「美冬ちゃん、運命ってものは変えられるかもしれないし、変えられないかもしれない」
一か月前、美冬は四階通路の真ん中あたりで佇んでいる恐ろしく痩せた男を見た。その時彼女はAFZ六階駐車場で白石新次郎に肉体を蹂躙された後だった。白石は自分の精液を美冬に注ぎ込んだ後、自家用車で帰って行った。美冬は下腹部の処理をトイレでした。それからこの四階通路でぼんやりと階下を眺めていた。彼女の隣にその痩せ細った男やって来た。しかし美冬には白石の暴力的なカーセックスの居心地の悪い異様な快感がまだ体内に残っていた。だから彼女の傍に誰がいようが関心がなかった。
「お嬢さん・・・・・・」しわがれた乾いた声が聞こえた。
美冬は右を向くと、そこには幽鬼のような小柄な男が立っていた。彼女はその生気のない痩せ細った男を見ると、自分の中に澱のように残っていた快感が消えていった。隣の男は紺色の上下の作業着を着ていた。その紺色の作業着の左胸には「後藤」と記されたプラスチックの名札があった。
「・・・・・・今から・・・始まる・・・・・・」そのやせ細った男は前方の虚空を力のない眼で見つめていた。美冬は「後藤」と記された名札を付けている男の視線の行く先を見つめた。しかしそこには巨大な建物の味気ない壁と、とってつけたような強化ガラス窓があるだけだった。
「何が・・・始まるのですか?」美冬は右隣りに佇んでいる男に訊かざるを得なかった。男はゆっくりと首を左に回し、美冬を見た。そして彼はニ―ッと笑った。美冬はその笑顔には何の感情も含んでいないように感じられた。男の口角が重力に逆らって上がり弛んだ頬の皺が増えた。笑顔を作ったため目尻と瞼が飛び出している眼球を圧迫して塞いでしまっている。美冬は幽鬼のような男の不思議な顔の造作を見て、この場にいてはいけないと感じた。彼女は会釈をして東側日用品売り場手前のエスカレーターまで歩いて行った。そしてもう一度「後藤」と記された名札をつけている男を見た。男の右手には焦げ茶色の荒縄があった。美冬は慌てて男の方へ駆け寄ろうとした。けれども頭頂から足裏まで力が抜けて体が全く動かなかった。やせ細った男は荒縄を細い首に巻き通路の手摺にもう片方の荒縄を括りつけた。そしてフワッと四階の手摺壁から身を投げた。美冬はその間、見ることと呼吸することしかできなかった。彼女は自分の時間が凍結したかのように感じられた。
数人の人間が慌ててやって来た。荒縄から「ブチブチブチ」という音が聞こえ「ドンッ」という衝撃音が階下から響いた。それとともに「キャ!」と若い女の叫び声がした。美冬はその叫び声を聞いた後、体に血が通ったような感覚を覚えた。そして自分の時間がもどってきて体が動き始めた。彼女は急いでエスカレーターに乗り一階へ降りて行った。一階イベントホールには黒いシールドが張られていた。
(この人は今から死んでいく・・・・・・)昨夜、美冬は高梨邸で夕食後に白石新次郎が外の風に当たってくると言って席を立ったとき、そう感じた。あのとき美冬はなぜ白石の死を予見したのか分からなかった。けれども今、AFZ四階通路で後藤と記された名札を付けた男と出会った場所を見て思い出した。死ぬ間際の後藤と夕食の席を立った白石は同じ匂いをしていたのだ。(死んでいく人の匂い・・・・・・そんなものがあるのだろうか?)美冬はぼんやりと考えていた。
「何か見えますか?」美冬が振り返ると人懐っこい笑顔があった。ショートカットの髪と黒い瞳が印象的な小柄な女性がいた。彼女は灰色のスラックススーツを機能的に着こなしている。
「いえ、別に・・・」美冬は突然彼女の後ろに現れて、楽しそうに微笑んでいる女性に既視感を覚えた。
「あなたは一か月前にここから飛び降りた人、後藤さんのことを思い出しているでしょ? 渡辺美冬さん」
女子高校生は驚いたが恐怖は感じなかった。そして美冬は目の前の灰色のスーツジャケットの左胸に付いているプラスチックの名札に眼が止まった。その長方形の名札には「谷口」と記されていた。
「谷口さん・・・」美冬は目の前の楽しそうに微笑んでいる女性がAFZの社員だろうと推測した。そして彼女は先ほど自分を車で自宅まで送ってくれた男性と繋がりがあるだろうとも思った。
「そうですよぅ、私は谷口・・・谷口楓。谷口孔の母親で、ここAFZに勤めています。美冬さん、うちのバカ息子があなたに会えて嬉しかったとはしゃいでいたわ。あいつ、あなたに失礼なことを言わなかったかしら?」谷口楓はそう言うと小さな右手を差し出した。美冬もその仕草につられるように右手を出した。二人はそっと握手した。
谷口楓は右手が美冬の白い右手に触れたとき僅かな電流が走ったような衝撃を受けた。そして手を握っている可憐な少女の体から何のイメージも湧いてこなかった。彼女はそのことに驚いたが、それよりも美冬の美しい紫と銀色の瞳に惹きつけられた。しかし目の前でラベンダー色のワンピースを着ている少女は、AFZ社員の視線を平然と受け止めて口を開いた。
「いえ、孔さんには車で自宅まで送ってくれて、大変お世話になりました。相変わらずお元気そうで・・・。私も孔さんに会えて嬉しかったです」
「あちゃー、うちの息子、美冬ちゃんにそんなこと言われたら、のぼせてぶっ倒れるかもしれないよ。美冬ちゃん、あんまりうちのバカ息子を褒めないでね。すぐ調子に乗って良からぬことをするのよ、あいつは」
谷口楓は右の瞳を瞑り右の口角が上がるように力を込めて困惑の表情を浮かべた。そして右手で黒いショートヘアを申し訳なさそうにカリカリ掻いた。美冬はクスッと笑った。
「美冬ちゃんはさあ、死ぬ直前の後藤さんに会ったのかな?」表情を戻した谷口楓は世間話をするように、微笑んでいる少女に訊いた。
「はい・・・、会いました」美冬は少し考えて返答した。
「よかったら、その時の様子を教えてくれないかな。私、後藤さんと長く同じ部署で一緒に働いていたんだ」
「そうですか・・・・・・。一か月前に、私はこの通路の真ん中あたりに佇んでいました」
「うん」小柄なAFZ女性社員は頷いた。
「ちょっと疲れていて、ぼんやりと壁とか窓とか下の様子を眺めていました」
「うん」
「知らないうちに・・・後藤さんという方が隣に来て、私に話しかけてくれました」
「うんうん、ビックリしたでしょ」谷口楓は勢い良く二度頷いた。
「いえ、そんなことなかったです」
「へぇーっ、そうなの。うん、それで?」
「それで、後藤さんは『今から・・・始まる』と私に言いました」
「ふーん、『今から・・・始まる』ですかぁ」
「私は「何が・・・始まるのですか?」と後藤さんに訊いたのですが、彼は何も答えず、ニ―ッと感情のない笑いを浮かべただけでした・・・・・・」
「そして美冬ちゃんは後藤さんと別れたんだね」
「・・・・・・はい」美冬は呟くように答えた。谷口楓は美冬の小さな声を聞くと、東側日用品売り場の方へリズミカルに歩き出した。そして彼女は通路の真ん中あたりで止まった。そして美冬に向かって手招きした。肌色のカーディガンを羽織ったワンピース姿の少女は誘われるままに歩き始めた。美冬が通路の真ん中あたりに行くまでに昨日の高梨亭での出来事が脳裏に浮かんでは消えていった。彼女にとって、それらの出来事は遠い過去の出来事のように思われた。そして後藤との会話はまるで昨日のように身近に感じられた。
「うわーっ、ここから飛び降りて首を括ったのかぁ・・・後藤さんはぁ」谷口楓は手摺壁から階下を見下ろすと、瞬間的に眼を瞑り口を歪めた。美冬も同じように階下を見下ろした。一階イベントフロアには買い物客が交互左右に歩いている。
「谷口さん・・・、私がエスカレーターで下に降りようとした時、後藤さんは右手に荒縄を持っていて・・・、彼は自殺しようとしていました。そのとき私は後藤さんが自殺するのを止めようとしたと思います」
「うんうん」
「だけど、私の体はそのとき全く動きませんでした。彼の行為に怖気づいてしまったのではないと思います。まるで自分の時間が凍り付いてしまったかのように動かなかったのです。ただ・・・」
「ただ・・・?」谷口楓は慈しむように隣の少女を見た。
「私は呼吸をして見ることだけはできました」
「そうなの」AFZ女性社員の灰色のジャケットの左腕と女子高校生の肌色のカーディガンに包まれた右腕は接していた。
「谷口さん・・・、私は人が困っていることに遭遇しても何もできない人間です。暴力や人を損なう力に対して何もできないような気がします・・・」美冬は後藤が落下していった地点を見つめていた。
「美冬ちゃん、今はこんな世の中だからね、みんな力を持ってないと安心しないよね。自分を守るために、薬やったり体にいろんなモノを入れたり遺伝子を操作したり、私みたいに武術を会得したりね。私は結構強いんだよ、エへへッ。あーっと、それでさぁ強い者が生き残るみたいな風潮が蔓延るようになったよね。まあ体の力だけじゃなくてお金の力とか地位の力もあるけどね」
「はい」美冬は小柄な女性の顔を見た。
「でもさっ、そういうことをやって来たから、ヒトって生き物はこんな世界を造ってしまったのかもしれない」
「・・・・・・私にはよく分かりません」
「アーッ、自分が強いって威張っている人間がそんなこと言うって変だよねーっ。矛盾してるし説得力ないかぁ」谷口楓はまたも右眼を瞑り右手で黒いショートヘアを掻いた。
「いえ、そうじゃないです、谷口さん。そうじゃなくって私は自分の意思みたいなモノが欠けていると思うのです。どんな場所に居たって同じように、相手の言われるままに受け入れてしまうんじゃないかなと。後藤さんの時だってそうかもしれません・・・」美冬は再び階下のフロアに眼を落した。
「ふーん。でもさっ、それはさぁ、美冬ちゃんは他の人から求められているとも言えるんじゃないかな。うーん、まあ中には変な奴もいるから難しい問題だねぇ。それから私はねぇ、痩せこけてお化けみたいになってしまった後藤さんを誰も止められなかったように思うんだ。後藤さん、ホントは達磨さんみたいに太っててニコニコしていた人だったんだよ」谷口楓はそう言うと眉間に皺を寄せて両腕を組んだ。
「あっ、そうでしたか・・・」少女は少し顔を上げた。
谷口楓は美冬の可憐な横顔を見ると、組んだ腕を解き両手を腰に当てた。
「私はねぇ、後藤さんが死んでしまって凄くショックだった。だけど彼が美冬ちゃんを見て笑ったってことが分かって嬉しかったよ」
「・・・・・・?」美冬は隣の女性の黒い瞳を見つめた。
「美冬ちゃん、運命ってものは変えられるかもしれないし、変えられないかもしれない」
「エッ?」
「フフフッ、じゃあ、またね。美冬ちゃん」AFZの幹部社員はそう言うと美冬の両手をしっかりと握った。それから「バイバーイ!」と言い足早にその場所を離れた。日用品売り場手前にあるエスカレーターに乗ると、彼女は下りながら美冬に手を振った。美冬は呆気にとられながらも反射的に小さく右手を振った。谷口楓は二階に下りると姿が見えなくなってしまった。




