阿沼学は楽しそうに話す
「帰りは僕が運転するよ」阿沼学年主任はステップワゴンの運転席に乗り込んだ。
「エッ、猪口先生は校長先生と教頭先生の車ですか?」華は意外な気がして前の席に座った阿沼教諭に訊いた。
「そう。彼は罰としてクラウンの運転係だよ」左隣に止まってあった黒い公用車はゆっくりと動き出した。
「もぉーっ、猪口先生は教頭先生にしっかり怒られたらいいんだわ! 斎場であんなに大きな声で笑うなんて。それに変なことも言うし。酷いことないですか、阿沼先生!」華の頬は紅く染まっていた。
「確かに火葬場で楽しそうに笑ったのは不謹慎だね」阿沼主任はハンドルを大きく左に切りながら小さく笑った。
「阿沼先生! 白石先生が亡くなってから猪口先生、変ですよ。そりゃあ仲が良かった白石先生が急に亡くなったから動揺したのかもしれないけど。権先生はもともと変なことを喋るけど面白かったし、それに人を不愉快にさせるようなことはしなかったのに」華は口を尖らせ紅い頬を少し膨らませていた。
「へぇー、猪口先生が宮森さんに不愉快なことをしたのかい?」阿沼主任はチラッと助手席の美冬を見た。美冬は阿沼教諭の視線に気づく様子もなく前を見ていた。二台の公用車は斎場が建っている丘を降り街中の大きな道路に入っていた。
「いえ、私に変なことはしないですけど。でも昨日は、権先生が文芸部の顧問として初めて活動する日だったのに、一言だけ言って何処かに行っちゃったんですよ。あれだけ文芸部の顧問をしたいしたいってうるさかったのに。あっ、それに美冬、えっと渡辺さんも演劇部から文芸部に入ってくれて最初の日だったのに。失礼しちゃうわ、ねえ美冬、尊君」華は知らず知らずのうちにしかめっ面になってしまった。しかし左隣に座っている尊と眼が会うと慌ててすました顔をつくった。
「ふーん、そうなんだ。でもねぇ猪口先生も白石先生亡くなったので、心中穏やかじゃないし、やるべきことも多いと思うよ。それに宮森さん、猪口先生はあまり器用な方じゃないからね。今は寛容な気持ちで猪口先生を見てやってほしいな」
「ええっ・・・はい、分かりました・・・。だけど火葬する場所であんなに大声で楽しそうに笑うって、おかしくないですか? ホントにあの二人は仲良かったのかな?」華は小首を傾げて尊を見た。尊も思案している表情だった。
「確かにねぇ」阿沼学はそう言うと再び助手席に座っている美冬を見た。渡辺美冬は相変わらず遠くを眺めているような瞳で前方を見ていた。
「ただいま帰りました。おっ、孔君、来てたのかい」阿沼学年主任は校長室の黒いソファーに座っている小柄な青年に気づいた。
「お久しぶりです、阿沼先生。明日からこちらでお世話になります」谷口孔はソファーに座ったまま少し前かがみになって小さく頭を下げた。
「君が白石氏の後任として物理を教えるの? 頭にチップか何か入れて教師になったのかい?」阿沼主任は孔の対面に座っている西村教頭の右横に腰を下ろした。
「いえいえ、僕はちゃんと勉強して教師になりましたよ。物理学はこの世界の謎を解く鍵だと思っていますから」
「本当かい?」阿沼主任は右の口角を少し上げて意地悪く笑った。
「ヒャー、相変わらず阿沼先生は意地悪ですねぇ」孔は大げさに顔をしかめて、テーブルに置いてある湯飲み茶わんの煎茶を一口飲んだ。その緑色の液体は既に温くなっていた。
「君は白石先生が溺れ死んだ高梨邸に住んでいるんだろう。彼が死んだときに高梨邸にいたの?」
「いえいえ、僕はその時は忙しくって外にいましたよ。帰ったのは深夜で警察の事情聴取が終わったあとです」孔は右手を目の前で軽く数回振った。
「ほぉ、君もなかなか忙しいってわけだねぇ」阿沼主任は細い眼を更に細くして目の前の小柄な青年を見つめた。
「忙しくしないとこの時代の空気に飲み込まれてしまうでしょう」
「君がそんなタイプだと思わないけどね。しかし谷口孔が毛嫌いしていた白石氏の後任とは不思議な縁だねぇ」阿沼学はまた底意地の悪い笑みを浮かべた。
「エーッ、阿沼先生、誤解ですよ、それは。僕はそんなに白石先生を嫌っていなかったですよ」
「本当?」
「ええ、本当です。だって僕はずっと休眠していた文芸部にも、白石先生が着任してから参加していたでしょう?」
「そして直ぐ退部した」
「アハハッ、それは大学受験のため勉強しなければならなかったからですよ」孔は明るく答えた。
「なるほど・・・それにしては大学をすぐに卒業したねぇ」
「大学はこの城北高校に比べると面白くなかったです」
「そりゃそうだろう」
「阿沼先生、校長先生と教頭先生にも訊いたのですが、僕は物理を教えるだけで白石先生の代わりではないのでしょう?」孔は上目遣いで学年主任に問い掛けた。
「そのことに関してはお二人に訊いて確認したのだろう。大丈夫だよ」阿沼学年主任はニヤニヤ笑った。
「ホントですか? 阿沼先生はいつもはぐらかすからなぁ」孔は不満気だった。
「まあまあまあっ、谷口先生ぃ。白石先生がいなくなって、彼の代わりが誰になるかはおいおい分かってくるでしょうーっ。谷口先生だったら大丈夫ですよーっ」谷口孔は東山校長の少女のような声が耳障りに聞こえた。彼は冷ややかに微笑んでいる阿沼学年主任を見て、その隣に座っている西村教頭を見た。西村教頭は肖像画のように目の前の黒いテーブルを見つめているだけだった。しかし孔の視線に気づいたのか西村教頭は顔を僅かに上げて新任教師を見た。
「猪口君か・・・・・・」谷口孔は西村教頭の感情の籠らない声を聴いた。そしてその無表情な声は自分に対して発せられたのだろうと、小柄な新任教師はそう理解した。




