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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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猪口権はライトハウスで内田南を見る

「いらっしゃいませ、猪口先生。お久しぶりです」猪口権は飯塚綾子のやや鼻に引っかかった声に少したじろいだ。

「ああっ、ああ。うん、久しぶりかな、あーっと、久しぶりだ、うんうん、そうだったかな?」中年の国語教諭は大きな口の中でモグモグ言いながらカウンター席についた。

「そうですよ、猪口先生。三年前くらいまで、よくいらしてくださったのに。そうそう、この店で内田南ちゃんに会ったこと、ありますか、猪口先生?」内田南は猪口教諭の前に水の入ったグラスを置き、小さく頭を下げた。

「あーっ、いやぁー。内田君には会ったこと、あるよ。うーん・・・、この顔は見たことがある、うんうん」猪口教諭は硬い髪の毛が乗った頭を僅かに揺らし、南の白い顔を見つめながら答えた。

「それは先生が国語の授業で南ちゃんを見たからでしょう」

「エッ?」

「だって南ちゃんは三年前までこの城北高校の生徒だったんだから」

「アーッ、そうだったかなぁ、そうだったよね。内田さん。うんうん、そうだった。内田さんは熱心に僕の授業を受けてたなぁ、うんうん、そうだったよね」猪口教諭は茶色のスラックスの右後ろポケットから丸まっている白いハンカチを取り出した。そしてそのハンカチで慌てて額の汗を拭いた。

「猪口先生、ご注文は?」綾子は右の口角を少しだけ上げながら顔が異様に赤黒くなった男に訊いた。

「エーッと、トマトソースパスタのセットを頂こうかな。食後にはホットコーヒーで」

「アラッ、猪口先生はトマトソースが苦手じゃなかったかしら。いつも和風キノコパスタとかペペロンチーノとかを注文されていましたけど」

「エッ、そうだったかな。今、無性にトマトソースが食べたいんだよね。へへッ、綾子さんは僕のことをよく覚えてくれていますね、へへッ」

「そうでしょう、猪口先生。それにヒトは食べ物の嗜好って変わりますものねぇ。南ちゃん、トマトソースパスセットを一つ」

「ハイ、分かりました」南の高くも低くもない声が返ってきた。その明確な声の響きに綾子は驚いた。(あの子、昨日から人が変わったみたい。何かあったのかしら)

 南と綾子がパスタセットを作っている間、猪口権はキョロキョロと落ち着きなく店内を探るように見回した。

「トマトソースパスタのセットです」黒いエプロン姿の南が猪口教諭の前に大きめの皿とサラダの乗った透明の小皿を置いた。

「ア、アアッう。アリガトー」猪口権は南の黒いタイトスカート下の健康的な白い大腿に目が奪われた。

「猪口先生、どうされました?」綾子は冷たく笑った。

「いや、あの、そのぅ」猪口教諭は焦ってパスタを銀色のフォークで丸めて大きな口に放り込んだ。そして小さな茶色い目を見開いた。それから彼は飢えた猛獣のようにパスタを貪り喰った。その様子を綾子は冷めた眼で見ていた。パスタを食べ終えた猪口教諭は思い出したようにレタスとトマトのサラダを食べ始めた。それらも数秒の内に小太りの男の胃の中に収まった。

「猪口先生、どうぞ」南は黒いソーサーと黒いコーヒーカップを国語教師の前に置いた。それからパスタが乗っていた皿と透明の小皿を重ねて取り上げた。猪口教諭は南の滑らかな所作を呆然と見ていた。彼は夢遊病者のようにミルクピッチャーからミルクをコーヒーカップに入れた。それからコーヒーシュガーを三個、コーヒーカップに入れ銀色のスプンで黒茶色の液体をかき混ぜた。

「猪口先生、どうされました? 猪口先生・・・」猪口教諭がその声が自分に向けられていると理解するのに十秒かかった。

「いや、ちょっと、死んだ白石先生のことを思い出して・・・」中年男の顔には汗が流れていた。彼は皺の多い白いハンカチで顔を無造作に拭いた。

「そうですか。白石先生はこの店の常連でした。あんなに元気な人が亡くなるなんて・・・」綾子は昨日、東山校長がコーヒーシュガーを五個もコーヒーに入れたことを思い出していた。(あんなに砂糖を入れるから校長もこの男も小さくて太るのか。まるで豚だわ。豚は街の外の工場で飼育されていると噂されているけど、こいつもそのうち街から出て工場で働かされるんじゃないか? 豚人間が豚の世話をするなんて笑えるわ)彼女が胸の内で呟いていると左から南の憐れむような視線を感じた。そしてその時、綾子は内田南が同じ店で一緒に働いているという感覚を初めて覚えた。

「綾子さん。あいつ、いや白石先生はカラ元気だったと思いますよ。いつも自分は元気でタフだって演技していただけですよ、へッ!」猪口教諭は分厚い唇を歪めてそう言った。それからコーヒーを一口飲み、コーヒーシュガーをもう一個入れた。それを見て綾子は吹き出しそうになった。だが彼女は笑いの発作を必死でこらえ、何とか口を開いた。

「エッ、そうですか。でもいつも白石先生の周りは人が集まって賑やかだったように記憶していますが」

「綾子さん、それはあの男は要領が良くてうるさいだけで、そもそも奴の中身は空っぽですよ。あいつの頭の中はスカスカで脳はほとんど働いていない。本能だけで動いている発情期のサルですよ」

「あら、猪口先生はなかなか厳しいですね。発情期のサルってどんな人なのかしら?」ライトハウスの店主はコーヒーメーカーからブラウンのカップにコーヒーを入れた。そのカップに薄い唇をつけた。

「あいつはねぇ、面倒な仕事を全部、僕に押し付けていたのですよ。例えば学生会館の管理点検なんか、あいつの仕事なのに僕に見回り点検を押し付けたんです、クソッ。あいつは僕が記入したチェック表を自分がしたことにして報告するだけだし。それからぁーっ、あいつは職員のメンタルヘルス担当だとか言って、女子職員に色目ばかりつかって関わろうとするし。自分の気に入った女性のことしか考えていない。こういう輩を発情期のサルって言うんですよ、綾子さん」

「あらあら、そうだったの。でもメンタルヘルス担当は今の時代ではとても重要な役割じゃないですか?」

「うん、確かに綾子さんの言うとおりだけど、あいつはその大切は役職を悪用してねぇ。自分のお気に入りの女子職員だけにカウンセリングしましょうかとか悩みを聞きましょうとか言って、働きかけていた下劣で最低の男だったんだ!」猪口権の四角い顔はますます赤黒くなり狭い額には汗が噴き出ていた。彼はコーヒーカップに分厚い唇をつけるとホットコーヒーをガブガブと飲み込んだ。綾子は目の前の中年男の品のない行為に再び笑いの発作が起こりそうになったが、必死で我慢し話すことでその発作をなんとか回避した。

「ウッ・・・・・・猪口先生っ、わっ、私はそんなこと全く知らなかったです。だけど白石先生の秘密っていうのかな、それはなかなか興味深い話ですねぇ。猪口先生、コーヒーのお代わりはどうされます?」

「あっ、ああ、うん。もう一杯もらおうかな」

「南ちゃん、ホットコーヒーを一つ」

「分かりました」南の声が耳に入ると猪口教諭は少し落ち着いた。そして湿ったハンカチで額を拭いた。

「それで猪口先生、亡くなった白石先生のお気に入りの職員は誰だったのですか? もう白石先生はいなくなったのでお話されてもいいでしょ」綾子の薄い唇の微笑みは親密さを露わにしていた。

「ええ、ええ。勿論ですよ、綾子さん。あんな馬鹿な奴のプライバシーなんて何の価値もありません。一円の値打ちもない。借金みたいなものだ。あの馬鹿なサルは養護教員で尚且つ歴史を担当されている中岡美奈子先生に働きかけていたのです。身の程知らずにもほどがある。フン!」猪口権は南が置いた黒いコーヒーカップにミルクを入れ、それからコーヒーシュガーを五個入れた。そして銀色のスプンでホットコーヒーをグルグルかき回し、美味しそうに熱い液体を口に含んだ。飯塚綾子はまたも飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになった。彼女は腹筋に力を込め笑いの発作を我慢してコーヒーを必死で飲み込もうとした。けれどもコーヒーが気管支に入り激しく咳き込んでしまった。彼女はベージュのハンカチで口を塞ぎ喉の引っかかりが過ぎ去るのを待った。

「綾子さん、大丈夫ですか?」国語教師は不思議そうに訊いた。

「ええ、ええ、もう大丈夫です。すみません、猪口先生のお話に驚いてしまったので」

「まあ、そうでしょうな。ウンウン、そうでしょうなぁ。こういう秘密を察知できるのは僕だけだから。まあ、いわゆる事の本質を把握できる男ですから、フフーン」綾子はまたしても笑いの発作が起こりそうになった。(白石新次郎の変質的で無責任な行為は誰も知っていただろうに。ただ周囲はそれに無関心だっただけじゃないか。何をこの小太り男は自慢げに話しているのか)だが、その時また綾子は内田南の強く直線的な視線を感じた。綾子が横目で南を見ると店の同僚は真っ白な布で透明なグラス丁寧に拭いていた。綾子は深く息を吐いて呼吸を整えた。

「それで中岡先生は白石先生のことをどう想っておられたのですか?」

「ハハハ―ッ、そんなの無視したに決まっているじゃないですか。知性溢れる中岡美奈子先生があんな年がら年中発情しているサルを相手にするわけがないでしょ! 月とスッポン、いやこれではスッポンに申し訳ないな。綾子さん、スッポン知っているかな? えーっと月と殺虫剤をかけられた死にかけのゴキブリですよ。ゴキブリは知ってるでしょ。いやいやこれもゴキブリには失礼だな。月と白血球に攻撃されている大腸菌ですな。フフーン、綾子さん、どうです、僕の文学的センスは」猪口権は整然と並んでいる大きな白い歯を剥き出して笑った。

「えっええ、なかなかのセンスですね・・・、ユニークというか・・・。確かに中岡先生は少し冷たい感じがして、近づき難い雰囲気がありますからね」

「いやいや綾子さん、中岡美奈子先生は知的でクールだから、下品で頭が悪くて下半身の欲望だけで動いている白石なんて変態を、相手になんかしないですよ」

「そうですか。でもこのお店では白石先生はそんな変な感じはしなかったですよ、ねえ南ちゃん」綾子と猪口教諭が南を見た。透明なグラスを拭いていた南は曖昧な笑いを浮かべて静かに頷いた。

「まあ、このライトハウスの中ではさすがにあの馬鹿も変なことをしないでしょう。理知的な綾子さんがいるから、脳がスカスカのあの馬鹿は何も出来ないですよ。そうそうこの間も美奈子先生の悩みを二時間も聞かされたとあの欲情したサルがほざいていたんですよ。そのため美奈子先生は授業を一つ潰したのさっと白石は自慢してました。中岡美奈子先生が午後の授業を休講されたのは、あの馬鹿にうるさく付きまとわれて仕方なく授業を休講にしたというのが真実ですよ、絶対。まあ、白石新次郎の言うことは殆どが嘘ですから」

「そうですか、そんなこともあったのですか」綾子は少し冷めたコーヒーを飲みながら白石がこの店に来ていた頃の様子を思い出そうとした。確かに彼は「ライトハウス」の常連客だった。しかし白石が自分と何を話していたのか思い出せなかった。

「それはそうと綾子さん、今日から僕は文芸部の顧問に就任したんだよ。これまでは白石が顧問をしていたけど、あの馬鹿が文学作品なんか読めるわけがない。先日も生徒の家でフランツ・カフカの『審判』という名作の検討会に参加したって、昨日の職員会で校長から聞いたでしょう。東山校長は細かくてしつこくて要領を得ない話で聞く方は大変だけどね。まあいいや、今は脳の回路が殆ど繋がっていない男の話だ。勿論そいつは白石新次郎だけどね、あいつはカフカの『審判』なんか読めるはずがない。あいつは難しい漢字は読めないし長い文章も理解できない。あのサルが読めるのは「アヘアへ、ウッフン、ダメェ―」とか書かれている三流ポルノ小説くらいでしょ。あの下半身男は女とセックスすることしか考えてないからね、ヘッ。そしてねぇ、僕は思うのだけど、あいつが高梨君の家に行ったのはねぇ、池でブクブク溺れ死ぬためだったんですよ。アハハーッ、下劣で汚らしくて能力もないくせに、この神聖な城北高校文芸部の顧問なんかするから、罰が当たったってわけだ。ヒヒッ。そして文学的素養に溢れている僕が後任に決まったんだよ。ヒャヒャヒャー、そんなの当然でしょ、綾子さん」白い歯を剝き出して喋り続けた猪口教諭は勢いよくコーヒーを飲もうとしたが黒いコーヒーカップは空だった。彼の隣に来た内田南が空の透明なグラスに水を注いでいた。

「内田さん、コーヒーをお代わりーっ」猪口権は内田南の切れ長の緑の瞳に吸い込まれたように言った。

「ハイ、分かりました。綾子さん、ホットコーヒーを一つです」

「OK、南ちゃん。でも猪口先生、三杯目ですよ。大丈夫ですか」

「エッ、そうだっけ。まだ一杯しか飲んでなかったと思ったけど。まあいいや。僕は一日にコーヒーを七、八杯飲むからね」

「猪口先生はいろいろと神経を使われるからかな」

「そうそう、さすが綾子さん、よく分かってらっしゃる。僕はもうアレコレと仕事を頼まれて大変なんだ。仕方ないよね、仕事ができるんだから。あーっ、それでさっきの話の続きだけど、僕がこれまで顧問だった演劇部は廃部する。でも演劇部の部員の渡辺美冬さんは文芸部に入ることになった。凄いでしょ」

「・・・・・・」綾子は少しだけ首を傾げた。

「演劇部は渡辺美冬ちゃん一人しかいなかったしね。それに彼女は文学少女だから文芸部に入ってもらうことにしたんだ。僕って頭いいでしょ。美冬ちゃんは僕のことをとても尊敬しているんですよ。だから美冬ちゃんは僕の言うことを何でもきくんだ。それに彼女は僕に特別な想いを抱いている。いやぁ、生徒から過剰に想われると困っちゃいますよねぇ、綾子さん。ハハハ―ッ」

「えっ、ええ。そう・・・ですね」

「猪口先生、どうぞ」南がそっとコーヒーソーサとコーヒーカップをカウンターテーブルに置いた。猪口教諭はまたも呆然と南の顔を見た。それから何かを思い出したように含み笑いをした。そして猪口教諭はコーヒーカップに立方体のコーヒーシュガーを六個入れ、ミルクを大量に注ぎ足した。彼はコーヒーを銀のスプンでかき回した。それからゆっくりとコーヒーカップに口をつけ、美味しそうに黒っぽい液体を味わった。

 飯塚綾子は目の前の男に激しい違和感を覚えた。(この男は誰なのか? 本当にあの猪口先生なの。何かが違う、でも面白いわ、変な生き物だけど)その思いが頭の隅々から沸き起こってきた。

 綾子は無意識のうちに右の口角が吊り上がっていた。飯塚綾子は内田南が自分の顔を凝視していることにも気づかなかった。



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