白石新次郎の弔い
火曜日の放課後、宮森華は猪口教諭の運転する白いホンダ・ステップワゴンに乗っていた。前方には黒いトヨタ・クラウンが走っている。城北高校の二台の公用車は市役所が運営している斎場に向かっていた。ステップワゴンの助手席には美冬が座りその後方、二列目の座席には華と尊が座っている。
「白石センセーには親族がいなかったんだよねー」猪口教諭はチラッと左助手席を見て言った。
「そうですか・・・」
「ホントはそんな死体は市役所が処理をするんだけど、校長がねぇーっ、高校の方で彼をちゃんと弔いたいと言ったんだよ。もちろん僕もそうして下さいって進言したけどね」小太りの運転手は再三、美冬に目配せしながら話しかけた。
「・・・はい」美冬は前を見ながら答えた。
「猪口先生、私たち生徒が斎場に行き白石先生の弔いに参加するってことはですよ、白石先生はそれなりに人望があったんじゃないですか?」華はよどみなく言った。華の左隣に座っている尊も静かに頷いた。
「白石君は一応、君たち文芸部の顧問だったしねぇ」猪口教諭は分厚い唇を尖らせた。
「まあ顧問としては問題がいろいろあったと思いますけど・・・、うーん」華は少しの間、眉間に小さな皺を寄せ、死んでしまった白石教諭について考えを巡らせていた。
「文芸部を再建したのは白石先生ですからね」
「そうそう尊君、そういう意味では白石先生は偉かったよね」華は納得した表情を浮かべて尊を見た。
(フンッ! 二年前は君が入部したからな。だから誰が顧問をしたって文芸部には人が集まってきただろうに。ケッ! それにあいつが美冬に何をしてきたのか、宮森さん、君が知ったら、そんなこと言えないだろう)猪口教諭は険しい眼差しで前を見た。彼は左頬に視線を感じた。瞬間的に左を見ると心配そうな美冬の顔があった。猪口権は途端に機嫌が良くなった。
黒いクラウンと白いステップワゴンは城北高校を出て真っ直ぐ南に進んでいた。二台の城北高校の公用車は片側二車線の道路を三十分以上走り続けていた。左前方の低い丘の上に白い建物が現れた。黒いクラウンの後に続いた白いステップワゴンは緩やかな坂道を登って行った。丘の頂上にある広大な駐車場に二台の車は止まった。クラウンの後部座席から黒いスーツ姿の東山校長と西村教頭が出てきた。そのあとに深い灰色のスーツを着た阿沼学年主任が運転席から姿を見せた。
「ちょうどいい時間に着きましたね」阿沼主任は平屋建ての白い斎場を見ながら言った。
「うん、そうだねぇーっ。告別式が始まるのは五時からだから、あと十五分後ですねぇ。西村先生、阿沼先生、生徒たちは大丈夫かなぁ?」
「まあ大丈夫でしょう、あの三人だから。ねえぇ教頭先生?」
「・・・・・・」西村教頭は小さく頷いた。そして隣に駐車したステップワゴンを見た。ちょうどその時、運転席から猪口教諭、助手席から美冬が外に出てきた。その後、左側のスライドアが開き尊と華が出てきた。阿沼教諭の細い眼には宮森華が公用車から出てきた瞬間、彼女の周囲が白く光ったように映った。彼の左隣に立っていた西村教頭も視線は宮森華に向かっていた。
「さあ、行きましょうかぁ―っ」東山校長の甲高い声が響いた。城北高校の一団は白い建物に入口に向かって歩き始めた。
白い建物の手前にある七段の階段を上った阿沼教諭が入口の両開きドアのタッチスイッチを押した。半透明のドアは音もなく左右に開いた。斎場に入ると小さなホールのような空間があり、両隅に木製の長椅子が二つずつ並べてあった。部屋の中央に白衣を着た二人の男が立っていた。華たちから向かって右側には背が高くて、パーマをかけているような波打った髪型の男がすっくと立っており、左側には猫背でスキンヘッドの背の低い男がいた。彼らは二人と分厚いレンズの黒縁眼鏡をかけている。
「お待ちしておりました。城北高校の皆さまですね。本日お世話をさせて頂く奥山と申します。こちらは吉田です」右側の背の高い男がそう挨拶すると、二人は深く体を曲げて一礼した。
「こんにちはぁー、城北高校の東山ですーっ。お世話になりますぅーっ」校長の甲高い声が部屋中に響き渡り、華は頭を下げながら不覚にも笑いがこみ上げてきた。彼女は唇を噛みしめて顔を上げた。そして左隣の尊を見た。尊はいつもと変わらない冷静な表情をしていた。宮森華は自分の軽率さを恥じた。
「それでは火葬室へご案内いたします。皆さま、私のあとについて頂きますようお願い致します」奥山は右のドアを指し示すと、そのドアに向かってゆっくりと歩き始めた。吉田も彼に並んで歩き始めた。城北高校関係者は二人の後ろをゆっくりとついて行った。
(私は白石先生が死んだことをあまり悲しんでいないのかなぁ?)彼女は他の人間とともに移動しながら白石新次郎のことを再び思い浮かべていた。
玄関ホールの左側の幅広い通路を華たちは白衣の男二人を先頭にして歩いていた。ベージュのリノリウムの床から革靴や運動靴の歩く音が混ざって聞こえる。三十秒ほど歩くと焼却炉がある部屋に着いた。五台の火葬炉が並んで設置されていて、その中央の焼却炉の前に白木の棺が置いてあった。棺の上の方に透明なプラスチックが四角にはめ込まれていて白石新次郎の顔を見ることができる。
「皆様、白石様との最後のご対面です。白石様に何か贈り物がありましたら、棺の蓋を開けますが?」背の高い奥山が城北高校関係者を見回した。
「アッ、ハイ! 私、白石先生に渡したいものがあるので、お願いします」華は背負っている紺色のデイバッグから一冊の文庫本は取り出した。
「宮森部長、それは?」尊はそっと呟くように訊いた。
「うん、カフカの『審判』。白石先生にあの世で読んでもらうんだ」
「なるほど」尊は微笑んだ。
奥山と吉田が丁寧に棺の蓋を開けると紺色のスーツ姿の白石新次郎が眼を閉じて横たわっていた。彼の両手は胸の上で組み合わせられている。
「ホウ―ッ、白石君もちゃんとした服装をしているねぇー」校長の声はいつもと変わらず子供ようなの明るい響きだった。
「中岡先生が着替えをしてくれましたからねぇ。彼の部屋には面白い服がたくさんあったそうですよ」阿沼主任は冷ややかに笑いながら猪口権を見た。猪口教諭は学年主任の細い眼が自分に向けられていることに卑屈な苛立ちを感じた。
「はい、白石先生。この本をあちらではちゃんと読んでくださいね」華は分厚い文庫本を仰向けに寝ている男の胸に置いた。その時ふいに彼女の黒い瞳から涙が溢れ出た。その涙が二粒、白石のスーツに落ちて藍色の染みをつくった。華が水色のハンカチをスカートポケットから取り出して頬を濡らした涙を拭くと後ろに下がり、尊の傍で立ち止まった。
華と入れ替わりに美冬が棺に近づき白石新次郎の組まれた手を握った。
(冷たい手・・・。白石先生、先生はいつも寒さで凍えていたのでしょう? だけど誰もあなたを暖めることはできなかった・・・・・・)その時、白石の手からいきなり冷気が美冬の手に沁み込んできた。それは骨の中まで凍えさせる圧倒的な冷気だった。美冬は急いで手を離したが、唇は紫色になり頬は蒼ざめ体は細かく震え出した。(七本の棒・・・黒い大地に突き刺ささっている。まるで墓標みたい。白石先生は死んでも私にメッセージを送り続けている・・・・・・)
「美冬、大丈夫?」華は慌ててクラスメイトの傍に行きその手を握った。白く華奢な美冬の手は氷のように冷たかった。華は美冬を抱きかかえるようにして、その場を離れた。
(美冬ちゃんはどうしたんだ?)猪口教諭は訝し気に美冬を見て、それから棺の傍に来た。そして同僚だった男の顔を覗き込んだ。
(へぇー、こいつも一応、人間らしい顔をして死んでるじゃないか? 僕はこいつの顔をみると毒蛇か獰猛なトカゲに見えていつも恐れていた。美冬ちゃんや南たちに絡みついて毒を注ぎ込む牙で喉元を噛みついているように、こいつは女たちを蹂躙していた。この馬鹿は無能なくせに女とやることだけは才能があったからな。だけどどうして白石みたいな邪悪な奴がこの城北高校に来たんだ? 宮森さんはあいつを嫌いだったはずなのに泣いているし・・・。美冬なんかは一番の被害者なのに。校長のチビ助もこんな奴の処理は役所に任せたらいいのに。ああっ面倒くさい)猪口権の顔の真下には無表情な白い顔があった。
(何だ? 偉くすました顔じゃないか。こいつはいつも欲情していて目は血走って口はだらしなく開いていたアホ面だったのに。どうして満足しているような死に顔なんだ? まあ沢山の女に好きなことをやりつくしたからな。いつでも何処でも女を虐めてセックスすることしか頭になかった変態だが。まああれほど女たちを虐めつくしたから、変態なりに満足しただろう。チッ、偉そうに死んでやがって)
猪口権は白石の頬が少し光っていることに気がついた。彼の口から流れ落ちた涎が白石の頬にかかっていた。猪口権は死体の粘ついた頬が部屋の灯りを反射していることを理解した。
(へヘヘーッ。死に水じゃなくて僕の死に涎かぁー。ヒャヒャヒャー、いい様だ。お前はどうせ地獄の炎に焼かれるんだから、少しでも水分があった方がいいだろう。ヒヒヒーッ)そのとき猪口教諭の襟首に異様な力が加わり彼二三歩後ずさった。
「静かにしろ」西村教頭の鋭い眼光が目に入った瞬間「パンパン」という平手で頬を打つ音が聞こえた。
「アレッ、教頭?」猪口教諭は頬に熱い痛みを感じた。
「・・・・・・」西村教頭は何も言わず猪口権の襟首を掴んで華たちが並んでいる場所に力任せに連れてきた。
「アタタタッ、教頭先生、何するんですか?」
「クックックッ、猪口先生。神聖な火葬場であんなに大声で笑っちゃあダメですよ」阿沼主任は笑いを押し殺し小声で猪口権に言った。
「笑った? 僕が?」
「まあいいじゃないですか。猪口先生はとても大切な同僚を失って情緒が少し不安定になられたのでしょう?」阿沼学の細い眼は楽しそうだった。
猪口権は不思議そうに周囲を見ると華の怒気を含んだ瞳が自分を見つめていた。その両隣にいる尊も美冬も自分を見ていた。尊の眼には何の表情もなく、美冬の紫と銀色の瞳には哀しそうな光があった。
「皆様、白石さまとお別れの挨拶は終わりましたでしょうか?」と奥山は分厚いレンズの眼鏡で華たちを一人ひとり確認するように見回した。東山校長が「ウムッ」といった感じで首のない顔を大きく縦に振った。
「それでは今から火葬を執り行います」奥山は火葬炉の扉の右横にあるモニターに右人差し指で触れた。白く分厚い両扉がスライドして開き中から代車のついた合金製の骨組みの運搬装置が出てきた。奥山と吉田をその運搬装置に白木の棺を丁寧に置いた。奥山は再び扉の右横のモニターを操作すると、音もなく棺を乗せた運搬装置は火葬炉内に移動した。そして奥山が棺の位置を確認すると、またもモニターを右人差し指で触れた。白く分厚い両扉がゆっくりと閉まっていった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」黒い数珠を親指と人差し指の間に掛け合掌している猪口権が低い声でそう唱え始めた。
「城北高校の皆さま、ここに火葬の点火ボタンがあります」奥山はモニターの下にある赤いボタンを指差した。
「どちら様がこのボタンを押されますか? 東山校長先生?」奥山は東山校長を見た。
「いやいや、私ではなくて・・・」
「アッ、火葬スイッチは僕が押しましょう! 僕が白石先生を火葬しますよ」猪口教諭は決まりきったように言い切った。
「猪口君・・・」西村教頭の銀縁眼鏡が威圧的に左隣の猪口権に向けられた。
「エーッ、だって僕が一番白石先生と仲が良かったですよーっ。それに無能な彼ができなかった仕事を肩代わりしてやったのも有能な僕だったし。みんなは白石のコト嫌っていたけど、僕はちゃんと彼と付き合ってあげたんだから。だからぁ、僕には白石新次郎を焼くぐらいの権利はあるはずでしょ」猪口権は口角を吊り上げて西村教頭をねめつけた。
「まあまあまあーっ、猪口先生も白石先生を最後までお世話をしたいというぅお気持ち、分かりますぅ。しかしここは白石先生が大切にしていた文芸部の部長、宮森さんにお願いするといいうことで、いいですかぁ?」東山校長の語尾はソプラノ歌手のように響いた。
「あーっ・・・、まあ宮森さんならしょうがないなぁ、チェッ」猪口教諭は大きく舌打ちした。
「エッ、私がするのですか?」華は手を握っている左隣の美冬を見た。美冬の手は冷たかったが、彼女は小さく頷いた。それから華は右隣の尊を見ると彼も同じように頷いた。
「宮森部長、僕も一緒にあのボタンの所まで行きましょう」
「エッ、ああっ、うん。ありがとう」
華と尊は並んで火葬ボタンの前まで歩いて行った。
華は焼却炉の前に立ち止まると大きく深呼吸した。そして右人差し指で赤いボタンを押した。「カチッ」という音が鳴り、火葬炉中から「ウィーン」という音がした。それから「ボッ」という点火音が聞こえ「ゴーッ」という死体を焼く音が低く響いた。
「フーッ」華は溜まっていた息を吐き出すと背中に尊の右掌がそっと触れられていることに気づいた。二人はゆっくりと他の五人が立っている場所に戻った。
「白石様の遺骨はこちらで処理させていただきます。それではこれで白石新次郎様の弔いをおわります。皆さま、ご苦労様でした」奥山がそう告げると斎場職員二人は深々と頭を下げた。
「ご苦労ぅ―様でしたぁ」東山校長の返答とともに城北高校の関係者も頭を下げた。猪口教諭だけは頭を下げずに、突っ立ったまま白石新次郎が焼かれている焼却炉を微笑みながら見つめていた。




