北の灯台
香がステアリングを握っている青いBMW M2クーペは線路に沿った片側二車線の道路を疾走していた。車窓から見える風景には黒いマンション群はなく、朽ち果てた民家が点在している。
「香さん、ここもまだ街の中なのでしょう?」水樹晶は遮光グラスをかけている美しい運転手の横顔を見た。
「ええ、そうですよ。フフフッ、街の外に関しては晶さんの方が詳しいのではないかしら」香は楽しそうに微笑んだ。
「ああっ、そうだった。僕は何でも香さんに頼ってしまうからなぁ」晶は顔を左に向け再び窓の外の風景を眺めた。
「この辺りはどうして荒れ地に飲み込まれていないのか?」黒いフェイスガードをつけた小柄な青年は呟いた。
「晶さんが見た街の外とは違いますか?」美しいドライバーは前方を見ている。
「そうだね。街の外の風景とは全く違う。街の外は文字通り荒野だった。荒れ地と大きな道路が一本、そして空気と黒い雲だけしかなかった。雨は降っていたかな・・・。どうだったかな。香さん、そこには何も無い。本当に何も無いんだ。荒れ地は荒れ地として存在し、黒い雲は黒い雲として在るだけで、それらはお互い何の関係もない。バラバラだ。世界の終わりみたいな風景だった。時が進めば、この惑星の全ての土地があんなふうになるのかもしれない」香は曖昧に小さく頷いた。
「・・・・・・晶さん。街の外にはいわゆる『工場』や『施設』は無かったのですか」
「僕は見なかったな。もっと歩き続けていたら見つけられたかもしれない」
「そうですか。でも晶さんは街の外に出て再びこの街に帰って来られたでしょう。それはやはり稀有なことですし、私は晶さんに再び会うことができてとても嬉しかったですよ」香は少しの間、隣座席に座っている男を見た。その男は相変わらず左を向き殆ど変わらない風景を見ていた。
「猪口先生・・・・・・」
「エッ?」香は晶の声に驚いた。
「死んだ白石先生とよく一緒にいた教師がいた。猪口権っていう国語の教師だけどね」
「そうですか・・・。晶さん、その猪口先生って方は亡くなられた白石先生とよく一緒に行動されていたのですか?」
「そう・・・。どちらかというと猪口先生は白石先生に気を遣っているみたいだった。僕は猪口先生が好きだった。現代国語の授業は面白かったよ。彼はとても沢山の本を読んでいる。教養があるって僕は感じた。だけど不器用で軽薄そうに見られて、人から笑われる対象なんだ。どうして周囲の人間は猪口先生を馬鹿にしているのか僕は分からない。それよりも彼は教養のある人だけど、とても偏った人間だと思う。誰しも偏ったところはあるけど、彼はその偏りが異常だと僕は感じた」
「でも晶さんは猪口先生が好きなのですね?」
「そうだね。どうして彼を好きなのか、それはよく分からない。そして何故、今、猪口先生のことが頭に浮かんだのだろう・・・」晶はゆっくりと顔を香の方へ向けた。
「一緒に行動されていた白石先生が亡くなられたからかしら。昨夜のことですから」
「うん・・・」晶は自分の足元を見た。そして左腕に嵌めている銀色の腕時計を見た。
「もう九時前か・・・」
「私の家を出てから一時間以上経ちますね。晶さん、お腹空いてはいないですか?」
「いや、僕はあまり朝は食べないから。あっ、香さんはお腹空いているんじゃないですか?」晶は慌てて運転手を見た。
「そうですよ、晶さん。私は食いしん坊だから朝食はちゃんととりますよ」香は晶を軽く睨む真似をした。
「ごめん、僕はどうも自分勝手で・・・」
「フフフッ、大丈夫ですよ、ちゃんとサンドイッチとコーヒーは用意していますから。それに私も灯台には行きたかったので」
「うん・・・、だけどどうして灯台を、そして海を急に見に行きたくなったのだろう? よく分からない」
「そうですか・・・・・・」それからしばらく二人は話さなかった。その沈黙は晶にとって緊張を強いるものではなかった。
午前十時を過ぎた時、青いBMW M2クーペは灯台の見える海岸に着いた。香が操るスポーツカーは堤防沿いの道路を東へゆっくりと進んだ。その道路の右側に砂利が敷かれている場所があった。香と晶を乗せた青い自動車はその場所に止まった。そこには黒い三菱パジェロエクシードが一台止まっていた。
BMW M2クーペから降りた晶は海岸の方を見上げた。彼の視線の先には真っ白な巨大灯台が屹立していた。
「どうして・・・・・・」晶はその白い巨大な灯台に圧倒され、青いスポーツカーの前で佇んでしまっていた。
「晶さん」透き通った声が晶の耳に届いた。そして晶は自分の右腕に香の左腕が絡んでいることに気がついた。
「どうしましたか?」香の長い黒髪は海岸から吹いてくる風に揺らいでいた。
「灯台って、こんなに大きかったかな」晶の放心したような声に促されて香も前方の灯台を見上げた。
「はい、北の灯台は昔からずっとこの大きさですよ、晶さん」
「そうか・・・。香さんは、何回もこの灯台を見に来たことがあるんだね」
「ええ、私は父に連れられて何度もここで北の灯台を見に来ました。晶さんもここに来たことがあるのでしょう?」遮光グラスを外した香の瞳は眩しそうに北の灯台を見上げ、そして自分より背の低い男を見つめた。
「ああっ、うん・・・確かに白い灯台を見た記憶はあるよ。だけどその記憶はすごく曖昧なんだ。ここに来たような気もするし違う場所かもしれない。灯台がこんなに大きいとは思わなかった」晶は眉間に皺を寄せながら答えた。彼の右腕に絡んでいる茶色のブルゾンに包まれている左腕に少しだけ力が込められた。晶は眉間に力を込めるのを止めて右を向いた。
「ねえ、晶さん。少し遅い朝ごはんにしません? 私、お腹空いちゃったんです」香は悪戯っぽく言った。
「アッそうだね。ごめん、香さん。うん、朝ごはんにしよう」十七歳の高校生は自分の鈍感さを恥じた。
「晶さん、以前、私の部屋でたくさん朝ごはんを召し上がったのに今日はお腹が減らないのですか? やはり白石先生が亡くなられたからかな」
「うーん、いや、そうじゃないと思う。僕はただ目の前の白い灯台の巨大さに圧倒されて、頭の中にあるいろんなことが吹っ飛ばされたみたいだ。冷たいようだけど白石先生のことは忘れていた。食欲のことも・・・」
「フフフッ、晶さんはやはりとても繊細です。それから複雑」高梨香は形の良い鼻を水樹晶の小さな鼻に触れそうになるほど顔を近づけた。晶はほんの近くにある香の黒い瞳を見つめた。その潤いのある黒い瞳が急速に遠ざかり彼の周囲は漆黒の闇に塞がれた。
(「塞がった世界にも綻びがあるのよ」楽しそうな声が聞こえる。少女に引っ張られるように砂浜に来た。その建造物の巨大さを実感できなかった。その建造物は禍々しくもあり、神聖でもあった。僕は小さな手の温もりを感じていた・・・・・・)
「・・・・・・晶さん、晶さん」晶の眼の前に心配そうな黒い瞳があった。気がつけば晶は香と砂浜にある木製のベンチに座っていた。
「あれっ、ここは?」
「ここは海岸の砂浜です。晶さんが『もっと灯台の近くに行こう』と言って私を引っ張ってきたでしょう」香は少し頬を膨らませ、ぼんやりした少年の顔を睨んだ。
「あっ、そうだったかな・・・」
「フフッ、そうですよ。さあ朝ごはんにしましょう、晶さん」
「あっ、ごめん、香さん。そう言えばお腹がペコペコだ」
「エーッ、さっきまで食欲のことも忘れていたって言ってませんでした?」香は楽しそうにベージュ色の鞄からサンドイッチの入ったタッパーを取り出した。そしてコーヒーの入った青い水筒も取り出した。それから白いビニール袋に入ったお手拭きを晶に手渡した。
「香さんはいつも準備万端っていうか用意周到だね」
「そんなことはないですよ」
晶は手渡されたミックスサンドイッチを頬張り、ゆっくりとブラックコーヒーを飲んだ。
「このサンドイッチもコーヒーもすごく美味しい。香さんは何でもできちゃうんだね」
「いえいえ、そんなこと、ないです・・・」香の白い頬が薄っすらと朱鷺色に染まった。香の食欲も隣の男子高校生と同じように旺盛で健康的だった。
二人は並んでコーヒーを飲みながら海を見た。空は重く黒い雲に覆われ、勢いのない灰色の波が砂浜にやっと辿り着いては消えていった。そして長大な鉛色の防波堤の上に屹立している巨大な白い灯台が異彩を放っている。
「ねえ香さん。人間はどうしてあれ程まで大きな灯台を作ったのだろうか? 今、船舶はほとんど動いていないでしょう?」晶は敵意と哀れみをもった眼差しで前方を見上げた。
「そうですね。晶さんの言う通り、今、船はほとんど動いていないと思います。選ばれた漁師が近海で漁を行っているだけだと聞いています」香も隣の青年と同じ方向に視線を向けた。
「だったらあの建物は灯台としての役割は果たしていない?」晶は眉間に皺を寄せ眩しそうに巨大な建造物を見続けている。
「あの北の灯台は船舶を守ることよりも違った役割があると父から聞きました」
「違った役割・・・」晶は灯台から眼を離し香の横顔を見た。潮を含んだ風が吹き、香の豊かな黒髪が波打つように揺れた。香は両手で揺れている黒髪を押さえ晶を見た。
「父はあの北の灯台はヒトの抵抗の『しるし』だと言っていました」
(ヒトの抵抗の『しるし』・・・・・・)晶はその言葉に嫌悪した。(あんな巨大なモノを作ったって、どうせ実体は中身の無いハリボテみたいなモノだろう?)晶は聳え立っている白い灯台の欺瞞性を暴こうと怒りを持ってその巨大な建造物を睨んだ。彼の頭の中は空洞のようになり、小さな黒い瞳は銀色に変わった。晶の隣に座っている香は二人の周りの気温が急に下がったように感じた。
水樹晶は北の灯台の存在の儚さを見て取ろうと眼を細めた。その無意味な巨大さもいつかは朽ち果てて砂や赤錆に戻ってしまうと思った。しかしその建造物はいつまでも白い形を変えずに立っていた。彼の意識が遠い未来に飛んでいっても北の灯台は同じ姿で屹立している。
(「世界を包む終焉の風に立ち向かっているのよ・・・・・・」)水樹晶の脳裏に聞き覚えのある声が優しく響いた。気がつけば香の黒く輝く瞳がまたも目の前にあった。
「・・・晶さん、大丈夫ですか?」その透き通った声が晶の脳に届いた。すると香の豊かな黒髪、知的な瞳、白い頬、紅い唇、茶色のブルゾンジャケット、白いブラウス、藍色のストレートジーンズ、白いバスケットシューズが彼の眼に飛び込んできた。小さな銀色の瞳は黒に戻り、水樹晶は現実世界に舞い戻った。
「香さん・・・、北の灯台は、抵抗の『しるし』・・・」少年の零れ出た言葉に高梨香は小さく頷いた。彼女は立ち上がり、右手を上げ前方を指差した。晶も立ち上がり香の指さす方を見た。
白い人差し指の先には鉛色の防波堤があった。その防波堤の上を一人の男がこちらに向かって歩いている。時間が進むにつれ、その小さな人影が徐々に大きくなってきた。深い緑色の野球帽、カーキー色の上下作業着と黒く頑丈そうな靴という格好の男が晶たちに近づいて来た。その男は防波堤の階段を降り砂浜を斜めに横切るように歩いて来る。
晶は面識のない男が近づいて来ることに緊張したが、隣に立っている香は平然としていた。二人の目の前に来た中肉中背の男は無精ひげを生やしその顔には皺が多く刻まれ、頑丈な鼻は角ばっていた。分厚い瞼の下にある黒い瞳は意志的な力を有しており、晶にとってその瞳は何故か馴染みがあるように感じられた。
「お久しぶりです・・・、香さん」かすれた低い声が響いた。
「お久しぶりです。宮森さん」香はにこやかに答えた。宮森と呼ばれた男は頷くと香の隣に立っている晶を見た。
「晶君か・・・・・・、久しぶりだな・・・・・・」北の灯台から来た男の言葉は晶の胸に重く届いた。
「・・・・・・」晶は目の前の武骨な男に何を言って良いのか分からなかった。香は黙っている隣の少年を見て、そして目の前の男に訊いた。
「宮森さん、北の灯台は変わりませんか?」
「ああっ、変わらない。ただ・・・」
「ただ・・・?」
「ここに来る人間は・・・もう、ほとんどいない・・・・・・」
「そうですか・・・」強い風が香の黒い髪を吹き上げた。
「あっ、・・・」晶は北の灯台を見上げながら小さく叫んだ。彼はしばらく叫びをあげた口を閉じることなく、意思のない眼差しを巨大な建造物に送っていた。
「晶さん、どうされました?」遠くから香の声が聞こえる。晶の眼には北の灯台が二つにぼやけて見えた。そしてその一つの灯台が一番上の部分の風見からひびが入り、瞬く間に建物全体に亀裂が入っていった。そしてその灯台は下から脆くも崩れ去った。その隣にはもう一つの灯台が朧げに立っていた。
「・・・・・・壊れる」晶は呟いた。その言葉に香は黒い眉を眉間に寄せ、紅い唇を噛みしめた。
「そうか・・・、晶君・・・」北の灯台から来た男はそう言うと香を見た。香は一瞬困ったように微笑んだ。
宮森は背を向けて北の灯台に向かって歩き始めた。香は何か言いかけたが口をつぐんだ。隣の少年は北の灯台を見上げ続けていた。二人に背を向けた男の姿は徐々に小さくなり防波堤の上を北の灯台に向かって歩いている。香はその男の姿が北の灯台の近くに来ると見失ってしまった。彼女は宮森が北の灯台が発する白い光に飲み込まれたように思えた。
水樹晶は放心したように北の灯台を見上げ続けていた。




