北斗七星
(真っ黒な色画用紙の左下隅に小さな炎が灯り、オレンジ色と黄色の光が大きくなっていく。何だ、あれは?)
「あああっ。う、うーん」白石新次郎は目を開けると、彼を覗き込んでいる渡辺美冬の紫と銀色の瞳があった。
「美冬・・・ちゃん?」
「先生、大丈夫ですか?」
「あーっ、うーっ、ここは何処だ・・・・・・」物理学教諭にひび割れた声がしんとした空間に響いた。
「先生、ここは高梨君の家です。もっともここは御殿の隣にあるゲストハウスですけど」
「あー、そう」白石教諭は上体を起こし眠たそうに首を数回左右に傾けた。それから部屋の中を見回した。小さい台所に食卓、高級そうなソファーがあり自分が寝ている白いベッドもある。木製ラックの上には中型テレビがのっている。
(ブルジョアは何でも持っているんだなぁ)白石新次郎は羨ましく思った。彼はベッドの横にある木製の椅子に座っている美冬を見た。紫の瞳が光っている。美冬は水の入ったグラスを白石教諭に手渡した。男は礼も言わずに黙ってウグウグウグと喉を鳴らしながら水を飲み干した。美冬は空になったグラスを受けとった。男が飲み干したグラスを小さな台所のシンクで洗って小型乾燥機に入れた。そしてその小型乾燥機を一〇分にセットしてスイッチを入れた。その小型乾燥機は僅かな音しかしなかった。彼女は五秒ほど小型乾燥機を見て再びベッドの横の椅子に座った。
「渡辺さん、僕はどうしてここにいるのかな?」
「先生は三時間前にいきなり深く眠ってしまったのです。ほら検討会の前にみんなでお茶会をしようと準備していたでしょう。その時に意識がなくなるように眠ってしまいました」
「ふーん?」
「覚えていませんか?」
「あんまり・・・今日、僕は何をしにここに来たのだろう?」
「白石先生、今日は文芸部の顧問としてカフカの『審判』の書評を検討するために、ここに来られたのですよ」
「へぇー、そうなの。ところで美冬ちゃん、君は昨日の夜、僕と寝なかった? 何回もセックスしてって求めなかった? へへへーっ」
「・・・・・・」美冬は無表情で目の前の男を見た。
「まあ、いいや。何か体がムズムズしてきた」白石教諭は右手を美冬の胸に当てた。それからゆっくりと彼女の胸を揉みしだいた。美冬は怒ったような表情を浮かべ男の顔を見つめていたが徐々に息は荒くなっていた。
「へッ、お前はどこにいても欲情する女だなぁ。そんなことでちゃんと勉強できるのか? お前は純情そうな顔しているけど、どうしようもない淫乱女だな、この売女め!」高校教師は更に荒々しく美冬のやわらかな胸を揉みしだいた。美冬は眼を閉じ唇を噛みしめている。
「あーっ、お腹が減ってきたなぁ。おい美冬、高梨君は何か言っていたかい。夕食をごちそうするとか?」白石は唾液を二度飲み込んだ。
「ええ・・・、高梨君は夕食を一緒にしませんかと誘ってくれました・・・。あっ、おそらくみんな残って食事をすると・・・、思います」
「そうかぁーっ、今はセックスよりも食事だな。美冬、お楽しみは後回しだ。一人で楽しんだりするんじゃないぞ。分かったか、この変態女! 白豚!」
美冬は何も言わず険しい顔で白石教諭を見た。
「おい、美冬。お前はカラーコンタクトを外してから雰囲気が変わったな」白石はいきなり右手の人差し指と中指を美冬の口の中に突っ込んだ。美冬は口の中に二本の指がねじ込まれたが、怒気を含んだ瞳で白石新次郎を見つめた。
「何だぁ、その面はぁーっ」男の二本の指は美冬のピンクの舌を挟んだり白い歯を強くなぞったりした。少女は息苦しさに咳き込んだが、それでも二本の指は彼女の口の中で動き回っていた。
「美冬ちゃん、最近とても反抗的だね。なかなか良い傾向だよ。何でもかんでも素直に言うことをきくというのもつまらないし。屠殺される豚にもプライドがあるのかなぁ、ヒヒヒヒヒ―ッ、ハハハハハーァ!」男は右手に力を込めて少女を床になぎ倒した。男の二本の指は口から離れ、少女のワンピースの裾が大きく捲れて白い太腿が露わになった。男の二本の指は少女の唾液で濡れていた。
白石新次郎は倒れている少女を見下しながら、唾液で濡れている右手の中指と人差し指を細長い舌でゆっくりと舐めた。美冬は四つん這いになりながら涙を流して激しく咳き込んでいた。彼女は咳が治まると膝立ちになり乱れたピンクのワンピースを整え、口のまわりと眼の縁を水色のハンカチで丁寧に拭いた。それからゆっくり立ち上がると真っ直ぐ白石新次郎を見た。美冬の左の銀色の瞳が小さく輝いていた・・・・・・。
「もうそろそろ夕食の時刻です。先生、ネクタイを締められますか?」女子高校生は右手で握っている茶色のネクタイを高校教師の目の前に差し上げた。
「フン!」物理学を教えている男性教師はそのネクタイをとり自分でネクタイを結んだ。それから灰色のスーツの上着を着た。美冬は入口ドアの手前で待っていた。
「さあ、行きましょう」美冬は静かに言った。
「白石先生、大丈夫ですか?」美冬と白石教諭が一階の大広間に入ると、華が慌てて二人の前に来た。
「ああ、もう大丈夫だ。心配をかけて申し訳ない」文芸部顧問は華の心配そうな顔を見て(こいつも少しは良いところがあるんだなぁ)と思った。
「先生、先ほどよりは顔色も良くなりましたね」尊が華の隣に来て微笑みながら言った。
(ケッ! 何だ、その余裕がある顔は。少しばかり顔が良いくらいで女のモテると思っていやがる。お前は親の七光りで、つまりお金持ちだから女が寄って来るわけで・・・、偉そうにするんじゃないぞ、馬鹿め!)白石新次郎はそう思いながらも、二人の文芸部員の前では歪んだ微笑みを見せた。
そして文芸部顧問は目の前の二人の生徒を見ていると、急に自分が彼らからとても遠く離れた場所にいると感じた。その場所には美冬も内田南も中岡美奈子も北見名都もいなかった。そしてあの紅いメガネをかけた悲しそうな顔をしている女もいなかった。
「偽善者は俺だ・・・・・・」白石新次郎は呟いた。
「エッ、白石先生。何か言われましたか?」華は悲しそうな顔で訊いた。
「いやっ、何でもない、何でもないよ・・・、宮森華さん」
華は自分の名前をフルネームで呼ばれたので驚いた。そして左隣にいる尊を見た。高梨尊も白石教諭の言葉を聞き不思議そうに華を見た。
黒いテーブルの上に料理が運ばれてきた。白石新次郎は出された料理を機械的に口の中に入れ咀嚼し消化器官に送り込んだ。イタリア料理のコースのようだった。ワインを飲んだりパスタやステーキを食べたりエスプレッソを飲んだりした。(美冬が俺様のために何かしてくれたようだし、左斜めに座っている高梨尊も何か訊いてきたような気がする)
「少し一人で夜風に当たってくる」白石教諭は美冬にそう告げた。美冬はじっと彼を見て「わかりました、先生」と答えた。それから彼女はもう一言何か告げたのだが、白石新次郎にはその言葉が聞こえなかった。
白石教諭が水樹晶を傍に通るとき冷たい空気を感じた。彼は振り返り黒いフェイスガードをした頼りない少年を見た。水樹晶は銀色の眼で白石教諭を見ていた。
白石新次郎は大広間入口に立っている三ツ橋執事に「少し外の風に当たってきます」と告げた。
「お気をつけて・・・・・・」三ツ橋執事は頭を下げ慇懃に答えた。白石新次郎が部屋を出て行くとき、彼の体に絡みついていた様々な紐のようなものがぷっつりと切れて無くなった・・・・・・。白石新次郎はとても軽くなった体で玄関から出て行った。
池の周りにはいくつかの照明が足元を薄い光で照らしていた。白石新次郎は玄関から一番遠い場所に行った。水面は暗く蠢いていたが鯉の姿は見つけられない。暗い闇の中、高梨家の建物が浮き立つように曖昧な光を放っていた。
「変な建物だ」白石新次郎は吐き捨てるように言った。
「そういうふうに見えますか?」白石新次郎の後ろには蒼いワンピースを着た香が立っていた。
「香さん、僕は昨夜、あなたと会いませんでしたか?」白石新次郎は訊かずにはおれなかった。
「フフフッ、さあどうでしょう?」
高校教諭はその言葉に反応したように美しい女の腰を右腕で巻いて引き寄せた。彼女の腰は昨夜、白石新次郎が舐めまわしたものと同じだった。
「君のような淫らな女は初めてだ」
「白石先生はそれを求めて生きているのでしょう?」香の黒い瞳が白石新次郎の視界全体に拡がった。
白石新次郎は闇の中を歩いていた。つまらなそうにビデオ授業をしている自分を思い出していた。(どこの高校だ、ここは? 城北高校じゃないな。どこの高校だって、しょぼくれた奴ばかりだった。異動で城北高校に転勤して東山校長に会った。東山校長ときたら、まるで小学生みたいだ。あの体形は! あのチビを見たら笑わないようにするのが一苦労だ。それにあの甲高い声! キャーキャーキャーキャーとうるさい。発情期の猫みたいだ。んん? どうして俺はそんなことを知っているのだ? 猫なんてほとんど見たことがないのに。まあいい・・・、今はお子様校長のことだ。東山校長は変声期がなかったのかもしれないし、絶対包茎だろう。そして童貞だ。へへへーっ、仕方がないな、あんな達磨みたいな体形じゃあ。だけど何故俺は文芸部顧問なんて面倒くさい仕事を引き受けたのだろうか。まあ猪口の馬鹿にはできない仕事だからな。よくわからない・・・。あれっ、周囲が少し明るくなった。宮森華、水樹晶、高梨尊、あと何人か部員がいたような気がする? あの無口な女の子は誰だったか? あーっ、内田南かぁ。それにしても渡辺美冬ちゃんに会ったのは超ラッキーだったな。へへへーっ、彼女が何を求めていたのか俺様はすぐ分かった。美冬はいじめられるのが大好きな変態女ってことだ。どこに突っ込んだって喜ぶドM少女だからな。内田南も俺の言いなりだ・・・。あいつは何をしても何も言わないけど馬鹿じゃないってことは分かっている。南とカフェで働いている飯塚って女は性格が最低だ。あいつなんか死んだらいいのに。あーっ、「クロノ」の北見名都だって南と同じタイプだろう・・・、静かな女だし。いつも俺様の話を熱心に聞いて興奮している。早く俺様に抱かれてヒーヒー泣き叫びたいに決まっている。そう言えば「クロノ」で出会った紅いメガネの女もなかなか良かった。あんな可愛い顔しているのにベッドに入ると豹変した。俺様の精液が欲しくてたまらないようだった。また会えるだろうか・・・・・・、分からん。しかしこの街に来て俺は女を抱いてばかりいる。へへへーっ、女は強い男を本能的に求めるってことは真実だ。周りは去勢されたような男ばかりだからなぁ。中岡美奈子だって俺様に抱かれたいのに虚勢をはっている。馬鹿な奴だ。おやっ、ますます周りが明るくなってきた。昨夜会った高梨香はこれまで出会った女の中で一番美しいが一番下品な女だった。へッ! 今日はお高くとまっているがベッドの中では淫獣じゃないか。だけどどうしてこんな俺に女は寝たがるのか? 俺はウジウジした小心者で顔も声もマトモじゃないし頭は悪いのは分かっている。宮森華が怒るのも当然のことだろう。あいつはよく怒るなあ。黒い目をクルクルさせて頬を赤く膨らませて唇をすぼませて。だが俺はあいつが怒る顔が嫌いじゃない。拳を握りしめたり、義足の左足をドンドンさせて面白い生徒だ。あいつとは教師と生徒って感じだな・・・・・・。唯一そんな関係だったかもしれない」
白石新次郎は池の中央で仰向けに浮かんでいた。彼の視線の先には北斗七星が輝いていた。
(あーあ・・・もう、やることは無くなったかなぁ・・・・・・)
白石新次郎がそう思うと北斗七星は分厚い雲に隠れて見えなくしまった。彼の体に池の鯉が飛び乗ってきた。暗い池はバシャバシャと波打ち数多くの波紋が拡がった。




