飯塚綾子が求めていたもの
飯塚綾子はライトハウスの壁に掛かっている丸い時計が午後六時を回っていることを確認した。目の前のカウンター席には黒っぽいスーツを着ている猪口権が座っている。
「すみませんねぇ、綾子さん。営業時間は過ぎているのに」一人だけ残っている客は黒いコーヒーカップにコーヒー用の角砂糖を五個入れた。そしてミルクピッチャーからミルクを注ぎ銀色のスプンで茶色い液体をグルグルグルと執拗に掻き回した。
「いえ、そんなこと・・・・・・」綾子は曖昧に返事をした。
「白石新次郎の死体なんか行政に任せときゃ良かったのに。東山校長が変な仏心を出して弔いをしましょーっとあの甲高い女の子の声で言ったんだよ、へンッ、あの声は気持ち悪いよね、頭の悪い犬がキャンキャン鳴き喚いているみたいでねぇ。綾子さん、犬って動物知ってる? 以前、人間が飼っていた動物で、キャンキャン鳴くしかできない馬鹿な生き物さ。ところで、僕はそうは言ってもねぇ、信心深いから校長たちと一緒に斎場に行って来ましたよ。それで先ほど帰ってきたところなのよ」
「そうですか。それはお疲れ様でした」綾子は自分のコーヒーカップに薄い唇をつけた。グアテマラ特有の花のような香りがした。
「今日、内田南さんはいないの?」猪口教諭は店内をキョロキョロ見回した。
「あらっ、さきほどまで居たと思うけど・・・」店主は右手に持っているブラウンのマグカップから立ち昇る湯気を見ていた。
「ふーん」カウンター席に座っている小太りの中年男は何か考えていた。綾子は目の前の男が何故この場所にいるのか不思議な気がした。この男はここに居なくてもいいように思えた。そう思うと彼女は徐々に苛立ってきた。(目の前の冴えない男がコーヒーを飲み終えたら、すぐ店を閉める。そして一刻も早く、この小太りの中年男を店から追い出す)綾子は激しい喉の渇きのように焦りを感じ始めた。(早くその甘ったるいコーヒーを飲め! 豚オトコが!)
「どうしたのですか? 綾子さん」
「エッ?」
「そんなに真剣に僕の顔を見つめて。この顔を見ても面白くないでしょう」綾子の目の前に座っている男はそう言いながらも、満更ではない表情を浮かべていた。
「アッ、そのっ、猪口先生はいつも沢山お砂糖をコーヒーに入れるので、甘くないかなぁと思って」
「僕は甘党ですからね。でもね、それにはちゃんと理由があるのですよ。ほら、知ってるでしょ」
「はぁ・・・」綾子は頭に巻いていたオレンジのバンダナを解いた。そして左の五本の指で前髪をかき上げた。
「僕はねぇ、この高機能の脳をいつも目いっぱい働かせているのですよ。普通の人間の数倍、いや何十倍もね。ご存知のように脳は糖分しか栄養にしないでしょう。だから砂糖は僕には欠かせない栄養分なのです」猪口権は「ズズズズーッ」という音を出して甘いコーヒーを短い喉に流し込んだ。
「そうですねぇ・・・」綾子は自分の唇の右端がピクピク動くのを感じた。
「あーっ、くたばった白石新次郎も偉そうに甘党だったな。そうでしょう、綾子さん?」
「そうでしたか?」綾子は白石新次郎に関する記憶は深い霧に包まれたように曖昧だった。
「ふーん、白石は度々ライトハウスに来ていたのに、綾子さんはあいつのことをあまり覚えていないのですねぇ、へへッ」猪口教諭は濁った茶色い眼で綾子の黒い眼を探るように見つめた。綾子は左手の腕時計を見て、それから壁に掛かっている丸い時計を見た。
「綾子さん、コーヒーのお代わり」
「エッ、あの、営業時間が・・・・・・」
「僕はねぇ、あなたが飲んでいる、そのマトモなコーヒーが良いなあ。こんな傲慢なコーヒーより」
「傲慢なコーヒー・・・ですか?」
「そうだよーっ。コーヒーは淹れた人間の性格が味に出るんだ。僕が今飲んだコーヒーは客を馬鹿にした下劣な味がするよ、綾子さん。もっとも自分が賢いと誤解している人間は、この世界には大勢いるけどねぇ。ククククッ」現代国語を教えている教師は小さな眼を細め嘲笑した。綾子は後頭部から腰にかけて冷たいものが降りていく感覚を覚え背中が一瞬強張った。
「まあ、綾子さんが人を見下すことは仕方のないことですけどねぇ。僕たちの周囲の奴らは何も考えていない愚鈍な動物ばかりだからね。ただ惰性で一日一日を消化しているだけだ。そいつらは自分が真っ直ぐ死に向かっていることも知らない。僕のように自分の暮らしを充実したものにしたい、意義あるものにしたいと真剣に考えている人間は殆どいないのですよ。ほらドストエフスキーも言っているじゃないですか。『生活から思想を学びとろうとする者など滅多におりません』ってね。そうでしょう、綾子さん?」
「えっえぇ・・・そうですね」
「綾子さん、あなたの暮らしは充実していますか。一日を無為に過ごしていないですか。今の生活に不満はないのかなぁーっ」猪口権は濁った眼を細め、頬骨を上げ口角を吊り上げた。
「・・・・・・どうでしょうか」ライトハウス店主は力のない眼でまたも壁に掛かっている丸い時計を見た。時計の針は六時三十分を回っていた。(南ちゃんはもう帰ってしまったのかな)目の前に座っている男の嘲りの笑いを受けながら、綾子は漠然とそんなことを考えていた。
「綾子さん。僕はねぇ、くたばった白石の後任として職員のお悩み相談役を仰せつかったのですよ。白石の奴は職員のメンタルヘルス担当とか言って中岡美奈子先生に関わろうと必死でした。だけどあの馬鹿は中岡先生に、ものの見事に振られましたよ。へヘヘーッ、あんな下劣な下半身男に中岡先生が興味を持つわけないでしょ。かえって中岡先生の仕事の邪魔をしただけですよ、あの変態は。アハハハハーッ、そう思いませんか、綾子さん? まあ中岡美奈子も変にプライドが高いけどねぇ」
「そうですねぇ・・・」綾子は力なく答えた。
「僕は先日、中岡先生の部屋に行ってお話しました。中岡美奈子先生と二人でこの城北高校の人間の心身の健康管理をしていこうと約束しましたよ。ヒヒッ、さすがにちょっとは頭が働く中岡美奈子ですね。僕の言うことを多少は理解してくれました。どうです、綾子さん。あの白石新次郎とえらい違いでしょう」
男の吊り上がった口角から涎が垂れていた。それは糸を引くようにツルツル落ちている。そしてその粘りのある液体はゆっくりと鳶色のカウンターに届くと、少しずつ円形に拡がっていった。
「・・・、あっ、はい、そうですねぇ」綾子は再び壁に掛かっている丸い時計を見た。時計の針は七時を回っていた。
(南ちゃんがこの涎を拭きとってくれたらいいのに)綾子は猪口権が消音されたテレビに映っている人間のように思えた。目の前の男の顔は赤紫色に変色していた。そしてコーヒーを飲みながら何か言っていた。(コーヒーを誰がこの男に淹れたのだろう・・・・・・、南ちゃんなの? ンン、私かしら?)綾子は考えることに深い疲労を覚えた。
「猪口先生、今は何時でしょう?」綾子は壁に掛かっている丸い時計を右手で指差した。猪口先生と呼ばれた男は女性店主の指さした方に短い首を回した。
「今はまだ六時過ぎでしょ」猪口教諭はつまらなそうに答えた。
「エッ?」
「綾子さん、僕はこうやって、あなたの不味いコーヒーを飲んでやっているのだから残業くらいしないと駄目ですよ。南ちゃんのコーヒーは美味しいけど、彼女は先ほど帰ってしまったしね」
「南ちゃんは帰ったのですか?」
「あなた、何言っているのですか。僕がこの店に入ったときに南ちゃんは『お疲れ様でした』と言って入れ違いに出て行ったじゃないですか」
「・・・・・・」綾子はまた壁に掛かっている丸い時計を見た。その丸い時計の針は午後七時半を回っていた。
「綾子さん。今日、僕は先ほどまで白石新次郎の弔いに行ってきたんだよ」小太りの中年男は秘密を打ち明けるように小声で話し始めた。綾子の持っているブラウンのマグカップが小刻みに揺れ始めた。目の前の男は「ヒャヒャヒャー!」大声で笑った。綾子の右手に力が入らなくなった。飯塚綾子が持っていたブラウンのマグカップがカウンターに落ちた。
「ガシャン」という音と共に綾子のマイカップが真っ二つに割れた。カップから流れ出た茶色い液体はカウンターに溜まっていた透明な粘液を巻き込んで灰色の床に落ちていった。その涎を含んだコーヒーは猪口権のくたびれた黒い革靴を濡らした。
「あーあっ。僕のお気に入りの靴が汚れちゃったじゃないか」猪口教諭は眼を半分ほど塞ぎ、口をすぼめて言った。
「あっ、すみません、ごめんなさい、猪口先生」綾子は慌ててカウンターの奥から出て猪口権の席の傍に行った。
「ほらぁ、綾子さん。僕の靴を綺麗にしてよーっ」猪口教諭は右足の靴を指差した。その靴の表面には茶色い液体がへばりついていた。
「ほら、早く、僕の靴を綺麗にしてよ。ハンカチなんかで拭くんじゃないよ」
「エッ、ハンカチで拭いてはいけないのですか?」
「綾子さんはカフェの店主でしょう。だったらコーヒーはちゃんと味見して、そして飲まないとねぇ。このコーヒーは綾子さんの好きなグアテマラと僕の神聖な涎のミックスしたものだからね。ほら、早くその舌で綺麗にして味わいなさい。一石二鳥でしょう。僕は頭が良いからね、無駄なことはしないのだよ、綾子さん」国語教師はカフェの店主のウェーブのかかった髪の毛を左手で掴んだ。そして白いブラウスとベージュのチノパンツ姿の綾子を四つん這いにさせた。彼女の目の前に右足の革靴を持っていくと、綾子は飢えた動物のように赤紫の舌を出して革靴を舐め始めた。
「綾子さん。美味しいでしょう、僕たちのコーヒーは」
「あっ、はい、美味しいです」カフェの店主は自分の発した声が誰の声か分からなくなっていた。彼女の目の前には饐えた匂いのする灰色の皺が浮き出た革靴があった。そのくたびれた革靴はとても大きく見えた。
「ほれ、ちゃんとご主人様の高貴な靴を味わいなさい」猪口権は綾子の口に右足の革靴をねじり込んだ。口いっぱいに革靴が入り込んで、ライトハウスの店主は呼吸が出来なくなった。「オエェヴ、オエーッヴーッ」唸りながら綾子の薄い唇から唾液が漏れた。
「コラァー、僕の神聖な靴を汚すなぁ! この豚」国語教師は自分の腰に巻いてあった黒いベルトを四つん這いになった女の肉厚の尻に思い切り打ち付けた。
「ビシッ」という音と共に「ビーッ」という掠れた悲鳴が上がった。
「ヒャヒャヒャー、尻をぶたれても美味しい革靴を咥えて離さないとは、ホントに豚女ですねえ。ほら、ブヒブヒと鳴きなさい」猪口権は無慈悲な動物調教師のように咥えさせた右足の革靴を上下に動かし、左手に持った革のベルトで綾子の尻を激しく打ちつけた。
「ウグググ・・・オエッ」綾子を唇から涎を垂れ流し続け息苦しさで目の前が真っ白になった。しかし尻から来る熱いひりつく痛みのたびに、黒い革靴の映像が脳裏に立ち現れてくる。
「綾子さん、あなたは店内で南ちゃんが白石に蹂躙されるところを知っていて見なかったでしょう。駄目だよ、そんなことでは。南ちゃんが可哀そうじゃないか。ヒヒヒッ、これからは僕がちゃんと世界の真実を、本当の姿を、あなたに見させてあげるから。だからねぇ、ご主人様の言うことをちゃんと聞きなさいよぅーっ」
「ウググ・・・」綾子は猪口権の言っている意味が分からなかった。
「コラァー! 返事はどうしたぁー!」怒声とともにベルトのバックルが綾子の肛門に食い込んだ。
「ヒーッ」綾子は白目を剝き、口から泡を吹きながら気を失った。彼女は咥えた革靴からずり落ちるように灰色の床に横たわった。その肉厚の体は小刻みに震えていた。
「ケッ、尻の穴にバックルを打ち付けられて失神するほど喜んでやがる。正真正銘の変態豚だな。まあしかし、こんな変態豚でも少しは僕の役に立つかもしれない。彼女が時々この店に来るからな。おっと、コーヒー代は三杯で千五百円か。綾子さん、お代はここに置いときますよ。では、おやすみなさい」
猪口教諭はカウンターに千円札を一枚、五百円硬貨を一枚置いた。そして壁に掛かっている丸い時計を目を細めて見た。時計の針は午前零時を回っていた。彼は左腕に嵌めてある銀色の腕時計で現在の時刻を確認した。そして足早にライトハウスから出て行った。




