幻影と回想のエレベーター
「ありがとうございました」カウンターの奥にいる黒野の機械的な声が二人の背中に届いた。玲が振り返ると名都と眼が会った。
「玲さん、また来てくださいね」玲は小さく頷いた。
「名っちゃーん、ヒャッヒャー、バイバーイ!」酔っぱらった猪口権は大きく右手を振った。
「猪口先生、お気をつけて」
「おーぅ、分かっちょるわい! 玲ちゃんをちゃんと送るから。ヒヒヒッーッ、大丈夫、大丈夫ぅー」小太りの中年男は大きく体を揺らしながら玲の体に持たれてBAR「クロノ」から出て行った。
猪口権は四角い顔を玲の左肩に預けていた。彼は薄目を開け分厚い上唇を白い舌で舐めまわし右腕は玲の細い腰を強く抱きしめていた。玲は表情を変えずにエレベーター出入口の丸いボタンを押した。一定の質量を感じさせる物体が空気を押しのけて上がって来た。二人の目の前に黒いエレベーターのドアが音もなく開いた。玲はゆっくりと四角い箱の中に入った。彼女の左肩にもたれかかった男は不規則な横歩きをして狭い空間にその身を置いた。
「猪口先生、一階のボタンを押していただけます?」
「お、おうっ」猪口権は右腕を玲の腰に回したまま短い左手を伸ばし一階のボタンを押した。重力が減る感覚が二人を包んだ。
「玲ちゃんはいい匂いがするねぇ、へへへッ」男は赤紫色の顔を女の白いブレザーを蹂躙するようにこすりつけた。
「・・・・・・」
「いやぁ、今晩は久しぶりに美味しいお酒だった。ヒヒヒッ、くたばった白石を酒の肴にするとスコッチが美味いよねぇ、そう思うでしょ、玲ちゃん?」男は瘴気のような息を吐き続け、玲は少しだけ薄く細い眉をひそめた。
「猪口先生は白石先生が死んでしまって淋しいのでは?」玲は眼前にある細く濁った眼を見た。
「へッ! あの欲情したサルがくたばって淋しい? 玲ちゃんは酔っぱらっているのかい。へへ―ン、我が城北高校であの馬鹿が死んで悲しむ人間なんて一人もいやしない。いや、世界中を探したって一人もいやしないっ。そうに決まってるじゃないか!」中年男は甲高い声を発した。その顔は蒼く黒くなり病的な様相だった。
「猪口先生は白石新次郎に憧れていたのではないでしょうか」玲の蒼い瞳は遠い景色を眺めているように目に前の男の四角い顔見た。
「ヒャハハハーッ、玲ちゃんは面白いことを言うねーっ。なかなか良い冗談ですよ、それは。へヘヘーッ、あんな下劣な欲情したサルに憧れる人間は、頭のネジが緩んだ変態的なドⅯ人間しかいないよぅ、玲ちゃん。ヒヒヒッ、玲ちゃんはあの馬鹿に憧れていた変態女かなぁ」猪口権は短い両腕で華奢な体を引き寄せて抱きしめた。そして、その女のピンクの頬に白く短い舌を這わせた。
「猪口先生は白石新次郎の跡をいつも追いかけていたのでしょう?」欲情して真っ赤な顔をした男の中に何かが途切れた。彼の頭の中にブチブチブチいう音が響いた。
(白石新次郎と初めて職員室で会った時、僕は奴に傅いてしまった。この男は僕の持っていないモノを持っている・・・・・・、ああっ何てことだ!)猪口権は眼前にある玲の蒼い瞳を怒気を持って見つめていた。
(羨ましい。あいつは僕を見つけるとニャっと笑った。僕が何を求めているのか見透かしたように。そして僕の前にツカツカと歩いてきて言った。『猪口権先生ですか? 今日から城北高校の一員になる白石新次郎です。よろしくお願いいたします』あいつは僕の手を取って親密そうに握手をした。だけど僕は分かっていた。あいつは僕のことを下僕や奴隷扱いできるってことを。僕は白石新次郎に逆らえないことを分かっていたし、僕はそれを望んでいた)
猪口は玲の蒼い瞳しか見えなかった。彼女の瞳は中年の国語教師に寒い場所を思い起こさせた。草木もなくマンションもなく荒れ地の中に一本の道路があるだけだった。街の外に風景・・・・・・。猪口は現代国語を教えているとき、時折この風景が頭に浮かんでいた。その何もない風景を自分以外の誰かが見ていた。(冷ややかささえも無い無機質な眼、銀色のアルミのような眼差し・・・。奴だ。水樹晶が僕の頭の景色を見ている。僕は自分の頭の中にある風景を奴に覗かれていることに恐怖した)
(『もーぉ、権先生。はっきりと言ってくださいよ。先生の言い方はいつも中途半端だから、どう解釈していいいか分からないです!』宮森華がいつものように頬を赤くさせてプンプン怒っている。白石は宮森華の存在に驚いていた。だからときどき彼女から逃げるように演劇部に来たのか?)
演劇部顧問だった男は白石が演劇部の活動に介入し、渡辺美冬以外の部員に秘密裡に接していたことを知っていた。白石と接した演劇部の生徒は一人一人といなくなった。そして演劇部には渡辺美冬しか残らなかった。結果としてそうなったのか、それとも白石が意図してそうしたのか、猪口には分からなった。白石が渡辺美冬を呼び出して彼女を暴力で蹂躙する場面を猪口はいつも覗き見していた。その時の美冬は白石に操られた人形のように見えた。同じような生徒がもう一人いた。(ああ、あの子は内田南だったのか? 今日、ライトハウスでコーヒーを淹れてくれた南とまったくの別人だった。南の淹れたコーヒーは美味かった。不味いのはあのお高くとまった飯塚綾子って傲慢で浅薄な女が淹れたコーヒーだ、畜生! ふざけやがって)
猪口権は玲の蒼い瞳を見つめていると、彼の脳裏に様々な場面が浮かび上がってきた。
BAR「クロノ」でも白石がそこで飲んでいた女と何処かに行ってしまうのを目撃した。白石がカウンター席に座り猪口はテーブル席に隠れるように一人で座っていた。(白石が女と連れ立って店を出るとき、いつも自分を見て嘲笑していた。その顔は『お前は何も出来ないだろう? お前はそこで何をしている?』と僕に言っていた。何処に居ても自分は白石の影の一部のようだった)
猪口が見つめている玲の瞳が藍色になった。その瞬間、彼の頭は割れるような痛みを感じた。頭の中にある硬い扉が凄まじい力で無理やり開けられ、黒い霧のようなものが溢れ出た。
(白石が高梨邸に行ったことを見届けた僕はマンションで遅い夕食をとった。コンビニエンスストアで買った弁当を食べ終わった時、ベランダに何かいると気づいた。僕はベランダを見ると手摺に黒い鳥が止まっていた・・・・・・。そして白石は死んだ)




