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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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西村教頭と猪口教諭の訪問

 華と尊が午前九時五十分から一階大広間の黒いテーブルの黒い椅子に座っていた。午前九時五十五分に出入り口の白い引き戸がゆっくりと開き西村正彦教頭と猪口権教諭が現れた。

「東山校長先生は急なお仕事が入り、どうしても今日は来ることが出来ないとのことでした」三ツ橋執事は二人をテーブルの椅子に案内しながらそう言った。

「宮森さん、高梨君、大変だったねえ。疲れただろう? うん、そうでもないのかな。いやいや失礼、やっぱり疲れているだろ?」猪口教諭は浅黒い顔を少し赤く染めながら言った。

「大まかなことは昨夜高梨君、君から聞いたけど、やはり細かいことも聞いておかねばならないのだよ。城北高校に勤めている同僚としては。申し訳ないけど・・・・・・」猪口教諭はしんみりとそう言った。

「高梨君、最初に池を案内してくれないか? 彼の亡くなった場所を見ておきたい」西村教頭が乾いた声で訊いた。

「はい、分かりました」尊は少し驚きながら答えた。華も西村教頭の声に驚いていた。

 華と尊は西村教頭の肉声を聞いたことがなかった。東山校長、猪口教諭、白石教諭、中岡養護教諭たち城北高校の職員はよく話す。しかし西村教頭は無口で無表情でクールな印象があり、生徒たちは彼をアンドロイドではないかと噂していた。

「あっ! そうですねぇ。そうしましょう。白石君が死んじゃった、失礼えーと亡くなった場所で供養しないねぇ。ナンマイダ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」猪口教諭は茶色のスーツジャケットのポケットから透明な数珠を出した。

「猪口君、そういうことではない」西村教頭は銀縁メガネのフレームを二度動かした。

「あっ、そうですか、そうですね」猪口教諭は慌てて数珠をポケットに戻した。

「西村教頭先生、猪口先生。白石先生は池に溺れて亡くなったのですが、その原因は不明だと昨夜警察の人が言っていました。ともかく最後に白石先生がいた池にご案内します」

 尊は目の前の教諭二人を促し、左隣に座っている華に目配せした。華は無言で頷いた。

 玄関から一番近い池の場所に行くと猪口教諭は石積みと水面の境目を覗き込んだ。

「ふーん、やはりこの池はかなり深いねーっ。白石君は泳げなかったのかなぁ? 宮森さん、君は白石先生が泳げたかどうか知っている?」

「白石先生が泳げたかどうかですか・・・。知りません。でも白石先生は空手五段って言ってましたから、ひょっとして泳げたかも?」華はチラッと隣に立っている尊を見た。

「そうですね。白石先生はご自身では体を動かすことが好きだと言われていました。空手の有段者ですし。だけど白石先生は繊細な方だったので水に関しては良い感情を持っていなかったと思います」尊は華と猪口教諭を交互に見ながら言った。

「水が人を誘って溺れさせてしまうってことかぁーっ。ふーん、彼は自称文学青年で、あれでも感じやすかったのかな? 僕にはすごく鈍そう、いやっ図太そうに見えたけどな。あれぇー鯉がたくさん寄って来たぞぅ」猪口教諭は固そうな体を乗り出して水面を見た。華は嫌な予感がした。

「猪口先生、あまり覗き込まないほうが・・・・・・アッ!」

「わあーっ!」猪口教諭の軽薄な声が響いた。彼は華が予想した通り体のバランスを崩し池に落ちた。と見えた瞬間、硬い頭髪が水面につく直前に猪口教諭の体は静止した。西村教頭が猪口教諭のベルトを左手で掴んでいた。そして何事もなかったかのように落ち着きのない部下を後ろに引き上げた。猪口教諭は元の位置にもどったが、今度は後方にバランスを崩しヨタヨタと後退し転倒しそうになった。すると尊がすっと移動し国語教師の体を支えた。

「はぁーっ、ビックリした。僕はどうなったのかなぁ?」猪口教諭は自分の状況が分かっていなかった。

「プッ、猪口先生、しっかりしてくださいよ」華は猪口教諭の落ち着きのなさが嫌いではなかった。華たちの後方に控えている三ツ橋執事も微笑んでいた。

「やっぱり水は人を引き寄せて溺れさせるのだ。あな、恐ろしや! 恐ろしや!」猪口教諭はポケットから透明な数珠を取り出した。その数珠を合掌した手に巻きつけて池に向かって何回もお辞儀をした。

「猪口先生、何やってるの? 先生が池に落ちそうになったのは体を乗り出し過ぎたからでしょ! 鯉を見るために。もおーっ、落ち着きがないんだから。ところで猪口先生、先生は泳げるのですか?」

「いや、僕は泳げん。いわゆる『金づち』という奴だ。どうだ、宮森さん、高梨君。文学的表現だろう」

「そんなことで威張らないでください。ねえ尊君」

「そうですね」尊は笑いながら同意した。

「アッ、でも白石先生の死因が分かったぞ。彼も僕のように集まって来た池の鯉を覗き込んで、誤ってこの池に落ちたに違いない! これは事故死だ。ウンウンそうだ。そうに違いない。高梨君、昨夜君の家に来た警察に連絡したまえ。僕が事件の真相を説明するから」

「猪口先生、昨日白石先生がこの池にいた時、鯉には関心を示さず美冬と話ばかりしていましたよ」華は呆れていた。

「白石先生が溺死した時刻は午後八時から九時の間で、その時間帯は暗くてほとんど池の様子は分からないと思います」

「何だ、君たち。とても気が合っているじゃないか、けしからん。僕は48歳でまだ独身なのに・・・。宮森さん、高梨君。そもそも人間なんて気分屋でいつ感情の変化があるか分からない生き物だ。もしかしたら白石君は夜になって鯉を見たくなったかもしれないじゃないか。それに夜目も効いていたかもしれんぞ」猪口教諭は愚痴っぽく言った。

「そうかなぁ・・・、猪口先生の話はピンとこないです。あれっ、教頭先生はどこにいるの?」

「あっ、ホントだ」猪口教諭は辺りを見回した。

「教頭先生ならあそこにいますよ」尊は自分達という場所から池の反対側に佇んでいる西村教頭を指差した。

「教頭先生、いつの間にあっちに行ったのかしら?」華はそう言いながら西村教頭の佇んでいるところに向かって歩き出した。尊と猪口教諭も華のあとについていった。

 西村教頭が立っている背後には楠があり周囲は暗かった。

「西村教頭、どうしたんですか、こんなところに来て?」猪口教諭は周囲の暗さに怯えているかのようにキョロキョロと辺りを見回した。

「・・・・・・」西村教頭はそれには答えず水面を見つめていた。華と尊も西村教頭と同じように水面を見つめた。するとたくさんの鯉が華の近くに集まってきた。

「高梨君、昨日も鯉が宮森さんのところに寄って来たのか?」西村教頭は静かに訊いた。

「ええ、昨日も鯉たちが宮森部長の近くに寄ってきました」

「エーッ! 鯉が宮森さんの近くに寄って来るのかい。宮森さん、君は鯉に食パンか何か餌をあげたのかい?」

「何もあげてませんよ、猪口先生。そもそも何で私が食パンを持ち歩かなければならないのですか?」華は口を尖らせ柔らかな赤い頬を膨らませた。

「いやぁ、高梨君のお家に来るからお土産とか・・・」

「何で尊君のお家にお邪魔するためのお土産が食パンなのですか。失礼しちゃうわ!」

「ほらぁー、今は高級な食パンもあるじゃないか、ねえ高梨君?」猪口教諭は尊に同意を求めた。

「そうですねぇ」尊は苦笑した。

「猪口先生、私の尊君へのお土産は手作りクッキーです。昨日の午前中、私頑張ってつくったんだから」

「部長のクッキー、とても美味しかったですよ」

「えへへへっ、そうかなぁ」華は急に笑顔になったので、猪口教諭は訝し気に華を見た。

「ところで教頭先生はどうしてこの場所に来られたのですか?」尊が平然と西村教頭に訊いた。

 華はいつも静かな尊が無口な西村教頭に遠慮なく質問したことに驚いた。(尊君って大胆なところもあるんだぁ・・・)

 西村教頭は尊の問いには応えずに華を見つめた。華は銀縁眼鏡の奥にある灰色の瞳に見つめられて一つの映像が脳裏に浮かんだ。

「アッ、教頭先生が今いる場所は、昨日の午後にみんなが集まったときに白石先生が立っていた場所です」

「ふーん、西村教頭のところに白石君が立っていたの」猪口教諭は面白くなさそうに言った。

「美冬、あっ渡辺美冬さんとその場所で白石先生は池を眺めていました」

「渡辺さんも高梨君の家に来てたの? 彼女、演劇部なのに」演劇部顧問は不満そうだった。

「美冬もカフカの『審判』を読んでいたのでオブザーバーとして文芸部の検討会に参加してくれました。それから私ひとりじゃ高梨君のお家に伺うのは何か気が重いので美冬も一緒に来てくれたのです」

「あーっ、そう言えば渡辺さんにカフカの『審判』を読んだらいいって言ったような記憶があるぞ。もぉー、白石君はぜーんぶ自分の都合のいいようにやっちゃうんだよねーっ。渡辺美冬さんは大切な演劇部員なのに・・・・・・」

「それは猪口先生があまり演劇部の顧問として熱心じゃなかったからじゃないですか?」

「宮森さん、それは違うよ。白石君が演劇部の指導も僕が手伝いますっていうから、僕はあまり部室に行かなかった、というか行きづらくなった。何故かなぁ。そもそも僕が文芸部の顧問をしていたんだ。だけど白石君がやるって譲らなかった。彼はほとんど有名な文学作品を読んでいなかったくせに・・・、偉そうに! あいつはもう、勝手な奴だ」

 華は俯いている猪口教諭に何を話して良いのか分からなかった。隣にいる尊を見ると彼も困った顔をして華を見た。

「宮森さん、高梨君。昨日の午後、白石君がここに居た時、池の鯉はどんな様子だったのかな?」西村教頭は感情のない瞳で二人を見た。

「んーん、昨日の昼に白石先生が美冬とこの場所にいた時の池の様子ですか?」華はその時、尊の腕と手の感触に意識がいっていて他のことに関心がなかった。

「その時は池の鯉が激しく動いていました。ジャンプする鯉もいて。僕はあれほど鯉が激しく動いた様子を初めて見ました」

「白石君が来るまでは宮森さんの近くに寄っていたのだろう、池の鯉は」

「はい、そうです」華は二人のクールな会話に感心した。

「西村教頭、そのことが白石君の死んだことと関係があるのですか?」猪口教諭は右の口角を歪めながら訊いた。

「・・・・・・」西村教頭は何も言わずに周囲を見まわすと一瞬目を細めた。そして眼鏡を外すとハンカチで丁寧に眼鏡のレンズを拭いた。それから銀縁眼鏡をかけると池の中央の水面を見つめた。華も尊も西村教頭の動きにつられるように池の中央を見つめた。相変わらず池の鯉達は宮森華の近くに寄ってユラユラと留まっていた。


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