猪口権はBARクロノで村上玲の隣の席に座る
「いらっしゃいませ」名都の声と共に紅い眼鏡の女が振り返った。猪口権はその女が一人でいることを確認した。城北高校の国語教師は紅い眼鏡をかけている村上玲の右隣の席に座った。
「こんばんは、へへっ、ここ座って構いませんか、へへっ」
「あっ、ハイ」玲は少し驚いた。そしてこの男を以前この店で見かけたことを思い出した。
「すみませんねぇ、お嬢さん。迷惑じゃなかったかなぁ、へヘヘーッ。おっと、名都さん、アードベッグをロックで。へへっ、この店ではスコッチですよねぇーっ、そうでしょ名都さんーっ」猪口権は名都と玲を交互に見ながら言った。
「はい」名都は猪口の前に紺色のコースターを置き、その上に水の入ったグラスを置いた。
「名都さん、知ってる? あの白石新次郎が死んじゃったんだよ。ヒヒッ、可哀そうに」
「本当ですか。三日前にお店に来られたときはお元気そうだったのに」女性バーテンダーは茶色の大きな瞳を一瞬見開き、それから紺色のコースターの上にスコッチウイスキーの入ったバカラのグラスを置いた。
「ふふーん、あの馬鹿は池で溺れ死んだのさ。あいつは泳げなかったのさ。まわりは鯉っていう魚がウヨウヨ泳いでいたのにね。ハハハ―ッ、面白いでしょ? へへっ」くたびれた茶色のスーツを着ている男は嬉しそうにアードベッグを飲んだ。その男の喉から「ウッグン、ウッグン」という音がした。
「鯉が泳いでいる池で白石先生は溺れ死んだのですね・・・」名都は目の前の中年男を見て、それから隣に座っている玲を見た。
「うん、そうだよーっ、名都さん。僕は生まれて初めて鯉って魚を見たよ。へへッ、まあ鯉っていう魚がいることは当然知っていたけどね。あいつらは太っていて口をパクパク開けてユラユラ泳ぐ下品な生き物さ。下品で下劣な白石の死に場所に相応しい魚だよねぇ、ヒャヒャヒャー。白石新次郎も鯉みたいに口をパクパク開けて死んでいったんじゃない? あいつは口だけはパクパク動いてたからねぇ、言ってることは無意味だけど。ヒヒヒッ、いい気味だ。そう思わない? 名都さん」赤黒く狭い額に汗が浮かんでいる男はまたも「ウッグン、ウッグン」という音を立ててスコッチウイスキーを飲み込んだ。
「鯉が泳いでいる池が、この街にもまだあったのですね」名都はグラスを白い布で磨きながら言った。
「そうだよ!っ、名都さん。何処だと思う? あっ、あなたも何処だと思いますか、へへっ知らないかなぁ?」猪口権はゆっくりと短い首を回して左隣に座っている玲を見た。
「さあ、どこでしょうか・・・」と玲は少し左に顔を傾げて、隣の男の無遠慮な視線を受け止めた。
「腹黒い白石新次郎が口をパクパク開けながら溺れ死んだ場所はねえ、この街一番の金満家、高梨巽様のご自宅だったんだ。白石みたいな下品な奴が神聖な高梨家に行くから天罰が下ったんだよ、ヒッヒッヒッーッ」
「高梨本部長のお家ですか・・・」玲の口からその言葉が零れ出た。
「ほう、あなたは高梨巽さんをご存知ですか?」高校教師の落ち着きのない濁った瞳が静止して隣に座っている女性の蒼い瞳を覗き込んだ。
「はい、あたしはAFZに勤めています」
「そうですか、ヘヘーッ、じゃあ巽さんを知ってるわけだ。ヒヒッ奇遇ですねぇ。私もあの高梨巽さんにはいろいろとお世話になってましてねぇ。学校関係者であの方と繋がりがある人間は殆どいませんよ。あなた、この意味お分かりでしょう?」猪口教諭は尊大な態度で氷だけ残っているバカラを額の高さまで持ち上げた。
「猪口先生、同じもので?」
「ウム」猪口はゆっくりと頷いた。そしてスーツのジャケットの内ポケットから黒い名刺入れを取り出した。黒い名刺入れは角が擦り切れて白くなっていた。その名刺入れから真っ白い名刺を取り出して、それを玲の顔の前に突き出した。玲は両手でその真っ白な名刺を受け取り凝視した。
「イグチ・・・ゴン先生ですか?」
「ウム、そう。権力の権でゴンと読む。あなた、頭が良いですね、ヒヒッ。それから携帯電話番号を記載してますけどねぇ、僕の携帯電話はよく繋がるんですよ。凄いでしょ。やはり持ち主が良いと携帯電話もちゃんと繋がるわけだ、へへッ。ところであなたのお名前は?」猪口権は短い脚をブルブル小刻みに動かし赤黒く四角い顔を前後左右に休みなく動かしていた。
「あっ、あたしは村上玲といいます」
「玲さんですかぁ、良い名前ですねぇ。玲さん、玲さん、ウンウン玲さん玲さん、玲さんかぁ」小太りの中年男はスコッチウイスキーを少しだけ飲みながら、呪文のように「玲さん、玲さん」と繰り返し言っていた。玲は隣の男の途切れながらも長く続く言葉が、黒くて細い紐のように自分の体に纏わりついてくるように感じた。
「玲さん、お代わりは?」名都の静かな声が玲の体に絡まった紐を断ち切った。猪口権は玲の名前を呼ぶことを止めた。だが彼の分厚い唇は細かく動き何事か発していた。名都は猪口権が何を言っているのか聞き取れなかった。
「あっ、名っちゃん。あたしも同じものを・・・」玲はぼんやりとした顔をしていた。
「・・・・・・」女性バーテンダーは無言で頷いた。彼女が玲のグラスにボウモアを注いでいる間も猪口権は分厚い唇を動かし続けていた。
「玲さん、ボウモアのロックです」
「ありがとう」玲は微笑んだ。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」高校教師は授業中によく使う意図的な咳をした。
「大丈夫ですか」玲は隣の男の顔が赤紫色に変わったように見えた。その男の口が大きく開き硬く大きな白い歯が剥き出しになっていた。
「玲さん、心配してくれて、ありがとうございます、ヒヒッヒッ。僕はあの城北高校で文芸部の顧問をしているんですよ。ちょっと前までは白石新次郎がやってましたけどね。あいつは漢字もまともに読めない馬鹿だったから文学なんて分かりません。実は僕がずっと文芸部の顧問をしていましたけどねえ。転勤してきた白石新次郎が無能で何も出来ないので校長が不憫に思ってね、文芸部の顧問をあの馬鹿に譲ってくれと言われまして、僕があのひらがなしか読めない男に譲ってやったんですよ。まあねぇ僕が育てた文芸部の生徒は優秀な子ばかりですよ。へヘヘーッ、本当ですよ、あなた。あの白石が死んだのは文芸部の、フランツ・カフカの、『審判』の、書評検討会に参加するために、高梨家へ行ったからですよ。僕が育てた文芸部の部員たちは賢くて素晴らしい子ばかりだから、あの白石新次郎のスカスカの脳がついていけるはずがない」
「文芸部の生徒?」玲はある高校生を思い出した。隣の男は「ゴックン、ウッ、ゴックン、オェ」と音を立ててグラスの水を飲み干していた。
「部長の宮森華さん。この子は城北高校の№1アイドルだ。今どき珍しくプンプン怒るけど全然悪意がない。彼女の情感の豊かさは、僕が教えたようなものだけど、へヘヘーッ。それから巽さんの息子の高梨尊。こいつはちょっとだけ顔が良いので女子に人気がある。ケッ! それだけだ! 親の七光りを分かっていないボンクラ息子だよ。チッ! えーっと一番面白いのが水樹晶という冴えないウジウジした男子だけどね。こいつは少し前にAFZで事件を起こしてるんだよぅーっ。ほらっ、警察が来た事件。あなた、知ってるでしょ、ヒヒッ」城北高校文芸部顧問は口角が上がり喜んでいるようだったが、その濁った瞳は玲の体全体をねめつけていた。玲は男の粘着質な視線から眼を離したかったが、その茶色く濁った瞳から逃れられなかった。
「この水樹晶って子はねぇ、レジの女にナイフを突きつけて、その女を連れ去ろうとした。へヘヘーッ、水樹晶は何をしたかったのかなぁ? そして、水樹晶に奪われそうになったのは、ヒヒヒッ、村上玲さん、あなたでしょう? そうでしょう?」高校教師の大きな口は口角が裂けたように見えた。犬歯が伸び白く短い舌が口の中で蠢いていた。
(奪われそうになった? こんな空虚なあたしから彼は何を奪うつもりだったの?)玲は自分の時間が止まってしまった。
「猪口先生、どうぞ」名都が水の入った透明なグラスを饒舌な男の前に置いた。それは「コトッ」と音を立てた。
「・・・・・・さあ、どうでしょうか」玲の口から出た言葉は他人の口からでた響きのように彼女は感じた。
「ふーん・・・、へぇ」高校教師は不思議そうに目の前の女性バーテンダーを見た。そして一口アードベッグを口に含んだ。
「僕は白石新次郎に文芸部を譲ってやったのでその間は演劇部の顧問をやったのさ。演劇部も僕のように教養がないと顧問は務まらないよぅーっ。その演劇部には渡辺美冬ちゃんという性格の良い子がいてね。もちろん可愛い子だよ、ヒヒヒッ。昨日の夜に僕が文芸部の顧問をすると言うと、その美冬ちゃんが文芸部に入りたいと言ってねぇ、ヒヒヒッ。僕の跡を追っかけて文芸部に入ったわけだ。頭の良い子はやはり謙虚だし教師の見る目もあるんだよ。彼女は僕をとても尊敬しているし、その胸の奥には特別な感情も秘めているんだよねぇ。だから僕の言うことは何でも聞くよ。だから美冬ちゃんは、とてもチャーミングだよ。分かるでしょう、チャーミングな村上玲さん、ンンン?」猪口権は赤黒く太い頬骨を上げながら徐々に玲の顔の近づきながら話し続けた。迫ってくる中年男の生ぬるい息が玲の顔にかかった。その息は饐えた匂いがした。そして玲の右の腿に男の湿った熱い左手が蠢いていた。
玲は猪口権と名乗る城北高校の国語教師の行為の意味が分からなかった。彼女はくたびれた茶色のスーツを着た男が自分に何を求めているのか、見当もつかなかった。ただ目の前で意味不明のことを喋り続けている男は寒さに凍えている様に感じた。その男の顔は赤紫色だったり赤黒くなったりして狭い額には汗が滲んでいる。右腿で蠢いている男の左手は熱く粘着質で、顔にかかる吐く息も生ぬるい。
だが玲の蒼い瞳には男の胸に大きな氷柱が何本も突き刺さっているように見えた。(あの男と同類の人間なのか・・・・・・この人は)
男はベージュのチノパンツに包まれている玲の柔らか大腿に左手を動かし続けていた。
「あたしは何もないの。空っぽなの。それでもいいの?」玲は落ち着きなく動き続けている男の左手にそっと白い右手を重ねた。男の浅黒く膨れた左手は一瞬引きつり、そして止まった。男は驚いたように村上玲を見た。玲の蒼い瞳にから涙が一筋流れ落ちた。これまで喋り続けた男の口から言葉は何一つ出てこなかった。




