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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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白石新次郎が残したもの

 エリック・ハーバードの部屋は雑然としていた。南向きのリビングルームの半分は体を鍛えるための器具があり、天井からは黒いサンドバッグが吊してあった。美冬はサンドバッグを興味深そうに眺めた。

「ハーバート、あなたはボクシングをしているの?」

「イエス、ニューヨークのハイスクールではボクシングクラブに入っていまシタ―ッ。城北高校にはボクシング部ありまセーンけど」

「あなた、とても強かったでしょう?」美冬は彼が体育館の重い引き戸を片手で簡単に開けたことを思い浮かべた。

「アーッ、そうデスネ。ボクはそれ程強く打ってないのに、相手がダウンするのですゥ」

「ハーバートの拳にはパワーがあるのね。でも昨日、あなたの手を握ったけど、全然硬くなかったわ」美冬は楽しそうに言った。

「渡辺サーン。パンチ打つ時だけ、拳を固めマース」ハーバートは腰を落として左ジャブを二回、右ストレートを一回放った。美冬は彼の右拳の先から空気の塊が真っ直ぐ飛んでいくのが見えた。

「ワァ―、凄い。ハーバード、あなたの拳の先から何かエネルギーの塊のようなものが見えたよ。ボクシングする人はそんなことができるの?」美冬はハーバートの右の拳をそって握った。

「アウッチ! 渡辺サーンも見えましたカ? ボクはあまり見えないけどスルジャも同じこと言ってましたァ。調子イイときにィ、パンチと違ったモノが出るようデース」ハーバートはいきなり右手を美冬に握られて動揺した。

「スルジャって・・・、高梨君もボクシングするのかな?」

「スルジャはボクシングしまセーン。スルジャは太極拳ですゥ」

「太極拳って、この前彼が武道場で踊っていたものでしょう? とても美しかったけど」

「オーッ、太極拳は美しいダンスみたいですけど―ッ、スルジャ、とても強いデス。太極拳はマーシャルアーツですゥ」

「マーシャルアーツ? 武芸、武術ってことかな」

「イエス、イエス。ブジュツです」ハーバートは美冬がずっと右手を握っているので、自分の心臓の鼓動が聞こえ続けていた。

「ねえ、ハーバート・・・、あなたがボクシングをするのは自分を守るためなのかな?」

「アーッ・・・・・・」長身のアメリカ人は少しの間、考え込んでしまった。

「ニューヨークではァ、強くないと生き延びることはできナーイと思ってましたァ。ダカラ一生懸命ボクシング、練習しました―ッ。こう言ってはエラそーですが、ボクはファイトで一度も負けたことないデース」

 美冬は小さく頷いた。

「デモ、一年前にその考え方、変わりマシターッ」

「んん? 何かあったの」美冬は小さく右に顔を傾げた。

「一年前、この家に来た時に孔サーンとスパーリングしましたァ。ここの地下一階に広―いフロアがあって、ボクは以前からスルジャと時々スパーリングしてましたァ。一年前にスルジャからァ孔サーンとスパーリングするようにと勧められましたーッ」ハーバートは美冬の小さな手が暖かくなってきたように感じられた。

「それで、孔サーンとスパーリングしましたァ。孔サーン、不思議デース。やる気、アーッとファイティングスピリットがゼロデース。ボクが困ってしまったら孔サーン『打ってきていいよ』とニコニコ笑いながら言いました―ッ。ボクはイラっときてファイトしました―ッ。デモ、ボクのパンチ、ひとつも孔サーンに当たりませんでしたーッ。ビックリですゥ」

「谷口先輩はとても強かったのね」

「アーッ・・・・・・、そうじゃないデース。強くないデース」

「エッ強くないの? でもあなたのパンチは一つも当たらなかったのでしょう」美冬は頭を左に捻った。

「イエス、イエス。ボクは強い相手だと頑張りマース。クールに相手を見て自分のパワーを一二〇パーセント出すこともできマース。デモ孔サーンには全然ボクのパンチ当たりませんでしたァ。もの凄―くいっぱいパンチ出したけど当たりまセーン。そして孔サーン、ボクをノックアウトする気なかったみたいデース。かなり長い時間、孔サーンとスパーリングしましたァ。デモ不思議なコトにその時は全くゥ疲れませんデシタ。途中から孔サーンとダンスをしているみたいでしたァ」

「不思議なスパーリングね」

「あれからボクの考え方、かなり変わりましたァ。自分を守るためだけのボクシングではなくなったような気がしマース」

 美冬は瞼を閉じ、そして両手で握ったハーバートの右拳を自分の額に当てた。

「じゃあ、ハーバートのこの拳は自分じゃない誰かのためにあるのかな?」美冬はその姿勢のまま祈るように言った。

 ハーバートは彼の右拳が接している美冬の額の冷たさを感じていた。その冷たさは彼にとって心地よいものだった。そしてその冷たさから何か他のものを感じ始めていた。美冬の額の冷たさから儚さだったり悲しみだったり諦めだったり、そんな想いが伝わったように感じた。ハーバートは美冬が何かの救いを求めているのかもしれないと漠然と感じた。

「ふぅー、やっぱりハーバードの拳は大きくて重いなぁ。頼りがいのある手ね」美冬はそう言いながらハーバードの右拳を彼の体の前にゆっくりともどした。そして彼女はそっと大きな右拳から両手を離した。ハーバートはそのとき何か言いたかった。しかし饒舌なアメリカ人は何も言うことができなかった。



 西村教頭と猪口教諭は午前十一時になると、高梨邸を出て行った。二人は滞在時間の殆どを池の周囲で過ごした。猪口教諭が時々あまり意味のない質問を華と尊にしたが、西村教頭はずっと池を見つめていた。彼はとても大切なものを捜しているように池の水面を凝視し続けた。西村教頭の異常なほどの高い集中力は華と尊をも引き込んでいた。そのため猪口教諭の質問に華も尊もおざなりの返答になることもあった。

「そんなに池の鯉を見て、面白いのかなぁ」猪口教諭は時間を持て余してブツブツ言っていた。

 西村教頭は帰り際、華と尊を見て言った。

「今回のことは亡くなった白石君に責任がある」

 西村教頭はまだ何か言いたそうだったが、その言葉を飲み込んだ。華は西村教頭の言動が理解できなかったが、彼の言葉に少し安堵することができた。隣の尊も頷いた。

「西村教頭、白石君が死んじゃったんで、文芸部の顧問とかどうします? あのぉ、僕がやってもいいですよ。あっ、演劇部兼務で。演劇部は渡辺さんしかいないし、彼女も文芸部に入ってもらったらいいんじゃないかな。ほら、今回もオブザーバーとして参加していたし。そうしたら演劇部がなくなって文芸部の顧問として僕も集中できるわけだ。うん、うん、名案だと思わない? 宮森さん」

「いやぁ、今そんなことを言われても、ちょっと・・・」華は戸惑った。

「猪口君、帰るぞ」西村教頭は呆れたように部下を見た。

「あっ、ハイ、ハイ、分かりました。帰ります、帰りましょう。じゃあ、宮森さん、高梨君、また明日ねーっ」猪口教諭の落ち着きのない動きに華と尊は小さく笑った。

 城北高校の教師二人は黒い乗用車に乗って東の正門から出て行った。正門の横で三ツ橋執事が一礼していた。

「何か、嫌だな・・・」華は僅かに揺らいでいる池の水面を見ながら言った。

「・・・・・・」隣に立っていた尊は華の横顔を見た。

「この池の水で白石先生は死んじゃったのかな? 本当に水は人を引き寄せて殺してしまうの・・・・・・」華は眉間に小さな皺をつくり、尊に淋しそうな瞳を向けた。

「分かりません。ただ僕はこの池が好きです。とても親密な感じがして」

「私もこの池が好きだよ。鯉も初めて見たし」華の左手は尊の右手を探していた。彼女の左手が尊の右手に触れた。二人は指を絡ませ合いながら手を繋いだ。華の左足の義足の継ぎ目がじんわりと暖かくなった。

「尊君のお家は大きいけど人もたくさんいて賑やかで良いね」華は再び池の水面を見つめた。

「そうですか。僕には少し賑やかすぎると感じるときがあります」

「ハーバートや谷口先輩がいるから?」

「そうですね。彼らは基本的に自分の都合で動きますから」

「じゃあ、尊君が一人でいたいときも勝手に部屋に入ってきたりするの?」

「まあ、そうです」尊は少し困ったような微笑みを浮かべた。

「でも近くに話し相手がいるってことは良いことだと思うよ。羨ましいなぁ」

「そうですね・・・」尊も隣の少女と同じように池の水面を見続けていた。水面は華の近くに集まった鯉たちの動きでゆらゆらと揺れていた。

「私は五歳のときに母がいなくなり、お父さんも仕事の関係でたまにしかマンションに帰って来ない」

「やはり淋しいですか?」尊は右を向き、華を見た。

「ううん、それほど淋しいとは感じなかった。自分一人でやりたいことが結構あったし。でも尊君のお家にいて賑やかな雰囲気を感じると、やっぱりマンションに一人でいるのは、どうなのかなぁって思う、私は自由だけどね」華は尊の顔を見て照れながら答えた。

 尊は何か言いたかったが、その何かが分からなかった。

「ねえ、尊君のお姉さん、香さんってどんな人なの?」

「宮森部長はどう思われました?」

「うーん、やっぱり綺麗な人だね、大人っぽいし。私より一つ年下なんて信じられない。それから・・・・・・」

「それから?」

「変なこと言うようだけど、空気みたいな人。あーっ、分かんないよね。ごめんね」

「空気みたいな人ですか。なかなかユニークな表現で香が聞いたら喜ぶかも」尊は小さく笑った。

「尊君のお姉さんって、その場にいるけどフワーッって薄くなって、その場の空気に混ざってしまうような感じがしたんだ。居るようで居ないようで、でも本当はちゃんと存在している。あれっ、また変なこと言っている」

「空気に溶け込むことができるのなら、どこへでも行けそうですね」

「あっ、でも存在感がないってことじゃないんだよ。その時はフワーッと薄くなったような感じだけど、あとから思い出すと凄く存在感があるとい言うか・・・、記憶に残る素敵な人」

「・・・・・・」尊は答えずに何事か考えていた。

「あっ、ごめんね。お姉さんのことで勝手なこと言って」華は自分の言ったことを後悔した。

「いえいえ、宮森部長、謝らないでください。部長の言っていることは当たっているのではないかと思って・・・。姉は僕から見ても謎が多いのです。だから部長が言ったことで姉の謎がひとつ解けたような気がします」尊はそう言うとニッコリ笑って繋いだ右手に力を込めた。

 華は嬉しくなって尊の顔を見上げた。そのとき正面から視線を感じた。宮森華は真っ直ぐ前を見ると、そこには蒼いワンピースを着た香がいた。香の横には灰色のスーツを着た男が立っていたが顔は見えなかった。

「尊君」

 尊は華の硬い声に驚いた。そして彼は隣の少女が向けている視線を追った。そこには美しい姉の姿と顔がぼやけている長身の男が並んで立っていた。

 香は隣の男に何か囁いた。すると香と隣の男の姿は徐々にぼやけていき、数秒後には消えてしまった。

池の鯉たちは華の近くから離れてそれぞれが激しく泳ぎ回り始めた。

「暗い・・・・・・、尊君、暗いよ」池の周囲が暗くなり、華は尊にしがみついた。

「部長、池の真ん中が光っています」水面は静かになっていた。

「何か光っている。七つの星?」

「ええ、北斗七星です」

 華は尊にしがみつきながら池の中の北斗七星から眼が離せなくなっていた。その北斗七星の輝きは灰色・紫・紅・蒼・橙・アイボリー・黒、だった。

「白石先生はこの北斗七星を見ながら死んじゃったのかなぁ」華の呟いた声に尊の体は一瞬硬直した。

「尊君?」華は心配そうに一学年下の後輩を見た。

「大丈夫ですよ、宮森部長。もう闇は消えました」華は周囲を見回すと、いつもと同じ曇天の空間があった。

「うーっ、でもしばらくこのままでいて」

「・・・・・・」尊はそっと華を抱きしめた。華は尊の心臓の鼓動が自分の心臓の鼓動が一つになっていると感じた。

(あの白石先生が私と尊君を結びつけてくれたのかぁ?)そう思うと華は不思議な気がした。

「オーッ! スルジャ、宮森サーン。ラブラブですねーッ アツイ、アツイ」玄関の方からハーバートと美冬が歩いて来た。華は少し顔をしかめてハーバートに冷たい視線を送った。

「ホワイ? いつもなら宮森サーン、プンプン怒るのに今日はどーしましたァ。スルジャ、にハグされて怒ること忘れたのデスカーッ」

 華は尊の顔を見ながらそっと体を彼から離した。

「うるさいわね、エリック・アキレサンドル・ハーバート君。私が何をしようと私の自由でしょ!」

「オーッ、ボクの名前はエリック・アキレサンドルではなくてエリック・アレクサンダー・ハーバートですよ。宮森サーン、間違えないでくだサーイ」

「イッツ、ジャパニーズジョーク」華はハーバートに向けて顔をしかめた。

「アーッ、宮森サーンのジョーク、レベル低いデース」ハーバートは挑発的に笑った。

「あなたのエッチなジョークよりはマシよ。それよりもハーバート、君はちゃんと美冬のお相手したの? 美冬に変なことしなかった?」

「フフフッ、エリック・ハーバート君はとてもジェントルマンだったわよ。それよりも華、高梨君、猪口先生たちは帰られたのね」美冬は微笑みながらそう言った。

「うん、先生たちは先ほど帰ったよ。二人は私たちと一緒に、ほとんど池の周りにいたわ。教頭先生はずっと池を見つめていたの。ねぇ尊君」

「ええ、西村教頭はとても集中して池の真ん中あたりを見つめていました」

 美冬は前にいる華と尊を交互に見て、それから池の中央を見た。それから自分たちから反対側の池の淵を眺めた。

「渡辺さーん、どーしましたァ? 急に難しい顔をして」

「ううん何でもないわ、エリック」

「オウ・・・、イエス、イエス・・・」エリック・ハーバートは右手で金髪の巻き毛を数回、かき上げた。

「エリック・ハーバート君、君の部屋で何か良いことがあったのかな? 本当は美冬に何かしたんじゃないの」華はニタニタ笑いながら訊いた。

「オーノー、何も変なことしませんでしたーッ。渡辺さーんにボクの部屋を見てもらいましたーァ。ボクシングのサンドバッグとか。ねえ、渡辺さーん」

「フフッ、さあ、どうだったかな?」美冬は首を傾げて微笑んだ。そして彼女は両手でハーバートの右手を包み、それを華の前に差し上げた。

「エリックの拳はとても凄いの」エリック・ハーバートは赤面していた。

「なるほど、なるほど。ハーバートは意外とジェントルマンなのね、尊君」華は笑いをこらえていた。

「ええ、彼はジェントルマンですよ」尊は少し吹き出していた。

「尊様」美冬とエリック・ハーバートの後方から三ツ橋執事の声がした。高校生四人は振り返った。

「皆様の昼食がそれそろ出来上がりますので、そろそろ一階大広間にお越しください」

「分かりました。ありがとう、三ツ橋さん」

「エーッ、お昼ごはんまでご馳走になるの? 何か悪いなあ、尊君」そう言いながら華の口元は緩んでいた。

「アーッ、宮森サーン、ソウ言いながらランチメニューは何か考えているデショ?」

「グッ・・・、うるさいわね、エリック・ハーバート!」華は長身のアメリカ人を睨んだ。ハーバートはおどけながら美冬の後ろに回り隠れる振りをした。

「あなた、大きいのだから美冬の後ろにいても隠れたことにはならないわよ! 何やってんの、君は」華は少し控えめに赤い頬を膨らませた。

「フフフッ、華。今日は高梨君のおもてなしに甘えましょう。いろんなことがあったのだから」

「そうだね美冬。そうしよう。あっ、ごめんね尊君。大変なことがあったのにいろいろ気を使わせて」

「えっ、いえ、そんなことないですよ」尊は少し照れていた。尊の様子にハーバートは目を見開き口を開けて驚いたが、美冬が人差し指を唇に当てて「シーッ」と優しく伝えた。

「それでは、そろそろ大広間に行きましょう」尊の声と共に若者たちは歩き始めた。


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