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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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白石新次郎は意識を失って・・・

「さすがーっ、高梨君の家は豪邸だねぇ。大したものだ。ブルジョアだ、うんうん」白石教諭は池の淵に来て、周囲を見渡しながら一人で納得していた。

「これだけ広いと固定資産税も大変だろう? なあ高梨君」

 尊は何も言わず少し困った表情を浮かべた。

「先生、そんなことは尊君には関係ないことでしょ! それから先生、カフカの『審判』を少しは読んでこられたのですか?」華は頬を紅潮させ唇を尖らせ黒い瞳で文芸部顧問を睨んだ。

「いや、まあ、あれだ。宮森君も分かると思うが高校教師という仕事は激務なのだよ。みんなに授業を理解してもらうために教材研究もしなければならないし、同僚の先生の悩みも聞いてあげなければいけない。君たちも知っての通り僕はいろんな先生から相談を受ける立場というか、まあ頼りにされている。先日もほら、中岡先生から彼女の悩みを二時間も聞いてあげたりして僕の授業をお休みにしたのだよ。つまりね、僕は自分の自由な時間が持てない状況であるのだ」白石顧問は悪びれずに言った。

「じゃあ、読んでいないのですね?」華の声は低かった。

「んー、まあ、そうかな」

「先生、お酒臭いですよ。昨夜、いろんな店でお酒たくさん飲んだんじゃないですか?」

「エッ、そうかい? あーっ、これは寝酒だよ、寝酒。宮森君、ぼくもいろいろ考えることがたくさんあって昨夜は眠れなかったのだよ」白石顧問は平然としている。

「華、白石先生、少し疲れていらっしゃるみたいよ。ほら、目の周りに隈があるわ」美冬の言うとおり白石新次郎の淀んだ目の周囲には隈が染みついていた。

 白石教諭は渡辺美冬に視線を移した。彼は美冬を見て難問を解こうとしている学生のような表情を浮かべた。

「リーンリーンリーン」三ツ橋の多機能型携帯モニターが鳴った。

「失礼します」と三ツ橋執事は言い、皆と少し離れて対応した。しばらくして彼はモニターのスイッチを切り言った。

「水樹晶様が来られましたので、皆様、しばらくここで待っていただけますか?」

「分かった三ツ橋さん。みんなで待っているよ。それでいいでしょ、部長、先生?」

 尊は華と白石教諭を見た。華と白石教諭はうんうんと頷いた。

「それでは行ってまいります、尊様、皆様」三ツ橋執事は足早に入口の方へ向かった。

「おー、この池には鯉がいるのかい、高梨君。珍しいねえ。そうだ、渡辺さん、ちょっと池を案内してくれたまえ」白石教諭は美冬を手招きして華たちから離れて行った。美冬は困ったような諦めたような表情を見せて、白石教諭の後をついて行った。

 白石新次郎と美冬は華たちから一番遠い場所に来て水面を見た。錦鯉は広い池の中をユラユラと泳いでいる。美冬は鯉の動きが先ほどよりも激しくなったように見えた。

「いやぁ、しかし宮森君はよく怒るなぁ。どうしたのかな、美冬ちゃん?」

「それは白石先生がカフカの『審判』を読んでいらっしゃらないからでしょう」美冬は上目遣いで目の前の酒臭い男を見た。

「そんなことであんなにプンプン怒るのかい? あれじゃあ結婚できないよ、可哀想に。アッ! 分かった、宮森華は今日、生理が始まった日だ。おそらく、ウンウン。そうだろう、そうだろう。しかし困るなぁ。自分が生理になって情緒不安定のはけ口に僕を使うなんて」

 白石教諭はそう言いながら右手は美冬の引き締まった腰をまさぐっていた。

「先生・・・・・・」美冬の紫と銀の瞳がじっと左隣の男を見つめていた。池の中の鯉たちがバシャバシャと音をたてた。

「なんだい、美冬ちゃん?」

「先生は昨夜、あれほど何回も頑張るから目に隈ができるのですよ」

「昨夜、あれほど頑張る・・・。何のことだ?」白石新次郎は美冬から目を逸らして池の水面に視線を移した。池の水面は鯉たちが激しく動き波立っている。美冬たちの反対側にいる華や尊たちも水面を見ている。

「白石新次郎さんは『イタリアの種馬』と呼ばれているのでしょう」美冬は白石新次郎の右の耳元で呟いた。  

「エッ?」聡明な女子高生の呟きが白石教諭の脳を駆け巡った。(昨夜のホテルの部屋。灰色の靄がかかったようでベッドもテレビも壁もテーブルも曖昧だった。確か黒い髪の美しい女が俺様を誘惑した。女の乳房は大きかったし尻も張っていたような・・・。女の長い髪が顔にかかり紅い唇と蛇のような長い舌しか見えなかった。その舌が口の中に入り女の手足が俺様に絡みついて気持ち悪いような気持ちいいような・・・・・・。あれは何だったのかな? あなたは『イタリアの種馬』でしょうと、あの女は馬鹿にしたように笑いやがった。天才的な物理学教師で崇高な文学者、心理カウンセラーで空手四段の武道家である俺様に失礼なことをいう売女め。この俺様を早漏と言いやがった。いったい何回射精したのか。気が遠くなるくらい気持ちよくて、吐き気がするくらいおぞましかった。朝、マスターベーションしても一滴も出なかった。畜生!)彼の記憶は断片的だった。そして突然気づいた。

「何故、美冬ちゃんは知ってい・・・、いるんだ?」白石教諭は呆然と言った。

「何を・・・ですか?」美冬は不思議そうな顔をした。赤と白の模様をした錦鯉が跳ねた。

 白石新次郎は周囲を見回した。激しく動く池の水面、怪しく光る美冬の左右に瞳、枯れた大木、突っ立っている七本の棒、白くのっぺりとした壁、内田南の華奢な肩と弾力のある腰、紅いメガネをかけた女が泣いている・・・・・・。バラバラな風景が吸い込まれてひとつになっていく。彼は自分の都合のいい世界が何者かによって造りかえられていくことに憎悪を感じた。この目の前にある池の水を憎んだ。ペッペッペッと唾を池に吐いた。何回も何十回も唾を池に吐いた。口の中が、そして喉の奥が渇いて痛くなっても唾を吐き続けた。彼の体の水分がなくなるほど唾を吐いた。一時間、一日、一週間、一年、一生、どれだけ時間が経っても彼は唾を池に吐き続けた。そのため自分の手が干からびていることに気づいたが、まだ唾を吐き続けた。唇が乾きひび割れて、歯が茶色く変色して抜け落ちても彼は唾を吐き続けた。長髪が抜け落ち眼球が垂れ下がり肩の関節がはずれても、彼は憎い池の水に向かって唾を吐き続けた。

「・・・・・・ぃし先生、白石先生。どうされたのですか?」白石新次郎は聞き覚えのある声の方に目を向けた。彼の視線の先には心配そうな美冬の顔があった。

「あ、あっ、えーっとそのぉ,大丈夫だ、渡辺さん」白石教諭は静かな池の水面を眺めた。錦鯉たちはゆらゆらと泳いでいる。

「先生、水樹君も来ましたよ。でも彼、またフェイスガードを被っています。怪我したのでしょうか?」

「あーっ、そうかもしれん。困った奴だなぁ」白石新次郎は自分が抜け殻のようになってしまったと感じた。彼は自分の口から発せられた言葉が自分の意図と違っていた。

「白石先生、みんなが揃ったので向こうに行きましょう。でも先生も大丈夫ですか。かなり疲れておられるのでは? 体の調子が悪いのなら高梨君に休憩する場所を用意してもらうように言いましょうか」

「いやいや大丈夫だ。僕はいつも体を鍛錬しているし君も知っての通り空手五段だからね、フフフッ」白石教諭はそう言うと美冬の左手を握って歩き出した。(いや、俺はやはりいつものタフな俺だ。いつものように美冬を支配しているじゃないか)彼は右の口角を吊り上げて笑おうとした。

「先生、ちょっと、待って、お願い・・・」美冬は高慢な男に引っ張られながらも、華たちがいる手前で握られた手を何とか離すことができた。



「おい、水樹君、君はまた怪我をしたのか? どうしたのかな」白石教諭は黒いフェイスガードをしている教え子を見て、もう少しで笑い出しそうになった。しかし必死でこみ上げてくる笑いの発作を抑えた。隣にいる美冬がチラリと無責任な教師を見た。

「昨夜、自転車で転んでしまって」

 華は水樹晶に何か言おうとしたが喉が詰まってしまって言葉が出なかった。

「副部長、その体で『審判』の書評の検討できますか?」尊は心配そうに訊いた。

「うん」水樹晶は小さく頷いた。尊は一瞬、華を見て言った。

「それでは全員揃いましたので、僕の家にご案内します」

  尊とハーバートが先頭に立って広い玄関へ進んだ。

 広い玄関の前にある大きな白い引き戸をハーバートが開けると、その先には大広間があった。その床はアイボリーホワイトの石材が使われていた。

「ハァーッ・・・・・・」華は自分の住んでいるマンションの3LDKとのあまりの違いにため息が出た。部屋の中央には黒いテーブルと椅子がセットされていた。

「皆さん、ようこそ」蒼いワンピースを着た香が黒いテーブルの横から華たちを出迎えた。

「僕の姉の香です。今日は皆さんが来てくれるということで楽しみにしていました」香は来客一人ひとりを丁寧に見つめて挨拶した。

「あっ、ど、どうも」白石教諭は驚いたように目を見開き返事をした。

「晶さん、大丈夫ですか? まだ痛むでしょう、その怪我」香は水樹晶の前に来ると彼の黒いデイバッグを受け取った。

「昨夜、自転車で転んでしまって。鼻を強く打ってしまったけど、痛みはもうかなり引いてきています」

「食べものや飲みもので辛い場合があれば遠慮なく仰ってください。僅かな動きでもお鼻に響くことがありますから」

「ありがとう、香さん」水樹晶はそう応えた。華は二人の様子を見つめていた。華は自分の左わき腹をちょんちょんと小突かれる感覚を覚えた。華は左を向くと美冬が笑って言った。

「テーブルの椅子に座ろう。高梨君が待っているよ」黒く長いテーブルは角が緩やかなカーブを描いていた。既に白石教諭は玄関から一番奥の席に座っており、向かって右斜め隣には尊が座っていた。華は迷うことなく尊の隣に座った。美冬は尊の対面、白石教諭から見て右斜め隣の椅子に座った。エリックは美冬の右隣、華と対面する位置に座った。水樹晶は一番玄関側、白石教諭の反対側にある木製の黒い椅子に座った。彼の両斜め隣の席は空いていた。

「皆さん、ようこそいらっしゃいました。文芸部の検討会ということだけど、まずはお茶会みたいな感じでリラックスして、それから検討会をするということで。どうでしょうか? 白石先生、宮森部長?」

「うん、僕はそれで構わないよ。宮森さんは?」

「ハイ、私も尊君の言葉に甘えようと思います」

「それじゃあ、コーヒーの準備をしますね、香、(わん)さん、お願いします」香はその部屋にあるキッチンに行き、そこに居た王と呼ばれた女性とコーヒーを淹れた。香は白いキッチンワゴンにコーヒーカップとミルクとコーヒーシュガーの入った白い陶器を乗せた。それから来客の前に白いソーサーと白いコーヒーカップを置いていった。

 香は疲れ気味の高校教師の前に白いソーサーを置きその上に白いコーヒーカップを乗せた。

「白石先生、ミルクとコーヒーシュガーは要りますか?」

 白石教諭は香の顔と黒髪と胸のふくらみを見つめた。

(昨夜の下品な色情狂の女とそっくりだ。俺を誘惑した変態女なのだろうか? あの女ときたら俺がこれまで寝た女の中でも一番いやらしい下劣な奴だった。おそらく別人だろう。この香という女は高貴で美しくて品があり優しそうだ。へへへーっ、こんな女を支配したいものだ。俺様の言うことを何でも聞く家畜に調教したら最高だろうなぁ)

「白石先生、どうされました?」

「あっ、えっとミルクとコーヒーシュガーをお願いします」

「わかりました」香は伏し目がちにミルクの入った白い陶器とコーヒーシュガーの入ったガラス容器を白石教諭の前に置いた。

「あっ、あの尊君、私、クッキーつくってきたんだ。良かったら食べてくれない?」華はそう言うとデイバッグから紙袋を取り出した。その紙袋の中から星型クッキーが数個入っている透明な巾着型ビニール袋をテーブルの上に置いた。

「部長、たくさんつくりましたね。幾つあるのかな? ウーン、二〇袋かな」

「ちょ、ちょっと多めにつくっちゃったかな。ごめんね、尊君」

「いえいえ、ありがとうございます。これ全部いただいてもいいのですか?」

「うんうん、もちろん」

「高梨君、華のクッキーは大切に保管しないとハーバートがすぐ食べてしまうのではないかな?」

「オーノー! 渡辺サーン。僕はソンナ怖いことしまセーン。スルジャにボコボコにされマース」

「フフフッ、ハーバート君、君が華のクッキーを食べないように私がパウンドケーキを作ってきました。君はこのケーキで我慢しなさい。もちろん人数分はあると思うけど」美冬も口の広い綿の袋から薄い紙に包まれたパウンドケーキを取り出した。

(こいつら、何いちゃついているんだ。せっかく俺様が休日返上して来てやったのに。しかし香という女は見れば見るほど昨夜の女に似ている。本当に別人か? そして美冬はなぜ昨夜の俺のやったことを知っている? あいつも俺様と寝たいのか、へヘヘーっ)白石新次郎は王と呼ばれた女性が白い皿を置いているのを眺めた。

(高梨家の家政婦か。この女もなかなかいい肉付きをしている。香と違って地味な感じだが。家政婦ならメイド服を着ていればいいのに。美冬はメイド服が似合いそうだな、へへへーっ。あいつは俺様の言うことは何でも聞くからな、へへっ。何か眉間の辺りが重たい。やはり昨夜、頑張り過ぎたか? 違う、ん、何だ、このムズムズする感じは)

 白石は誰かの視線を感じた。彼の正面には水樹晶が座っていた。黒いフェイスガードの奥に銀色の小さな瞳があった。

(何だ、気色の悪い目をして。水樹の馬鹿はあんな変な目をしていたか? あいつが俺様を見るなんて初めてだ。ん、眠い。瞼が重い・・・。どうしたんだ? ・・・・・・池の鯉がバシャバシャ騒いでいる。昨夜の色情狂の女が俺の体を舐めまわしている。バーで名都と話している。俺の授業後、宮森華が何か言っている。だんだん暗くなってきた。中岡由美子が俺の手を握っている・・・・・・暗い、ああっ真っ暗だぁ)白石新次郎の瞼は重くなり、彼の意識は闇に閉ざされていった。



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