猪口権の秘密と怒りと欲望
酔いが冷めた猪口権はエレベーターが一階に止まっていることに気づいた。玲はエレベーターから出て人気のない道の真ん中にいた。彼女は道の傍にある用水路のような川を見ていた。
「へへへッ、玲ちゃん、何を見ているんだい?」猪口権はしっかりした足取りで玲の横に真っ直ぐ歩いて来た。
「猪口先生、この川も殆ど水が流れていません」
「そりゃあそうだろ。今どき、街中に水なんて流れていないよ」
「でも、あたしが初めてクロノに来たときは、もっと水が流れていたと思います」
「ふーん、そう。まあねぇ、そんなことはどうでもいいよ。玲ちゃん、君もいっぱい酒を飲んで疲れたんじゃないのか? おい、何処かで休憩するぞ。僕も少し酔っちゃたしねぇ」男は卑屈な眼をしていた。
「猪口先生、少し歩きましょうか」玲は探るような眼で猪口を見た。
「そうだな、僕は玲ちゃんの行くところだったら何処でも行ってやるよ」小太りの中年男は強引に玲の右肩を掴んで引き寄せた。玲は隣の男に寄りかかられながら歩いた。彼女の体は猪口の図々しい重さを感じていた。
「玲ちゃん、あそこに公園がある。へへッ、少し休もうか」男は有無を言わさず玲を公園に連れてきた。公園の真ん中に立っている灯りは弱弱しい光を放っていた。
「玲ちゃん、お前の顔を見たいなぁ、ハンッ! 見てやろうか?」城北高校の高校教師は白いブレザーを着た小柄な女性を公園の照明灯のポールに押し付けた。灯具から降りてくる僅かな黄色い光が玲の眼鏡のレンズに反射して男の濁った眼に入った。
「チッ、何だ、そのふざけた眼鏡は。眩しいじゃないか。こらっ、村上玲!」男は玲の紅いフレームの眼鏡をつかみ取ると放り投げた。
「お前もあの欲情したサルについて行っただろう? おい、村上玲。お前は何もない空っぽな女だろう。あんな何も考えていない男の精液でも欲しかったのか。この変態女!」
猪口権は大きな白い歯を剥き出して玲の白く細い首を両手で絞め上げた。
「ウウッ・・・・・・」玲は唸りながら男の紫色の顔を見た。
「何だぁ、その憐れむような眼は! 畜生、どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって。ふざけるな!」猪口は両腕に更に力を込め、玲の体は地を離れ小刻みに震え出した。男が手を離すと玲は公園の地面に倒れ込んだ。玲の喉から「ヒューヒュー」という呼吸音が聞こえた。
「あの白石のバカは女を虐めることだけは頭が回ったからなぁ。弱くて何もない女は暴力さえ喜んで受け入れるよねーっ。玲ちゃんもそうだろう? 僕はそういう場面をたくさん見て勉強してきたよ。だって教師は教材研究を怠ってはいけないだろう。僕は極めて真面目で優秀な教師さ。玲ちゃんもそう思う? 何だぁ! その馬鹿にした目はぁ!」高校教師は倒れている女の茶色い髪を掴んで引きずりまわした。そして村上玲を仰向けに倒して馬乗りになった。
「そんな憐れむような眼で教養溢れる僕を見るんじゃないよ、この売女! 僕の周りにいる奴はどいつもこいつも何も分かっちゃいない大馬鹿者たちだぁ。僕の聡明さを、この輝く知性を誰も認めない。許さんぞ、許さんぞ、畜生、馬鹿どもめ。おい、村上玲、お前はこんなふうに虐められて喜ぶ変態だろう。もっといい気持ちにさせてやるから感謝しろよ、ヘヘーッ」自分を聡明だと思っている男は手の跡がついた玲の白い首に再び両手を這わせた。彼の大きな口の両端から唾液が零れ落ち、玲の蒼ざめた頬にかかった。
「さあ、もう一回さっきみたいにピクピクしようねぇ。今度は首を絞められた快感でいっちゃうかなぁ、どうだ、変態女? へへへッ、」猪口権は玲の白く細い首を絞め上げた。
「おい、豚・・・・・・」背後からの冷たい声に城北高校の教師は反射的に振り返った。その瞬間、彼の視界が細長いものに覆われ、打撃音とともに鼻から焦げ臭い匂いがした。目の前が真っ白になり、太った体が後方にゴロンゴロンと二回転した。そして顔面に激痛が走り首の後ろに重い痛みを感じた。
「村上玲、お前、何やってんだ?」仲野仁は玲の上体を抱き起した。そして紅いフレームの眼鏡を手渡した。
「ありがとう・・・ございます」地面にへたり込んだまま、玲は紺色の清掃服の男に頭を下げた。
「いてててっ、痛いなぁ。誰だ、君は? せっかく人が楽しんでいるのに、邪魔をして。許さないぞぅ」
猪口権の丸く小さな鼻から大量の血が流れ落ちていた。彼はスーツジャケットのポケットからティッシュペーパーを取り出して、鼻の周囲を丁寧に拭いた。そして「フン!」と息を吐くと鼻からの出血は止まった。それを見て仲野仁は、楽しそうに笑った。
「変態豚が人様の名前を訊くんじゃねえ」仲野はゆっくりと猪口の方を向いた。
「それからお前、変な薬、やってるだろ?」清掃服を着た男は少し腰を落とした。
「当たり前だろ。こんな時代に長生きしようと思ったら薬とか飲まないとやってられないじゃないか。それに僕は城北高校の教師だぞ」猪口権は立ち上がった。
「あそこだって変な奴はいるだろ」と仲野が言った時、彼の顔に向かって小石が数個飛んできた。玲は数個の小石が仲野の顔面を通過したように見えた。
「アレッ?」そう言った男の脳天に仲野の右踵が食い込んでいた。
「いてっ」高校教師は自分の頭頂にある仲野の右足を両手で掴もうとした。だが仲野は既に空中を舞っていた。高校教師の頭からダラダラと血が流れ始めていた。
「アーッ、また血が出ちゃったよう。痛っ。スーツが汚れるじゃないかぁ」猪口権は流れ出る血をハンカチで拭いた。そして大きく息を吐くと頭からの出血が止まった。
「お前、どんな薬、やってんだ? 気色悪い体だなあ」仲野は薄ら笑いを浮かべながら猪口から五メートルの間合いを取った。
「ウウッ、頭が痛いよぅ。玲ちゃーん・・・」膝をつき呻きながら猪口権は頭を抱えて地面に突っ伏した。その瞬間茶色いスーツ姿は一気に仲野の眼の間に移動した。四つ足で突進した猪口権の大きい頭が仲野の腹に激突する寸前に「グチュ」という音がした。仲野の右膝が猪口の赤黒い顔にめり込んだ。その衝撃で猪口の小太りの体が伸びあがった
「フン!」仲野の右足が強く地面を踏み込んだ。玲は仲野の周りの空気がぼやけたように見えた。AFZ裏保安員の左掌が真っ直ぐ伸び猪口権の鳩尾に当たった刹那、小太りの中年男は十メートルほど弾け飛んだ。猪口権の体は数回地面にバウンドして止まった。その体は細かく痙攣している。
「猪口先生」玲は立ち上がり白いロングスカートの土をはらった。そして三歩進んで仰向けになっている男を見た。仲野仁に吹っ飛ばされた男は白目をむいてピクピクと体を震わせていた。裏保安員はゆっくりと猪口権に近寄って行った。
「豚というよりまるで猪だなぁ。この薬まみれの猪は死にゃあしないさ」仲野は面白そうに右足で横になっている男のわき腹を突いた。
「ハアハアハアハア、ウーッアーァ」猪口権は唸りながら辛そうな表情を浮かべた。時折小刻みに体が震え大きな口の周りには白い泡がへばりついていた。
仲野は照明灯の傍に立って服の埃を払っている玲に歩み寄った。そして淡い オレンジ色のバッグを玲に手渡した。
「アッ、ありがとうございます」玲は仲野の細い眼を見た。
「お前、林田主任の傍にいた方がいいぞ」仲野仁はそう言うと玲に背を向けて去って行った。玲はしばらくその場に佇んでいた。そして夜空を見上げた。彼女の見上げた空は星一つなく、奥行きの無い黒い闇があるだけだった。
玲は仰向けに横たわっている猪口権を見て、それから仲野を追うように公園から出て行った。




