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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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内田南がライトハウスに勤めることになった訳

 カフェ「ライトハウス」のカウンター席に飯塚綾子はぼんやりと座っていた。彼女はベージュ色のブラウスとライトブラウンのチノパンツを身につけていた。彼女の前にあるカウンターにはブラウンのマグカップがあった。カウンターの奥にはモスグリーンのワンピースを着ている内田南が自分のコーヒーを淹れていた。

「南ちゃん、常連さんが減っちゃたね」綾子はつまらなそうに言った。

「ええ、残念です」南は灰色のマグカップにコーヒーを注ぎながら答えた。

 綾子はウェーブのかかった髪をかき上げながら南の顔を眺めていた。(この子、こんなにはっきりした目鼻立ちだった? 以前から切れ長の瞳ではあったけど、ぼんやりした感じだったのに。それに色白なのは知っていたけど前は化粧ののりが悪くて仮面みたいだった。でも今日は美白になっているし・・・唇もピンクだし・・・)

 南は綾子の視線を全く感じていないかのように灰色のマグカップに唇をつけた。

「おお! 飯塚さんと内田さん、やはりここにいたのですねーっ!」入口のドアが開くと東山校長が入って来た。丸く小さな男は綾子の隣のカウンター席に飛び乗るように座った。

「飯塚さんも内田さんも休日なのに呼び出してしまいましてぇ、申し訳ないですぅ」東山校長は禿げ上がった丸い頭をペコペコ下げた。

「いえ・・・、当然のことです、校長先生。私たちも白石先生にはいろいろお世話になりましたし。ねえ南ちゃん」

 南は瞳を閉じて少しだけ頷いた。

「南ちゃん、校長先生にもコーヒーを」綾子は南を見ながら言った。(この子、白石先生が死んだことに興味も関心もないのかしら?)

「いやぁ、申し訳ないですねぇ。今日はライトハウス、お休みなのにぃ」東山校長は赤くなった額から頭頂部にかけて浮いている汗の玉を白いハンカチで拭いている。

「あの元気な白石先生が溺死するとは信じられないです。校長先生も突然の出来事なので大変だったでしょう?」

「まあーっ今は人がいなくなることは日常茶飯事ですが・・・。しかし我が城北高校の職員がぁ溺死するとはぁ思ってもいませんでしたなぁ」深刻な顔をして話している東山校長の少女のような声が室内に響いた。綾子は校長の声を聞き、笑いがこみ上げてきた。彼女は必死に笑いの発作をこらえていた。

「・・・・・・校長先生・・・どうぞ」南は黒いソーサーと黒いカップを東山校長の前に置いた。それからミルクの入った透明の小さな容器も置いた。

「ありがとうぅ、内田さんーっ」甲高い声の持ち主は自分のコーヒーの中に角砂糖を五個入れて銀色のスプンでかき回した。それからミルクを入れまたかき回した。一連の儀式のような作業を終えると東山校長は分厚い唇を黒いコーヒーカップにつけた。そして美味しそうにコーヒーを飲んだ。

(太った中年男が甘ったるいコーヒーを飲んでいる。少女の声を出す禿げた肥満児体形の高校の管理職・・・何なの? 隣のチビは)綾子はなぜこの城北高校の校長がこの男なのか不思議に思った。(あのクールな西村教頭の方がよっぽど校長という位置に相応しい。まあ校長なんて飾り物で、実際の学校運営は西村先生が行っているのだろう)そう思った時、綾子は冷たい視線を感じた。彼女は前を向くと南と目が合った。南は真っ直ぐ綾子を見て不思議な笑みを浮かべた。綾子はその瞬間、自分の心がズルズルと剝がされるような感覚に陥った。しかしその感覚は一瞬のものだった。

「・・・・・・っ子さん、しばらくは白石先生の後任探しやぁ彼の役割を他の人が担わないといけないので慌ただしくなりますーっ。しかしぃこのライトハウスは平常通り営業してくださいねぇーっ」東山校長は長々と綾子に話をしていたが、カフェの店主は何も聞いていない様子だった。

(南ちゃん、いつ此処で働き出したのかなぁ? よく覚えていない。気がついたら、この子がいた。でも一緒に働いていても、彼女はいつもどこに居たのかな?)綾子の隣の席からキャンキャンと甲高い声が聞こえている。

(南ちゃんは私と同じカウンターの奥にいて作業をしているはず。だけど彼女と一緒に働いている感覚がない。変なの・・・・・・)

「綾子さんっ、白石先生もーっよくこのライトハウスでぇーコーヒーを飲まれていたのではないですかぁ?」綾子は隣から自分の名前を呼ばれたので思考を中断した。そして隣の男を見た。その男の足は高い椅子に座っているので、床に届かなかった。東山校長は短い足を空間でブラブラと前後に振っていた。灰色のスラックスが前後に動いているのを見て、綾子は必死で笑いをこらえた。笑いの発作が連続して腹の底から喉元に沸き上がって来る。彼女は腹筋を全力で締めて口元も硬く閉めた。

「綾子さん、どうしましたか? 辛そうな顔をされて・・・・・・。そうですよねぇ、あなたもぉーっ大切な同僚を失ってぇ悲しいのでしょう・・・」

(止めてくれ! 女の子のような声で喋るな! コーヒーに角砂糖五個も入れやがって。それから七五三のガキのような恰好をして短い足をブラブラさせるな。腹が痛い)綾子は笑いが噴き出さないように全力で上半身に力を込めた。そのため彼女の体は小刻みに震え始めた。

「校長先生、亡くなった白石先生はよくこのお店に来てくれました」南の小さな声に東山校長はピクッとした。そして彼はゆっくりと顔を南の方に向けた。

「彼はぁ彼なりに忙しい思いをしていましたからねぇ。気分転換というかぁーっリラックスする場所がほしかったと思いますよぉ」

「リラックス・・・・・・ですか・・・」南はぼんやりと遠くを眺めるように呟いた。東山校長は何かを思い出そうとしている南の顔を、丸い眼鏡の奥にある丸い眼でじっと見ていた。

(あの人、自分は死なないと言っていたのに死んでしまった。あたしは何故ずっとあの人の言うことをきいていたのかしら?)南は自分を見つめている東山校長のつぶらな瞳を見ていた。

 この城北高校に入学してからも内田南は自分の存在を感じることはなかった。両親も弟も学校の友達もいた。だけど彼らは薄っぺらい記憶として一日一日通り過ぎるだけだった。南にとって彼らは昨日だろうが今日だろうが明日だろうが同じモノだった。(いつかあたしはこの街を出て何処かで倒れて消えてしまうのだろう・・・・・・)南はいつからかそう思うようになった。そして自分はそのように生まれたのだと信じるようになっていた。

 彼女が白石新次郎を見たのは三年生になったときだった。他の高校から異動してやってきた教師ということで紹介されていた。教室のモニターの画面では白石先生が文芸部を再建するので、本が好きな人はぜひ文芸部に入部してほしいと話していた。

 南は白石新次郎を初めて見て人というより邪悪な爬虫類のように思えた。鬱陶しい長い髪、濁って垂れた眼、傲慢な鼻、大きくて噛みつきそうな口、赤紫の分厚い唇、長く白い舌、ヌルヌルした体の動き―彼は異形の存在だった。南は白石新次郎を見て震えた。その原因が恐怖なのか嫌悪なのか興味なのか分からなかった。彼女は文学に興味などないのに引き寄せられるように文芸部の部室に行った。文永部の部室には数人の生徒がいた。そして白石教諭が南を見た。

(あの人はあたしを見て笑った。あたしが何も書かれていない白紙のような存在だと分かったんだ。あの人は人を喰らう大蛇のように、白い舌を伸ばし涎を垂れながらあたしに巻きついてしまった・・・・・・)

 南は数回ほど部室を訪ねたが、ある時点からその行為を止めた。白石新次郎が南に部室に来なくてもいいと告げた。それから二人は高校の外で会うようになった。その場所は三階建ての朽ち果てたアパートだったり、誰もいない夜の児童公園だったり、解体工事の予定のないスタジアムの観客席だったりした。それらの廃墟の中で南は白石新次郎から苦痛と侮蔑と異様な快感を与えられた。どこに居ても南は彼の言いなりだった。理不尽なことばかり求められたが、彼女はそれを拒むこともできずに全てを受け入れ続けた。南は白石新次郎との一方的な関係を続けていくうちにある感情が芽生え始めていた。それは自分が汚されているという感情だった。毎朝、洗面化粧台の鏡を見ると自分が徐々に醜くなっているように感じた。顔に表情がなくなり体に力が入らなくなり言葉は失われていった。それでも周囲は彼女の変化に何の関心も示さなかった。

 南は高校を卒業するとAFZ近くの飲食店に就職することが決まっていた。しかし卒業三か月前に東山校長から呼び出しがあった。校長室には東山校長、西村教頭、阿沼学年主任がいた。

「やあやあーっ、内田さん、急に呼び出してしまって申し訳ないですぅ。実はあなたに大変申し訳ないお願いをしたいのですよーっ」東山校長はつぶらな瞳をぐりぐり動かしながら甲高い声でそう言った。南は東山校長と直に話をすることは初めてだった。

「阿沼君・・・」西村教頭の乾いた声も南は初めて聞いた。

「内田さん、君は『Gee』という飲食店に就職が決まっているよね?」南の対面に座っている阿沼学年主任が薄笑いを浮かべながら訊いた。

「あっ、ハイ」南は阿沼の細い眼が少し大きくなっているような気がした。

「高校側の勝手なお願いだけど、内田さん、君、四月からここの『The lighthouse』で働いてくれないかな?」

「エッ、それはあたしが『Gee』の内定を取り消して『The lighthouse』のスタッフとして働くということですか?」南は久しぶりに長いセンテンスを話した。

「そういうこと。まあ、直ぐに答えは出ないと思うけど。こちら側の勝手な申し入れなのだが、それに見合うことはさせてもらう。内田さん、前向きに考えてもらえないかな?」阿沼の口調は自信あり気だった。

「・・・・・・」南は何を言っていいのか分からなかった。

「内田さーん」東山校長は校長専用の大きな机から上体の半分を出して言った。

「突然の勝手なお願いでぇ、あなたも驚いているでしょうーっ。そのことは大変申し訳なく思っていますぅ。あなたにとっては高校卒業後の大切な進路問題ですからねぇ。今回のことは私たちも検討に検討を重ねて決めたことですぅ。お給料や身分保障もしっかり考えているし、あなたにとっても、良い話だと信じていますーっ」

「それで・・・、いつまでに返事をしたら?」

「できれば一週間までに返事をもらいたいなぁ。いい返事をもらえたら、もちろんこちらから内定先には連絡させてもらう。もっとも今回のことは高校側の勝手な言い分なので、君の意思が最大限尊重される。その点は安心していいよ」阿沼学年主任は返答が分かっているかのようにニヤニヤしながら説明を終えた。

 南は東山校長たちの要望を受け入れ『The lighthouse』で働き始めた。店長の綾子は優しくて明るい人柄のように思えた。南は仕事に関して何も問題はなかった。店のメニューは少ないし客が大勢押し寄せることもなかった。何よりも彼女はコーヒーを丁寧に美味しく淹れることが好きだった。ホットドックもパスタも美味しく作ることができた。

 白石新次郎は当然のように『The lighthouse』にやって来た。放課後や閉店時刻の午後5時30分を過ぎても来店した。白石はカウンター席には座らずに奥の四人掛けテーブルの椅子に座った。彼はいつも南に注文したコーヒーを持ってくるように命令した。そして白石新次郎は当然のようにその場にふさわしくない行為をした。その時いつも綾子は別の場所にいた。同じ店の中にいるが、南と綾子は別の時間と空間にいた。そして綾子は南に何の興味も関心も示さなかった。

 南は白石がこの世界からいなくなったことで異様な感覚に陥っていた。自分がフワフワと浮遊しているような感覚だった。床に足がついていても安定感がなかった。(あの人があたしをこの世界に繋ぎ止めてくれていたのかしら?)綾子と東山校長が何か話をしている。綾子は激しく笑っていて東山校長は不思議そうな顔をしている。

(宮森華さんに会いたい・・・・・・。それから水樹晶君にも)南は華のよく動く黒い瞳と冷たい銀色の光が奥底に潜んでいる水樹晶の瞳を思い出した。



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