狐
「しかし凄い高校生だな、彼女は」勤は呆れるよりも感心していた。
「香ちゃんは先日飛び級で大学生になったそうです・・・・・・。彼女、凄いです」
アスファルトの歩道を歩きながら玲は暗い夜空を見上げていた。玲がクロノを出て「少し歩きませんか」と言ったので勤は頷いた。先ほどまで元気そうにしていた彼女は憑き物が落ちたように静かになっていた。勤はそんな玲の姿を痛々しく感じ始めていた。彼は無意識に彼女の右手を握った。その手は小さく冷たく華奢だった。二日前抱き合ったときの熱くて力強い手とは別人だった。玲の冷たい右手が勤の左手を握り返してきた。その手は勤に何かを伝えていた。玲は視線を前方の湿った歩道に落としていた。
勤が玲に何か尋ねようとしたとき二人の前に何かが跳ねた。茶色い炎が二人の目の前をユラユラと暗く照らしていた。
「狐?」玲は紅い眼鏡を動かしながら茶色く光る物体を見つめていた。その生き物は優雅に飛び跳ねながら二人の周りを移動していた。狐と思われる生き物は銀色の瞳で夜の僅かな光を吸収しているようだった。
玲の眼にはその狐の周囲が闇に閉ざされているように映った。狐の体毛は茶色く輝いているのだが、その輝きは周囲の闇に吸い込まれていた。唯一、切れ長の目に宿してある銀色の鈍い光だけが彼女に届いていた。
すると玲の頭の中で突然何かがはじけ視界が白い閃光に覆われた。そして彼女の前後左右それから上下の距離感が急激に失われた。立っている感覚も曖昧になった。自分の足が軟らかいゼリーのようなものに少しずつ飲み込まれていく。このままだと得体のしれないものに圧迫されたまま奈落の底に落ちてしまう、そんな恐怖感が胸元からせり上がってきた。歩道も道路のガードレールも高層ビルも不規則に回転し始めた。呼吸することも困難になってきた。喉の奥がヒューヒューと鳴って息苦しい。周囲の空間が伸び縮みして、彼女自身の身体も膨らんだり縮んだりして、行き場のない嫌悪感が襲ってきた。自分自身が立っているのか座り込んでいるのか、それすら分からなくなっていた。ただ目の前の狐が自分を凝視していることだけは理解できた。彼女はその銀色の視線から離れることはできなくなっている。
玲は自分の体が少しずつ縮んで小さくなって、それとともに自分がこの世界で一番不幸な人間だと感じ始めていた。(あたしは何のとりえもない人間。人を傷つけてばかりで我儘で冷酷でいいところなんて一つもない。馬鹿で愚図でこの世からいなくなったほうがいい。いいに決まっている!)彼女の頭の中は否定的な感情と思考に満たされた。今この瞬間にも自分の体は縮みきってしまい、この三次元空間から消滅すると思われた。そのとき白い光が玲の体を包み幸せな感覚がよみがえってきた。それとともに彼女の体が膨らみ始め腕も足もお腹も胸もこれ以上膨らまないほど丸くなってしまった。そして異常な多幸感が胸の中から溢れそうで、玲はこのまま死んでも構わないと歓喜した。しかしその状態も一瞬で終わり、またも体が縮み始めどす黒いみじめな思いに囚われ始め、このまま虚無の空間で自分は消えていくのだなと絶望感が頭に貼りついた。自分が消えてなくなると感じた時、胸の奥から熱い気持ちが高鳴りだして喜びが体中を駆け巡り体が巨大化した。玲の中に絶望と歓喜が繰り返されていた。そして彼女の脳は徐々にその感情の激しい振幅に耐えられなくなってきた。この感情のスパイラルから逃げられるのなら、自分はなんだってやってやると思い始めていた。なんでも言うことを聞くからこの異常な状況から抜け出したいと熱望した。あの銀色の光さえ見ていれば問題が解決する、あの目の言うことを聞けばいいと思った。
狐はよだれを垂らしながらにやりと笑った。
「可愛くない狐だな」
勤の低い声が玲の頭の奥で鳴った。その瞬間玲を取り巻く嫌な感覚は霧散した。「ドン!」という鈍い音が響き玲は体全体に重力がかかる感覚が甦った。
「ちっ」
狐は悔しそうな顔をして舌打ちした。その銀色の瞳は激しい憎悪を持って二人を凝視していた。それからゆっくりとした足取りで二人から離れていき、やがてその姿は闇に紛れてユラユラと消えていった。
「先輩・・・・・・」玲はそう呟くと勤の胸に体を預けた。彼女は顔を勤の胸にピタッとくっつけて大きく深呼吸した。自分の中の毒気をすべて吐き出そうとする―そんな呼吸を繰り返した。
勤は玲に訊きたいことがたくさんあるような気がした。自分が全く理解できていない事態が進み始めていて、その中に自分がポツンととり残されているように存在している。そのことに焦りのようなものを感じ始めていた。けれども彼は自分の胸に寄りかかり深い呼吸をただ繰り返している玲に何も訊くことはできなかった。