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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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香さんが白石新次郎を殺したのですか?

「晶さん、何か飲まれますか?」紅いドレスを着た香は氷の入ったアイスペールとグラス、そしてボウモアのボトルを黒いソファーのテーブルの上に置いた。それからリモコンでステレオにスイッチを入れた。ステレオのスピーカーからジョン・コルトレーンのバラードが流れ始めた。

「じゃあ、香さんと同じものを飲んでみようかな?」

「フフフッ大丈夫ですか?」香はボウモアのロックを二つ作り、その一つを水樹晶に手渡した。

「あんなことがあったので乾杯とはいかないけど、晶さん、今日はお疲れさまでした」水樹晶の左隣りに座った香は少しグラスを掲げた。水樹晶も同じように右手に持ったグラスを少し掲げた。そして彼はスコッチウイスキーを一口飲んだ。熱い塊が喉から全身に拡がり彼は両目を大きく見開いた。

「晶さん、お水を持ってきましょうか?」

「いやっ大丈夫です。少しずつ飲むので」香は水樹晶の言葉を聞きながらも冷蔵庫から水の入ったペットボタルを持ってきた。

「晶さん、あまり無理をしては駄目ですよ」香は微笑みながらボウモアを一口飲んだ。それから水樹晶の顔を見つめた。

「晶さん、あなたのお顔の怪我は自転車で転んでできたものではないでしょう?」香は心配そうに訊いた。

「うん、そう・・・。AFZの警備関係の職員にやられた」

「晶さんが以前の事件で怪我を負った時の関係者ですか?」水樹晶は香の頭の回転の速さに安堵した。彼女の前では面倒くさい説明が不要だからだ。彼は何も言わずに一回ほど頷いた。

「そうですか・・・・・・」香は優しく晶の被っている黒いフェイスガードを触った。

「ねえ香さん、さっきハーバートが言ったけど、君はゲストルームで休んでいた白石先生の様子を見に行ったかな?」

「どういうことですか?」

「いやっ、香さんは検討会の間、僕たちとずっとあの部屋に居たと記憶しているのだけど」

「晶さんにはそう見えたのですか?」香はそう言うとゆっくりとボウモアを味わった。

「うん、僕の左斜め隣の椅子にずっと座っていたと思う」水樹晶もグラスを傾けてスコッチウイスキーを飲んだ。その後彼は右の頬を釣り上げて辛そうな表情を浮かべた。

「晶さん、無理にボウモアを飲まなくてもいいのですよ。他の飲み物を用意しましょうか?」

「いや、大丈夫です」水樹晶は顔全体を赤く染めながら答えた。

「私が晶さんの斜め隣にずっといたと思うのなら、私は晶さんの斜め隣にずっといたということでしょう」

「うん」

「それでいいでしょうか?」

「うん、それでいい」水樹晶はスコッチウイスキーを一口飲んだ。香はその様子を見つめていた。

「晶さん・・・。白石先生は文芸部の顧問でいらっしゃったわけでしょう。晶さんは白石先生とどんな話をされていたのですか?」

「うーん、白石先生と話したことか・・・」水樹晶は右手の中にあるバカラのグラスの重みを感じながら、文芸部の活動の情景を思い出そうとした。(僕が宮森華に連れられて文芸部に入ったとき、あともう何人か部員がいたような気がする。誰だったか覚えていない。おとなしい女子がいたような・・・? 最初、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み合わせして、それぞれ感想や疑問を言い合っていた。白石先生は何をしていたのか?)

「あまり白石先生とは話をされなかったのでしょう?」

「うん、ほとんど記憶がない。部活動は毎週金曜日の放課後だったけど、それ以外の曜日も部室には自由に出入りしていた。本が図書室よりも多かったからね。僕は宮森華に引っ張られて金曜日には部室に顔を出していたけど、白石先生はほとんど顔を見せなかった。あの人はなぜ文芸部の顧問だったのだろう?」

「でも今日はここに来られました」

「うん、不思議だ。まるで死ぬためにここに来たみたいだ」水樹晶はグラスを舐めるようにボウモアをほんの少し味わった。そして宮森華の泣きじゃくった姿を思い出した。

「ねえ、香さん・・・・・・」

「何でしょう? 晶さん」

「こう言ったら冷たく聞こえるかもしれないけど、僕は知った人間がいなくなろうと死んでしまっても、心が動くことはない」

「ええ」香は小さく頷いた。

「でもね、今回の白石先生が死んでしまったことは何故かショックだ。先生とはそれ程親しくしていたわけでもなく尊敬もしていなかったのに。いや僕は彼が大嫌いだった、そう心底嫌いだったのに」 

 水樹晶はそう言うとバカラのグラスをそっとテーブルに置いた。

 香は首を左右に小さく振り両手で水樹晶の冷たい右手を包んだ。

 壁に掛かっている時計の針は午前二時を指していた。



 美冬は暗い池の水面を見つめていた。ゲストハウス一階の部屋から出たのは深夜一時過ぎだった。同室の宮森華は疲れていたのかベッドに入るとすぐ眠ってしまった。

 美冬は用意されたベージュ色パジャマの上に白いナイトガウンを羽織っていた。外気は寒くも温かくもなかった。彼女の立っている場所は昨日、白石新次郎に誘われて来た場所だった。この場所で彼は華の悪口を言い池の水に敵意を抱き、美冬の腰をまさぐったのだった。

「白石先生は水を憎んでいたのですか?」美冬は声のする左隣を見た。そこには紅いドレス姿の香がいた。香はずっと美冬の隣にいるように立っていた。(香さん、あなたはいつからそこに居たのですか?)という言葉を美冬は飲み込んだ。そんな問いかけに意味はないように思えたのだ。

「白石先生は水も憎んでいたと思います。失礼ですが、この池も泳いでいる鯉も香さんたちが住んでいる建物も・・・・・・」

「そうでしょうねぇ」香は優しさを湛えた黒い瞳で美冬を見た。美冬は銀色の瞳を輝かせて香を見返した。(どこかの酒場で白石新次郎と香が話している。そして二人はホテルの一室でふざけ合っている。白石新次郎は全裸で犬のように四つん這いになって香の周囲を歩き回っている)美冬はその映像を遮断した。あまりにグロテスクで卑屈な白石の振舞に美冬は吐き気を覚えた。

「私は昨夜、『クロノ』というBarで白石先生に会いました。白石先生はとても面白い話をされていました。だから彼の隣の席に座って、いろいろお話を伺いました」

「・・・・・・」美冬は前を向き無言で頷いた。

「白石先生は少し前の時期であれば、つまり『あの時』より以前であれば、負の感情の塊のような人と呼ばれていたと思いませんか、美冬さん?」

「さあ、どうでしょうか?」

「この世界で彼ほど憎しみを持っている人はいなかったような気がします。白石先生は自分の醜さや魂の卑小さを嫌悪しているように見受けられました。美冬さん、あなたは白石先生のどこに惹かれたのですか?」

「惹かれた?」美冬はその言葉を不思議そうに聞いた。(高校で白石先生を初めて見たのはいつだったのだろう? 入学式のモニターで文芸部の紹介していた。だけど私は猪口先生の話に惹かれて演劇部に入った)

「私は白石先生に惹かれていたと、香さんはおっしゃっているのでしょうか?」

「違いますか?」香は池の暗い水面を見ていた。

(私は白石先生が嫌いだった。初めて彼と会ったのは演劇部の部室だった。私が一人でシェイクスピアを読んでいた時、彼は部室に入って来た。『何を読んでいるのか?』と訊かれ『ハムレット』と答えた。それから彼は私を品定めするようにじっと見た。何か自分がほしい玩具を発見したような目をしていた。そして白い長い舌で分厚い唇を舐めまわした)美冬は白石新次郎と初めてあった時のことを鮮明に覚えていた。

「私は父、紘一に言われたことがあります」

「えっ?」香は隣の少女を見た。

「父がいなくなる前に私のこの違う色の眼を見て言いました。『美冬はとても大切な何かを見つけるかもしれない』と。そして父は街を出て行きました。いつからか私は冷たい風が吹きすさぶ荒野に一人佇んでいると感じていました。これから先もずっとそうだろうと思っていました。そして私は父がいなくなってから左目に紫のカラーコンタクトをつけました」

 香は美冬の紫色と銀色に輝く瞳を見つめていた。

「朝起きて学校に行って友達と意味のない話をして夕方マンションに帰る。夕飯を食べてお風呂に入って宿題をしたら、あとはやることがないのです。音楽を聴いてもテレビを観ても何か別の場所での出来事のように感じていた。夜、眠る前に私は一人呆然として孤独を感じるだけでした。そのうちに、父がいなくなったことも納得するようになりました。おそらくは誰もが皆そう感じて暮らしているのだろうと思っていました」

 美冬は自分自身に語っているようだった。

「私は白石先生を嫌っていました。いや憎んでいたかもしれません」

 美冬は視線を香に移した。

「白石先生は私にとても酷いことをしました。彼と出会ってからずっと。そう彼が死ぬまで」

「美冬さん、どうして彼を受け入れたの? 彼はとても弱い人でしょう。チカラもないし頭も働かない」

「どうしてでしょうか・・・・・・。白石先生はあまりにも愚かだったからかもしれません。彼の言っていることは嘘であり誇張であり毒でもありました。私はそんな彼の話を内心では軽蔑し嫌悪していましたが、ちゃんと聞いてしまうのです。自分でもどうしてあれほど悪意のある話を聞いてしまったのか、よく分かりません。でも最近考えたことは、私は愚か者の猛毒を飲みたかったのではないかということです」

「美冬さん、猛毒を飲み続けて、酷いことをされ続けて、よく壊れなかったですねぇ」香は冷笑した。

「香さんだってお分かりでしょう。宮森華がいましたから」

「そして晶さんもいる」

「・・・・・・」美冬は小さく首を左右に振った。

「私は水樹君のことは分かりません・・・・・・。私は白石新次郎から痛みを与えられたのかもしれません。馬鹿馬鹿しい話かもしれませんが、私はその痛みがあるからこの街に留まっていたのかもしれません」

「それと異常な快感と」

「そうですね、確かにそうです」

 しばらく二人は何も言わず暗い水面を見ていた。

「香さん」

「はい」

「香さんが白石新次郎を殺したのですか?」美冬は暗く揺らめいている水面を見ながら訊いた。

「さあ、それはどうでしょうか?」香も美冬と同じように池の水面を見ていた。

「香さん、夕食中あなたはずっと水樹君の斜め隣にいた。白石新次郎が外に出た時も水樹君の斜め隣に座っていた」

「そうですね。私は晶さんと食事を共にしていました」香は思い出すように呟いた。

「でも私には香さんが白石新次郎と一緒にこの池を眺めていて話をしていたように思えるのです」

「今の私たちのように?」

 美冬は頷いた。香はずっと水面を見続けている。

「美冬さん、あなたは白石先生が席を立つときに何か言ったでしょう?」

「ええ、彼が夜風に当たって来ると言ったので、『わかりました』と」

「それからもう一言、言ったのでは?」

 美冬はそれには答えなかった。

「白石先生には届かなかったかもしれないし、届いたのかもしれない。あなたの『さようなら』という言葉は」

 美冬は黙っていた。

 池の水面はまだ少し揺らいでいた。美冬にはその水面に白石新次郎が浮かんでいるように思えた。白石新次郎は濁った眼を極限まで見開き傲慢な笑いを浮かべて、自分が死んでいることが分からないようだった。

(私は白石新次郎の愚かさが好きだったのかもしれない。私自身の愚かさに共鳴するかのように・・・・・・。そして彼の記憶はまだこの池の水面にあるのだろう、可哀そうに・・・)

 美冬は池の水面を見続けていた。いつの間にか周囲に霧がかかり、香の姿はその霧に紛れるかのように消えていった。



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