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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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渡辺美冬が逃れられないこと

  放課後、美冬は演劇部の部室にいた。昨夜、電話で猪口教諭から演劇部の廃部を告げられた。彼女は演劇部がこのまま存続するとは思っていなかったので、猪口教諭の提案をすんなりと受け入れた。この街で劇団が公演することもないし、演劇を観る人も殆どいない。だけど美冬はその流れに何故か抗ってみたかった。だから一人でも演劇部の部室で活動を続けていた。だが白石が死んでしまったことで、その緊張の糸が切れてしまった。

 彼女は部室の中央にある大きな黒いモニターを眺めていた。このモニターでシェイクスピアの作品をときどき観ていた。部室には遺品のように演劇のDVDが数多くあった。歌舞伎や能の作品まであった。(私が入部した頃は他にも部員が数人いた。猪口先生も部室に来ていた。だけど白石先生が演劇部に関わるようになって、猪口先生は来なくなった。そして他の部員も来なくなった)

 美冬は部室をぐるりと見まわした。頻繁にこの部室に来たような気もするが、そうでもなくて授業が終わるとすぐマンションに帰ったような気もする。結局、この部室に居てもマンションに居ても彼女を包む無機質的な孤独を感じることには変わりはなかった。美冬はシェイクスピアの舞台を観ても、ジミ・ヘンドリクスのライブを観ても素晴らしいとは想うけど、それらの作品は彼女の世界とは繋がっていなかった。

  ただ白石新次郎だけは彼女の世界に強引に入ってきた。美冬の肉体は白石の暴力に激しく反応した。白石は毒蛇のように彼女の体にまとわりついた。彼女は心底この下劣な男を嫌っていたが、肉体は異常な快感に翻弄されていた。美冬は精神と肉体の離反に混乱し徐々に諦念が彼女の内に拡がって来た。そんな中、渡辺美冬は宮森華と出逢った。美冬が演劇部の部室に入ろうとした時、近くから低く芯のある声が聴こえてきた。華が黒い眉を吊り上げて水樹晶に何事か文句を言っていた。美冬は自分と同じ背丈の少女がプンプン怒っている姿を見た。その少女の体は白い光に包まれていた。美冬が呆然として白い光に包まれた華を見ていると、その少女は美冬の視線を感じたのか怒ることを止めた。そして宮森華は渡辺美冬を見て照れ臭そうに笑った。その瞬間、美冬の体はスーッと軽くなり、腰のあたりからジワーッと温かなものが体全体に拡散した。美冬は自分が急に元気になったように感じた。体の奥から温かなものが指先や頭部、胸や背中まで広がっていった。

 美冬が回想に耽っているとギギッという音とともに猪口教諭が部室に入って来た。

「やあ、渡辺さん。君もいよいよこの部室とお別れだねっと言いたいけど、そんなに悲しまなくていいよ」猪口先生は右手にカフェオーレのペットボトルを持って朗らかに言った。

「えっ、猪口先生。それはどういうことですか?」

「いやぁー、まあ、僕は文芸部の顧問になったけど、美冬ちゃんが頑張って存続させてきた演劇部をいきなり廃部させるのは心苦しくってね、フフフッ」小太りの中年男は美冬の近くの椅子にドスンと座った。

「猪口先生?」美冬は遠慮がちに猪口教諭の隣の椅子に座った。

「へへヘヘーッ、まあ僕が白石の跡を継ぐのは当然だけどね。無能なあいつに文芸部の顧問なんて勤まるはずがなかったもんね。それなのに演劇部にも顔を出して僕の邪魔をして・・・。ホントにもうどうしようもないクズだったよねぇ、あいつは。そう思うだろ、美冬ちゃん」赤黒い顔をした男は嬉しそうにペットボトルの蓋を取り、「ウグッウグッ」と茶色い液体を喉に流し込んだ。美冬は隣の男に遠慮のない行為に何故か既視感を覚えた。

「まあ美冬ちゃんも僕が顧問だった演劇部に愛着があるだろうからねぇ。だから演劇部は一応開店休業みたいな感じで残していこうと思うんだ。美冬ちゃんも時々ここでDVDを観たり脚本とか読んだりしたいだろぅ。そんなときは僕が教えてあげるからね。手をとり足をとり、ねっ。へへへッ」美冬の眼前に迫った猪口教諭の小さな茶色く濁った目は充血していた。美冬にとってはその目は獲物を狙う意地の悪い両生類のように思えた。

(あの人と同じ目をしている・・・・・・)美冬の体は硬直して動かなくなった。隣の男の脂ぎった手が彼女の左手を握った。猪口権の太くて短い指が美冬の白く細い指に絡みついた。触られた左手の感触は二日前の夜に溺れ死んだあの男に似ていた。ゾクゾクとした悪寒が螺旋を描きながら少女の腰から背骨を通り後頭部に突き抜けた。それは吐き気を催す邪悪な快感だった。そして美冬の見ている世界が急に暗くなった。部室の天井は見えなくなり先ほどまで見ていた大きなモニターの画面の形もぼやけている。ただ隣に座っている猪口権の輪郭だけははっきりと見えていた。そして国語教師の太く湿った指が蛇のようにくねって女子高校生の細い指に纏わりついていた。

(私はやはり逆らえない・・・・・・)美冬の紫と銀の瞳は力なく隣の男を見ていた。

「渡辺サーン、入りますヨーッ」粘りつくような沈黙を破る声が響いた。

「チッ」猪口教諭は舌打ちした。美冬は呪縛が解かれたように立ち上がりドアに向かった。

 入り口の茶色いドアがゆっくり開き黒い制服を着たエリック・ハーバートが入って来た。美冬は迷うことなく彼の胸にすがりついた。

「チョチョット、渡辺サーン、ドーしたのですか?」ハーバートは美冬の勢いに押されて少しだけ後ろに下がった。そして彼は美冬が強い力で自分を抱きしめていることに驚いた。

「あー、渡辺君は少しセンチメンタルになったんだよ。ここに来て昔のことを思い出したんじゃないかな」新しい文芸部顧問はそれだけ言うと足早に演劇部の部室から出て行った。



「もーぉ、権先生が新しい顧問になったのに、何あれ? 僕は用事があるからとか言ってシェイクスピアの何かを課題図書にしようとだけ言って行っちゃったけど。ひどくない? 尊君」華はピンクの頬を少し膨らませ唇を尖らせた。

「そうですね、確かに猪口先生らしくないですね。白石先生の後任ということで文芸部の活動を楽しみにしておられたと思っていましたが」

「でしょー。権先生は事あるごとにわたしにね、『文芸部は楽しいかい? 僕に何か手伝えることはない?』とか『アーッ、ホントは僕が文芸部の顧問だったのに』とか言ってたのよ。昨日だって、ほら、尊君の家の池の前で教頭先生に文芸部の顧問を自分がやりたいってアピールしてたでしょう。それなのにちょっと顔を出してバイバイなんて、失礼しちゃうわ。うーん・・・」

「どうしました?」

「あのさぁ、尊君。今までのことを考えると白石先生って、この文芸部ではそれなりに存在感があったのかな」

「そうかもしれませんね。ところで宮森部長、今日は渡辺さんもここに来るのでしょう」高梨尊は部室の入り口ドアをチラッと見た。

「アッ! そうよ、そうそう。ハーバートが隣にいる美冬を呼びに行ったのに。何してんのかな? アレッ、でも何故ハーバートがここにいるのかしら? 彼は昼休みに『僕は文ゲー部には入りまセーン』とか言ってたのに。変なの」

「エリックはこの高校のことを調べることに忙しいのかもしれません」

「ふーん、そうなの。この学校、そんなに調べることってあるのかな」華は少し首を傾げた。その時、出入り口のドアが開き美冬とハーバートが部屋に入ってきた。

「ゴメンね、華、高梨君。遅くなって。ちょっと隣の部室にいたら少し感傷に浸ってしまっていたの」

「フフッ、クールな美冬でもセンチメンタルになるのね。ハーバート君が美冬を呼びに行ったのは邪魔じゃなかったかな?」華は小悪魔的な瞳でハーバートを見た。

「ううん、エリックがいいタイミングで来てくれたわ。あまり演劇部でグズグズしていても良いことはないしね。ありがとう、エリック」

「・・・イエス」エリック・ハーバートは真面目な顔で答えた。アメリカ人転校生の短い答えに華と尊は顔を見合わせた。

「あっ、そうそう美冬。権先生ってひどいのよ。今日はせっかく美冬が正式に文芸部の活動に初めて参加してくれるのにさ、権先生ったら『急用ができたから』ってどっかに行っちゃったのよ。プンプン!」華は遠慮がちにピンクの頬を膨らませた。

「えっ、そうなの」

「猪口先生は『シェイクスピアの作品を課題図書に』とは言っていましたよ。これは渡辺さんに配慮したのでは」尊は華と美冬を交互に見ながら言った。

「あっ、そっかぁ。でもさ、土曜日に『カフカ』の書評検討会したでしょ。あれのまとめをしたいと思うんだ。どうかな、美冬、尊君?」

「そうですね」

「そうだね」美冬と尊は頷いた。

「うんうん、これで晶が来てくれたらいいのに。あいつ、今日も学校休みだし・・・。まあ、いいや」華の呟くような言葉を聞いても、他の三人は何も言わなかった。



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