失われたものが一つ
「アッ、また!」村上玲はデスクトップの画面を見ながら小さく叫んだ。そして彼女は数日前の夢を思い出した。それは暗い水面に何かが沈んでいく夢だった。広い静かな水面がいきなり渦を巻いて、何もかもその渦に吸い込まれていく。大きな魚も人のいない廃れた家も大勢の人間も軽自動車も、そして長細い灰色の袋に包まれた物体も吸い込まれて見えなくなった。その長細い袋には何が入っているのか玲は考え始めた。ボクシングのサンドバッグのような袋・・・・・・、その袋は以前も夢に現れた。そして今、玲は自分の記憶の一つが失われたように感じた。
(あの細長い灰色の袋の中には誰かが入っている)玲は何故かそう思った。その誰かは自分が知っている人間だということも分かっていた。(ヒヒヒヒヒーッという下品な笑い声が聞こえた。歪んだ笑顔、濁った眼、長く鬱陶しい髪、奇天烈なファッション、自分勝手なセックス・・・それから饐えたような匂い、誰だったかしら?)
「玲さん、どうしましたか?」隣の席の甲山明美が水色のマグカップを玲の目の前に置いた。香ばしいモカブレンドの香が漂ってきた。
甲山は五穀ビスケットの入った小さな袋も玲の前に置いた。
「ありがとう、明美さん」玲がそういうと甲山明美はニッと笑った。二人はビスケットを食べコーヒーを飲んだ。
「玲さん、何か嫌なことでもありましたか?」
「うん、何か自分の記憶がひとつ失われたみたいです」玲は甲山の小さな目を見た。
「さっき、それでビックリしたわけですね」
「うん、そう」
「玲さんは高感度アンテナっていうか、自分に必要でないものまで感じとっちゃうからキツイですよねぇ」甲山はそう言いながらビスケットをモグモグ食べていた。
「明美さんだって悪しきものに反応するでしょう?」玲は温かいモカブレンドを一口飲み水色のマグカップを両手で持ちながら言った。
「私は相当悪いモノにしか感知しないので大丈夫です。それにそのことはそれ程頻繁に起こることはないし、耐性もあります。あのぅ、玲さんがさっきの無くした記憶は、良いモノじゃなかったら無くなった方がいいじゃないですか」
「うーん、そうだけど。でも思い出してあげないと、その人に悪いかなぁって思うの」
「私は嫌なコトや嫌な人はどんどん忘れるようにしますけどね」
「なかなかそれができないの」玲は小さくため息をついた。
「でもそれが、村上玲さんの良いところですから仕方ないです。そういう小さなことを大切にする人は今じゃほとんど存在しませんから」甲山は二袋目のビスケットを取り出した。そしてピンクのマグカップに入っているモカブレンドを飲んだ。
「そうなのかなぁ?」玲もビスケットをボリボリ齧った。(明美さんは相当悪いモノに反応する・・・ふーん)
「どうしました、難しい顔をして?」
「ねえ明美さん、あたしがレジで高校生に襲われたとき、明美さんはここ、セキュリティ対策室にいましたね?」
「ええ、いましたよ。あの水樹晶君でしょ」
「その時、例の反応は出なかったの?」
「ええ、出ませんでしたよ。彼、城北高校生だし」
「城北高校・・・・・・」玲の頭の隅に何かが引っかかっていた。
(「僕は優秀な物理学の高校教師だけど文芸部の顧問もしているし空手六段の武道家でもあるのですよ。文芸部と言ってもインテリを気取った馬鹿ばかりで、なよなよした男子生徒なんかはドストエフスキー、ドストエフスキーしか言わない大馬鹿者ですよ、クックックックッーッ、ドワッハハハ―ッ!」灰色の長細い袋に入った人間、夢に見た大きな渦に飲み込まれた人間は城北高校教師のあの男だった)
玲は白石新次郎のねめつけるような傲慢な視線を思い出した。すると彼女の全身に悪寒が走った。それと同時に全ての毛穴が開き、体が溶けていくような感覚に襲われた。炎と氷が彼女の体に同時に存在した。激しい苦痛と異常な快感が混ざり合い呆然とした。
「玲さん! 大丈夫!」甲山は玲の体を揺さぶったが、小柄な玲は脱力したように虚ろな目をして揺れているだけだった。甲山は右の掌で思い切り玲の左頬を張った。「バン!」という音と共に玲は驚いて左頬を押さえた。
「明美さん・・・・・・」玲は目の前で汗をかいてハアハア喘いでいる甲山を不思議そうに見つめた。
「ふう―っ。玲さん、あなたのその記憶は無くした方がいいと思いますけど」甲山は制服のポケットからピンクのハンドタオルを出して顔を拭いた。だがその間も彼女の呼吸は荒いままだった。




