに来るなんて珍しいわね」そう言われた店主の弟はカウンター席の後ろに突っ立っていた。

「飯塚君、ここに座ったら」華は前髪が目の半分まで覆っている同学年の美術部長に、右隣の席の背もたれを軽く叩いて誘った。守は何も言わずに華の右隣のカウンター席にスッと座った。

「綾子さん、守君は結構お昼にこのお店に来てましたよ。君はパスタが好きだもんね」

「・・・ん」飯塚守は華の言葉につられるように微かに頷いた。

「そう・・・かな・・・」綾子は首を捻った。

「守君は大体パスタを注文していたので、南ちゃんの方にいたからね。ねえ南ちゃん?」

「ええっ」厨房のガスコンロの前にいた南が微笑みながら答えた。

「ま・・・も・・・る?」綾子は大人しそうな男子高校生が自分の弟だという実感がなかった。(この小柄な男の子と一緒に暮らしている? 私のマンションにはこの弟とよく分からない父親がいる・・・・・・)

 綾子は今、ライトハウスの店内にいても、華や南、そして弟の守とは違う場所にいるような気がした。「世界の真実を見せてあげる」―猪口権の傲慢な顔が彼女の脳裏に浮かんだ。『生活から思想を学びとろうとする者など滅多におりません』ドストエフスキーの言葉が頭の中に繰り返し響いている。綾子の脳裏には蔑んでいた猪口権の小太りの体から高貴な黄金の光が放たれているように見えた。

「綾子さん! コーヒーが零れているよ!」華の驚いた声が届いていないのか、綾子は赤いマグカップを手放した。赤いマグカップがシンクの中に落ちて真っ二つに割れた。それと同時に飯岡綾子は脱力し、床にゆっくりと崩れ落ちた。



「あっ、目覚めた。中岡先生、守君。綾子さんが目を覚ましました」綾子の目には不安そうな表情を浮かべた少女が映っていた。その少女の深く黒い瞳に綾子はいつも憧れていた。

 飯岡綾子は自分の無機質的な黒い眼が嫌だった。だからと言ってカラーコンタクトをつけることも嫌だった。(自分にはいじけて捻くれて、歪んだところがある)綾子は自分をそう分析していたが、意外にも周囲は彼女をそのようには見ていなかった。面倒見が良く優しくて、そしてさっぱりしたカフェの店主・・・、自分と話したがっている人間はたくさんいるように感じた。綾子は周囲の人間の愚鈍さに呆れ、自分の傲慢さが好きになった。

(華ちゃんの瞳は綺麗だなあ。いいなぁ。私の眼と取り替えたい・・・・・・)他人の眼と自分の眼を移し替えることは可能だった。だが綾子は例え華の眼が自分に移し替えられたとしても、華の瞳のようには輝かないように思えた。それでも目の前で安堵している少女の黒い瞳が欲しかった。

「気分はどう? 飯塚さん」黒いリラックスチェアーに座っている養護教諭の乾いた声が綾子の耳に届いた。その声はライトハウスの店主の鼓膜に引っかかるような感覚を与えた。

「ええっ、まあ・・・」綾子はゆっくりとベッドから起き上がった。白いベッドの脇の丸椅子に座っている華が上体を起こした綾子の顔を覗き込んだ。

「綾子さん、さっきよりも顔色が良くなってますね。良かった」華は嬉しそうな笑顔を見せた。その時、部屋の中が一瞬白く明るくなった。中岡養護教諭は銀色の眼鏡フレームを少し動かしながら、話している宮森華を見つめた。

「・・・・・・華ちゃん、私はお店で倒れたの?」

「ええ、そうですよ。『ま、も、る』って言ってシンクの前でゆっくりと崩れ落ちたって感じかな。私、ビックリしちゃった。でも膝からフワーッと倒れて手もついたみたいだから怪我はなかったでしょ。ねっ、中岡先生?」

「そうねぇ、一応診たけど変な外傷はないわ」

「ぷぷっ、変な外傷って何ですか、中岡先生。あっ、でも中岡先生は病院にも勤めていて沢山のケガ人を診てきたから、変な怪我とかもあったんでしょうね。うーん」華は黒い瞳を少し瞼の方に上げ思案した。

「宮森さんは相変わらず好奇心旺盛ね。さて飯塚さん、一応バイタルチェックしておきましょう」中岡美奈子はベッドの傍にやって来たので、華は立ち上がり丸椅子を空けた。中岡教諭は当然のように、その丸椅子に腰を下ろした。白衣の下には白いシルクのブラウスと黒いタイトスカートがあった。

(あれぇ、最近、中岡先生はセクシーになったみたい。ひょっとして誰か好きな人ができたのかな?)華はそう思うと知らずに顔が火照ってきて内心かなり慌ててしまった。中岡美奈子と眼が会うとクールな養護教諭は親密な微笑みを浮かべた。黒髪の快活な女子高校生はその微笑みの意味が分からなくてキョトンとした表情を浮かべた。

「体温、脈拍問題なし。血圧、サチュレーションも正常。飯塚さん、この間、体の不調とか変化とか何か感じましたか?」 

「いえ、特には。ただ白石先生が亡くなって、そのショックのためか、あまり眠れていないです。だから疲れがとれないみたいで」綾子は自分の発した言葉に内心驚いたが、表情には現れなかった。

「ふーん」白衣を着た養護教諭はじっとライトハウスの店主の顔を見つめた。綾子は中岡美奈子に凝視されていても、ぼんやりとした表情は変わらなかった。

 華は二人が会話を交わしていても何故か意思の疎通が無いように感じた。(綾子さん、何を考えているのだろう?)

「あっ、守は?」綾子は虚ろな眼で言った。

「守君は綾子さんを負ぶってここまで来ました。彼、痩せてるしヨタヨタしてたけど、私と南ちゃんが支えて、休憩室まで頑張ったんですよ。ねっ、守君。あれっ?」華は部屋中をキョロキョロと見回したが、飯塚守の姿は見当たらなかった。

「さっきまで、あそこに居たのに」華は出入口ドアを指差した。

「飯岡さんが特に問題がなさそうだから、彼は出て行ったのよ」白衣の養護教諭は当たり前のことのように言った。

「エーッ、そうですかぁ?」華は黒い眉を寄せて不満気な顔をした。

「彼はあまり人と一緒にいるのが苦手なのよ。まあ、今の子は大体そんなもんじゃないの」

「守君は確かに無口だけど。でも、うーん、そうかなぁ。そうなの、綾子さん?」

「ん・・・・・・」綾子は小さく頷いた。(守の眼は気持ち悪い・・・・・・)綾子は姉として守を弟とし意識したことはなかったような気がした。マンションにいても守と顔を合わすことは滅多になかった。(私がリビングルームに居るときは、守は自分の部屋にこもっていた。食事も別々、洗濯も別々、シャワーも別々。あいつが意識にのぼることはなかった。父も同じマンションに住んでいたのかしら?)

「綾子さん、大丈夫ですか? 何かぼんやりとしているみたいだけど」華は上体を起こしている綾子の顔を覗き込んだ。

「あっ、もう大丈夫。体に力がもどってきたし」綾子は自分の体の外からスカスカの自分の声が聞こえた。だが彼女は立ち上がっていた。

「そうですか?」華は納得していなかった。

「白石先生が亡くなったことで飯岡さんはショックを受けて体調を崩したのよ。眠れないのなら、睡眠薬を出しますけど」

「いえ、結構です」

「そう、お大事に」中岡美奈子はそう言うと黒いリラックスチェアーにもどった。

「華ちゃん、あなたの荷物はお店でしょ。ライトハウスに戻りましょ」綾子はそう言うと華の左腕を取って出入口ドアに向かって歩き出した。

「エッ、アッ。あっ、中岡先生、ありがとうございました」華はカフェの店主に左腕を掴まれ休憩室を出た。



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