谷口孔の記憶
華と美冬が昨夜と同じテーブルの椅子に腰掛けたとき、エレベーターから小柄な青年が降りて来た。彼は迷うことなく昨日、白石新次郎が座っていた椅子に座った。
「おはよう尊、昨日は大変だったね。それからせっかくこの高梨邸に来てくれたお二人にも大変な想いをさせてしまったねぇ。ごめんね。あっ、僕はこの家に居候している谷口孔と言います」
華はその小柄な青年に見覚えがあった。
「あの・・・、ひょっとして以前文芸部にいた谷口先輩じゃないですか?」華は二年前の春、文芸部の部室にいた賑やかな三年生を思い出した。
「ヒャーッ! さすが宮森華ちゃん。僕のこと覚えていてくれたのねーっ、嬉しい。尊、羨ましいだろ? 尊ぅ、僕は君の知らない宮森さんを知っているのだよ」
「孔さんはすぐ文芸部を辞めたじゃないですか」尊は少し不服そうに言った。
「あーっ、そうだった。だって顧問の白石先生と全然話が合わなかったというか、生理的に無理だったんだよねぇ。彼、毒トカゲみたいで気持ち悪くって・・・、あっ! 今の話はなし。みんな聞かなかったことにしといてくださいね」孔はそう言いながらトーストにバターを塗り、それを口に入れ咀嚼しコーヒーにミルクを入れて美味しそうに飲んだ。
「あーっ、王さんの淹れたコーヒーは美味しいなあ」
華の前に白いコーヒーカップを置いていた王は微笑んだ。
「尊君、そんなに宮森さんをじっと見つめていたら失礼じゃない? いくら君が宮森さんのことを想っているとしても。ねえ、エリック?」孔は昨夜と同じ席に座っているエリック・ハーバートに声をかけた。
「オーッ! 孔サーン。スルジャは宮森サーンのイメージチェンジに驚いているのデース」
「んん?」孔は首を捻った。
「宮森サーンは昨夜までポニーテールでしたァ。今朝はポニーテールを解いてストレートにしていマース。宮森サーン、昨夜遅くスルジャと何かイイこと、あったのでショウ? フフフッ」
「私は昨夜、ゲストルームですぐ眠りました!」華は顔を赤らめてハーバートを睨んだ。
「オーッ、アイムソーリィ、ゴメンナサーイ」
「確かに華は昨夜、すぐに眠ったわ。それからポニーテールを解くように勧めたのは私。どう高梨君?」
「ええ、その髪型もとても似合っていて素敵です」
「そ、そうかな」華は口元が緩むのを必死で我慢した。
「うーっと、あなたは渡辺さんかな?」孔は目を細めながら右斜め隣に座っている女子高校生に訊いた。
「そうです、渡辺美冬です。谷口先輩お久しぶりです」
「孔サーン、よく渡辺サーンのこと憶えていますねェ、ホワイ?」
「フフフッ、僕は可愛いチャーミングな女の子は忘れないのだよ。エリック、君と同類さ」
「オーッ、類ともデスネーッ」華は二人の会話に何故かほっとして隣の尊を見た。尊はいつもと変わらない様子で食事をしていたが、華の視線に気づき微笑んだ。
「ところで高梨君。水樹君はまだ起きてこないのかな?」美冬が訊くと華は(アッ!)と思った。彼女は水樹晶のことを完全に忘れていた。
「副部長は先ほど帰られました。朝ごはんを食べてもらうように言ったのですが・・・」尊は少し困った顔をした。
「水樹様は香様がお車でお送りしました」
三ツ橋執事が静かに言った。
「水樹君って宮森さんが引っ張ってきた奴だろう? さっき香ちゃんの車に乗っていたけど、彼、昔と雰囲気変わったね」
「水樹クン、香サーンのBMWに乗って帰ったなんて、羨ましいですーッ。ボクも乗ったことないのにィ。ところで孔サーン、水樹クンはどう変わったのデスカーッ?」
「大人になったね」孔は明快に答えた。
「そう思わない、宮森さん?」
「うーん、そうですね」孔に訊かれた華は返事をしながら考えた。(晶は確かに変わったと思う。私に構わず自分で動くことが多くなった。でも相変わらず頼りないし見た目も子どもっぽい。大人っぽいって言ったら尊君の方がよっぽど大人だと思うなぁ)華は隣に座っているエキゾチックな尊の顔を見つめた。少し巻き毛の前髪、深く黒い瞳、高い鼻、厚いけど上品な唇・・・・・・。
「どうしました、部長?」コーヒーカップをソーサーに置きながら尊が華を見た。
「いや、尊君は大人っぽいって思って・・・」
「そうですか」尊はニッコリ笑った。
「私なんか全然変わらないっていうか成長してない感じがする・・・。それにドジだし」
「そんなことはないですよ、部長。自分自身の変化は自分ではわかりにくいものではないでしょうか?」
「そうかな・・・・・・」華が尊の言葉は嬉しかったが自分自身に変化が起きているとは感じられなかった。
「オーッ、宮森サーンはとても変わりましタァーー。大人っぽくなったと思いマース」
「エッ! ハーバート、ホント、そうかな?」華は思わず前の席にいるハーバートの方に体を乗り出した。
「イエス、そのヘアスタイルですゥ! 以前より大人っぽいって感じますゥ」
「ハーバート! そいうことじゃないの!」華は思わず顔をしかめてハーバートを睨んだが、ハッと気づいて、すまし顔をして軽く唇を噛み隣の尊をチラッと見た。尊も同じように唇を噛んで笑いをこらえていた。華は尊の様子を見て頭に血が上って顔が赤くなっていく感覚を覚えた。
「宮森さん、エリックの言うことなんか聞き流したらいいよ。僕は二年ぶりに君に会ったけどとても素敵になったと感じている。それに相変わらず宮森さんは宮森さんだ」
「あっ、そうですか」華は孔の言葉の意味が矛盾しているのではないかと思った。(誰だって自分は自分でしかいられない。それともそうじゃない人もいるのかな?)その時、華の脳裏には晶の少年っぽい姿が浮かんだ。
「尊様、午前十時に城北高校の東山校長先生、西村教頭先生、それから猪口先生が来られます」
「分かった、僕が対応します」
「わたくしも同席しても構いませんか?」
「ああ、助かります三ツ橋さん。香はおそらく帰ってこないし」
「そうでしょうね。それでは尊様、十時にこの部屋で先生方をお迎えするということでよろしいでしょうか?」
「うん、よろしく頼みます」
「尊君、私も一緒にいていいかな? 先生たちに昨日のことを説明するのでしょう? だったら文芸部長の私が説明することもあるんじゃないの?」尊は三ツ橋執事を見た。初老の執事は丁寧に頷いた。
「わかりました、宮森部長。部長も一緒にいてください」
「スルジャ、ボクも一緒にいてーェ、先生たちにいろいろ説明しようかなァー」
「ハーバート君、君は私にこの館の案内をしてくれませんか? 先生方とお話する人はあまり多くない方がいいと思うよ」美冬はハーバートの黒いトレーナーの左袖を掴みながら言った。
「オーッ、そうでした―ッ。渡辺サーンの言うとーりデスゥ。確かに悦明する人、多くないほうがいいデスゥ。それじゃー、渡辺さーんを僕の部屋に案内しマスゥ、ふふふッ」
「ハーバート、あなた、美冬と二人きりになって、美冬に変なことしないでよ!」華がハーバートをじろりと睨んだ。
「オーッ、宮森サーン、僕のコト、誤解していマース。僕はジェントルマンでーす。そうでしょーッ、孔サーン?」
「エリック、君は城北高校のカフェの女の子、内田南ちゃんが可愛い、素敵デースとか言ってたじゃないか? それから香さんにドライブしましょうとかうるさいし。そして今日は渡辺美冬さんか・・・。確かに渡辺さんもチャーミングだけど、君はホントに忙しい男ですねぇ」孔はニヤニヤ笑いながら答えた。
「も―っ、私が真面目に学校案内したのに。ハーバート、君は学校案内と称して可愛い女の子を捜していたんじゃない?」華はハーバートに冷やかな視線を向けた。
「ノーノ―、違いマス。ホントに学校案内してほしかったデース。それから孔サーン、その話はプライバシー侵害デース」
「何がプライバシー侵害よ。あなたはそういう日本語はしっかり覚えているのね。んん、アレッ? 谷口先輩、よく南ちゃんのこと知っていますね」
「だって彼女、文芸部にいたでしょ。南ちゃんも僕と同じですぐやめたけど」
「エッ、そうでしたか・・・・・・」
「あれぇー、僕の記憶違いだったかなぁ」孔は黒い瞳を上に向けて記憶を辿っていた。美冬は丸顔の孔の顔を見ていた。彼女の脳裏に文芸部の部室にいる制服姿の内田南がぼやけて浮かんでいた。孔は美冬と目が合うとニヤッと笑った。




