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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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休憩室で阿沼学年主任が見た猪口権と中岡美奈子

 文芸部の部室を出た猪口教諭は足早に移動し、休憩室のドアの前に立って三回深呼吸した。彼は右手で木製ドアを軽く三回叩いた。「コッコッコツ」という乾いた響きの後に「どうぞ」と乾いた声が返って来た。猪口権は湿った右手でドアノブを回して引くと、彼の視線の先には白衣を着た中岡美奈子が黒いリラックスチェアに座って木製の机に向かっている姿があった。

「あら、猪口先生。どうされました? どこか調子でも悪いのですか?」養護教諭はゆっくりと黒いリラックスチェアを半回転させながら入室した男と向き合った。

 名前を呼ばれた男は右手を横に振りながら「いえいえいえ、僕は元気ですよ。ええ、元気ですぅ、中岡先生」と上ずった声で答えた。そしてゆっくりとL字型ソファーの端に座った。それから空のペットボトルを木製の丸いテーブルに置いた。

「エーッ、あのぅ、中岡先生。しかしあれですネェ。あのタフネスを誇っていた白石新次郎先生が溺れ死んだとは驚きましたねぇ。彼が死んだことに関係して、ちょっと中岡先生に伺いたいことがありまして」

「そうですか、確かに白石先生はあんなに元気だったのに、急に亡くなってしまいましたからねぇ」中岡由美子はそう答えると立ち上がり、コーヒーメーカーのフィルターにモカブレンドの粉末を入れた。

「猪口先生、コーヒーを飲んでいかれません?」

「アハッ、いやぁ嬉しいですなぁ。遠慮なくいただきますよ、いただきます。いやぁ僕はラッキーだなぁ。中岡先生、ありがとうございますぅ、ハハハッ」来訪者はコーヒーが出来上がるまで室内をキョロキョロと見回していた。

「ハイ、猪口先生、どうぞ。ミルクとお砂糖はどうされます?」中岡美奈子はアイボリーのコーヒーカップを同じ色のソーサーに置きながら、目の前のソワソワしている男に訊いた。

「あっ、ミルクと、そ、そっ、それから砂糖を、おっ、おっ、多めにお願いしますぅ」中岡教諭は頷くと落ち着きのない男の前に置いてあるコーヒーカップにミルクピッチャーでミルクを入れた。それから角砂糖を三個入れた。

「あっ、美奈子先生、砂糖をもう一つ、あっ、もうちょっと入れてください。もう二つかな、へへッ」猪口教諭の狭くて赤黒い額には汗が浮き出ていた。彼は慌てて白いハンカチで額を拭った。中岡教諭は同僚の仕草を無視して角砂糖を二個、コーヒーカップに入れた。それから彼女は銀のスプンで茶色の液体をかき回した。

「どうぞ、猪口先生」猪口教諭は同僚の女性教師の言葉が途切れると、すぐにコーヒーカップに分厚い唇をつけた。「ウグッ、ウグッ」と猪口教諭の喉からコーヒーを飲み下す音が聞こえた。彼がアイボリーのコーヒーカップから口を離すと、カップにはほんの少ししか茶色の液体は残っていなかった。

「あーっ、中岡先生の淹れてくれたコーヒーは驚くほど美味しいですねぇ。昼休みにライトハウスでコーヒーを飲みましたが、比べ物にならないですよ、へへッ。いやぁ美奈子先生の淹れてくれたコーヒーは絶品ですねぇ。うんうん、美味い、美味い」小太りの男は茶色くて分厚い唇を白っぽい舌で舐めまわした。

「あら、もう、コーヒーを飲まれたのですか?」

「ええ、もう、殆どないですよ」猪口教諭はまだ短く白い舌で分厚い上唇を舐めまわしている。

「猪口先生、もう一杯いかが?」

「ええ、ええ、ありがとうございます。いただきますよ。美奈子先生のコーヒーなら何杯でもお代わりができますよ。へへッ、あのライトハウスのコーヒーは不味くて飲めたもんじゃない。あんな不味いコーヒーを飲ませてお金を取るなんて犯罪行為ですなぁ。あの高慢で底意地の悪い雇われ店主、ええっと飯塚綾子だったかな。あいつの淹れたコーヒーなんかよりインスタントコーヒーの方が一万倍も美味いですよ、フムフム。美奈子先生、そう思われませんか?」

「さぁーっ、私はあそこのコーヒーは飲んだことがないので・・・。はい、猪口先生、どうぞ」白衣を着た養護教諭は、早口で喋っている男の前にコーヒーカップに置いた。それから彼女はそのアイボリーのコーヒーカップに角砂糖を五個入れミルクを入れ、銀のスプンでかき回し同僚の隣に座った。猪口教諭は唇を舐めながら同僚の仕草を見つめていた。

「いやぁー、美奈子先生のコーヒーはホントに甘くておいしいですなぁ。甘い甘い」小太りの中年男はまたしてもコーヒーを一気に飲み干してしまった。

「猪口先生は甘いコーヒーが好きなのね」

「ええ、そうです、そうです。美奈子先生っ、コーヒーは砂糖をたくさん入れないと美味しくないでしょ。そうに決まっているじゃないですか、ねぇ美奈子先生!」

「ええ、まあ、そう言う人もいますねぇ。そういえば白石先生もコーヒーに砂糖を沢山入れていたわ」

「アーッ、白石新次郎、あいつは精神的にガキだから甘いものをチューチュー飲むんですよ。ほら何も分からない子供は甘いモノが好きじゃないですか。それと同じですよ、あの馬鹿は。僕の場合はいつも頭をフル回転させているので脳が甘いものを要求するのです。あんなサルと僕を一緒にしてほしくないなぁ」

「あらあら、ごめんなさい、猪口先生。でも今日は猪口先生、なかなか白石先生に厳しいですね。彼が死んでしまったからかしら?」

「ううっ・・・まあ、あんな奴がくたばっても誰も悲しまないでしょ。ヒヒヒッ、へッ。それに僕も白石から相当な迷惑を被りましたから。美奈子先生もそうでしょう。あいつは職員のメンタルヘルス担当だからという訳の分からない口実で、養護教諭の美奈子先生に話があるとか言ってきたでしょ。そしてあの発情しているサルからいろいろ不謹慎なことをされたのではないですかぁ、ヒヒヒッ」猪口教諭は上目遣いで中岡美奈子の眼鏡の奥の灰色の瞳を凝視していた。

「さあ、どうかしら。白石先生からは職員のメンタルヘルスに関して私は何も相談は受けなかったと思う。どちらかと言えば彼は生徒からいろんな悩みを聞かされて忙しいって愚痴を言っていたわね」中岡美奈子はそう言葉を区切るとブラックコーヒーを一口飲んだ。その時、彼女の右膝に隣に座っている男の生暖かい左手が乗っているのに気がついた。養護教諭はその湿った生暖かい手を払いのけようとしたが、体が動かなかった。彼女は怒気を含んだ瞳で同僚を睨んだが、これまで常にオドオドしていた男は薄ら笑いを浮かべて傲慢さをさらけ出していた。

「・・・・・・猪口先生」

「どうしましたか、美奈子先生」

「いえ、別に・・・何もありません・・・、すみません、権先生」中岡教諭は自分の発した言葉に驚いた。

「いえいえ、美奈子先生が謝ることはないですよね。すべてはあの白石新次郎が悪いのだから。まあ、これからは僕がメンタルヘルス担当になりますから。へへへッ、美奈子先生、お互い仲良くして、この城北高校を守っていきましょう。フフフフッ、ヒヒッ、やっぱり僕らは仲良くしないといけないでしょう?」

 中岡美奈子は全身が硬直して麻痺してしまった。しかし猪口権の左手が置いてある右膝だけは血管が大きく脈打つ感覚があった。その感覚は水樹晶と接したものとよく似ていた。そして彼女はこれから時間が進むことに不可思議な慄きを感じた。

「ファーァアーッ、あーっよく寝たぁ」パーテーションの向こうから張りのあるバリトンが響いた。その声に反応して猪口権は左手を同僚の女性教師の膝からサッと離した。二人が座っている薄緑色のソファーの後ろにあったパーテーションがスーッと横に動いた。二つの白いパーテーションの間から阿沼学がベッドに腰掛けて大きく背伸びをしている姿が現れた。

「おや、猪口先生、珍しい。猪口先生も体の調子が悪いのですか。僕も昨日から慌ただしく動いちゃったので疲れましてねぇ。白石新次郎がいきなり死んじゃったからねぇ。それで中岡先生のところで休ませてもらいました。あーっ、おかげですっかり気分も良くなった」阿沼学年主任は白いカッターシャツのボタンを留めながら欠伸をした。

「んん、良い香りがするなぁ。中岡先生、もし良ければ僕にも美味しいコーヒーを淹れてくれないかなぁ」三年生の学年主任はベッドから立ち上がり猪口教諭から一番離れたソファーの端に座った。

「分かりました。猪口先生もお代わりされます?」中岡美奈子は素早く立ち上がり再びコーヒーを淹れ始めた。

「猪口先生もお疲れでしょう。あの白石先生が死んじゃったのでアレコレやることがあるんじゃないかな」

「いや、あのっ・・・。別に」猪口教諭は目の前の丸いテーブルを見ながら、時折チラッチラッとリラックスして座っている坊主頭の学年主任を盗み見していた。

「猪口先生は白石先生と仲が良かったからねぇ。彼が死んじゃってショックでしょう?」

「いや、まあ、そのぉ、やっぱり同じ職場で働いてた同僚だから・・・」

「そうですか、僕は猪口先生と白石先生が一緒になって行動したり話し合っているのをよく見ていたような記憶があるけど。ほら文芸部の顧問だって猪口先生が白石先生に譲ってあげたんでしょ?」

「あっ、僕が文芸部の・・・顧問をしても・・・あのぉ、部員が集まらなかったし・・・」

「アーッ、そうだったかなぁ。確かに今の時代に文芸部とかなかなか生徒は集まってこないよね。部活動をちゃんとしてるのは柔道とか空手とか格闘技関係だけだもんね。文化系は文芸部と演劇部と美術部だけかぁ」

「白石先生は人を集めるのは上手いです・・・」猪口教諭は下を向いて話していた。

「まあ、人集めにはアピール力のある人間が向いているのかな? 白石は中身は全く無かったが何故か人を惹きつける力だけはあったからなあ。不思議だよねぇ。ねえそう思わない、中岡先生?」

「そうですねぇ」中岡美奈子は阿沼教諭の前にアイボリーのソーサーにアイボリーのコーヒーカップを置いた。それから猪口教諭の前にもアイボリーのコーヒーカップをソーサーの上に置いた。彼女は学年主任の前を通って猪口教諭の隣に座った。

「猪口先生はお砂糖五個でよかったかしら?」白衣を着た養護教諭は俯いている猪口権に優しく訊いた。そして少しのミルクと角砂糖を五個、彼のコーヒーカップに入れた。

「そうそう、猪口先生は昨日、高梨君の家に行かれましたよねえ。お疲れ様でした」阿沼学年主任はコーヒーを飲みながら薄い笑いを浮かべた。

「あっ、いえ、そんな・・・」猪口教諭もつられるようにコーヒーカップに分厚い唇をつけた。

「それで猪口先生は白石新次郎が溺れ死んだ現場を見られましたか?」阿沼学年主任は一瞬目を細めた。

「ああっ、ええっと、そうです。白石が溺れ死んだ池を見ました。ええ、見ました。大きな池で水もたっぷりあって、鯉も泳いでいて・・・それから、鯉が我々のところに寄ってきました。えっと錦鯉っていう大きな鯉だったかなぁ。うようよと寄ってきて気持ち悪かったですよ。高梨君が言うには宮森華さんを目当てに鯉が集まってくるそうです、変な話をして困りますよね、ホントに近頃の生徒は、アハ、アハハ、ハハ、」猪口権は無理やり笑ったような歪んだ顔になっていた。彼の茶色く濁った瞳は落ち着きなくキョロキョロ動き回り分厚い下唇はせり出し、白く短い舌は上唇を舐めていた。時折右の頬が右目の方にせり上がりそのため右の口角も上がり白く頑丈な歯が見えた。そして彼の左手は隣に座っている中岡美奈子の右の太腿を這いまわっていた。中岡美奈子は右の太腿に数千の小さな生き物が這いまわっている感覚を覚え体全体が固まってしまった。

「猪口先生と一緒に教頭も高梨君の家に行ったでしょう。教頭も白石が死んだ池を見たはずですよね」阿沼学は並んで座っている同僚二人を交互に眺めていた

「えっええ、西村教頭は僕と一緒にいましたよ。いました、いました。でも教頭先生は変ですよ。ずっと一人で池を見てました。池には何もあるわけじゃないのに、ずーっと馬鹿みたいに見続けたんですよ、アハハッ、馬鹿みたいに、ずーっとねぇ。おかしいと思いませんか、阿沼先生」猪口権はそう言うと左手に力を込めた。

「アッ!」右の太腿に激しい痛みを感じ中岡美奈子の体は異様な快感に震えた。

「西村教頭はずっと池を見続けたのですか?」阿沼学年主任は冷ややかな笑みを浮かべながら体が小刻みに震えている白衣の女性を見た。

「ええ、ええ、壊れたロボットみたいにボーッと池を見てました。僕が声をかけなければ、あの西村アンドロイドは一日中突っ立って池をぼんやり眺めていたと思いますよ。困ったもんです、ポンコツのアンドロイドは。イッヒヒヒヒ、ホントにポンコツだから、ハッハッハッハーッ」猪口教諭は唇の右端から涎が垂れていることに気がつかなかった。

「そうですか、猪口先生も大変でしたねぇ。おっと、もうこんな時間かぁ。中岡先生、コーヒーごちそうさまでした。じゃあ」阿沼学年主任は二人を残して休憩室から姿を消した。すると中岡美奈子は何かに気づいたように立ち上がり、自分の黒いリラックスチェアに座った。

 猪口教諭はあっけにとられ周囲を見回した。それから残ったコーヒーを飲み干し中岡美奈子の白衣を着ている背中を見た。そのほっそりとした背中は彼にとってとても遠い場所にあるように感じた。城北高校の国語教師は黙ってその部屋を出た。ソファーの前の丸い木製テーブルには空のペットボトルが一本あった。



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