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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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Bar「クロノ」での誘惑

 白石新次郎はBar・クロノが気に入っていた。今夜も彼はカウンターの中央の椅子に座っていた。紅のブレザーと黒のチノパンツそして白のフリルシャツという出で立ちだった。

「今日もユニークなファッションですね」北見名都はグレンモ―レンジの水割りを緑色のコースターに置いた。

「僕は公私混同しないタイプの人間だからね。プライベートな時間はカジュアルに、仕事中はフォーマルなファッションで。ファッションセンスは他の追随を許さないというのが僕のポリシーだけどね。それに女子高生は教師のファッションにうるさいからね」高校教師はバカラを傾けてスコッチウイスキーを一口味わった。

「でもねぇ、明日はお休みなのに仕事するんだ」白石教諭は悲しそうに目を伏せた。

「そうですか」

「授業の関係ではないよ。僕の物理の授業は完璧だからね。僕は物理学の教師だけど文芸部の顧問でもあるわけだ、うん」

 名都は小さく頷いた。

「物理学と文学・・・、対極にあるようだけど同じものを求めているのさ、僕は・・・。賢明な名都さん、それは何か分かるかな?」

「さぁ、何でしょうか?」名都が首を左に傾げると茶色い髪がサラサラと流れ落ちた。

「それはこの世界の真実、この世界の本当の姿を見出すことですよ。僕はそのために物理学を学び、そして文学を愛している」白石新次郎はスコッチウイスキーを味わったためか、それとも自分の発した言葉に満足したためか、陶酔した表情を浮かべた。

 女性バーテンダーは再び小さく頷いた。

「明日は生徒の家、高梨っていうのだけど、そこでフランツ・カフカの作品の検討会をするのです」

「高梨・・・・・・」名都は一瞬カウンター席の奥の方に茶色の大きな瞳を動かせた。

「そう高梨家。大手スーパーの重役でブルジョアだね。街中にでかい家をぶっ建てている。僕に言わせれば権力の誇示だ、あの家は。自己顕示欲の塊だよ。みっともない。早く廃墟になったらいいのに。おっと、生徒には罪はないけどね」名都はグラスを磨きながらも饒舌な客を見ていた。

「その高梨家のお屋敷で二〇世紀最大の作家の一人、フランツ・カフカの『審判』の書評を生徒たちが書いてきて、僕がそれらを評価するのです。まあ僕は生徒達には尊敬されているのでね。休日出勤も仕方ないですよ」高校教師は故意に嘆息した。

「人気のある先生は多忙ですね」

「そうです。明日の検討会には演劇部の女子生徒まで参加したいって言われましてね。僕はときどき演劇部に行って指導しているわけです。演劇部の顧問が無能なので仕方がないですけどね。僕が慕われるのは」

「演劇部の指導までされているのですか?」名都はちょっと驚いた。

「まあどうしても僕は困っている人を無視できないのです。先日も同僚の養護教員がですねーっ、ストレスが溜まって鬱的な状態になってしまった。それで僕が彼女の悩みを真剣に聞いたわけです。とても真剣に、うんうん。いいですか、名都さん。あなたは分かっていると思うけど、人の話を真剣に聞くことは誰にでもできることではないのですよ。そのための継続した努力と天からの才能が必要だ。それで彼女はかなり元気になって僕がその養護教員の休憩室から出ようとすると、彼女はもう少しここにいてほしい、傍にいてほしいと強く引きとめられましてねぇ。困りました。彼女はスタイルのいいセクシィで魅力的な女性なのですが、僕をとても頼っているのですよ。僕としてはそこまで頼られると断るわけにはいかない。それで僕は一時間ほど授業を休講にして、その養護教員の願いを叶えてあげたわけです。へヘヘーッ。最近は彼女、とても元気になって先日も一緒に飲みに行きませんかと誘われてしまいましてねー。いやぁ、参りました。僕はそんなつもりで彼女を助けたわけではなかったのでねぇ」白石の耳障りな声が甲高くなった。

「白石さんのような方は珍しいですね」名都は二杯目のグレンモーレンジを饒舌な男の前に置いた。

「珍しいかな、ハハハハハーッ」

「お隣に座ってよろしいでしょうか?」艶やかな声が白石の左側から聞こえた。白石は慌てて左上を見ると、長い黒髪の美しい女が右手にグラスを持って立っていた。

「ど、ど、どうぞーっ!」白石は急いで左にある椅子を引いた。

「ありがとうございます」女は黒いレザーのミニスカートに包まれた腰を引かれた椅子に置いた。そして左手に持っていた蒼いコースターをテーブルに置いた。それからバカラのグラスを蒼いコースターの上に置いた。

「先ほどからとても興味深いお話をされていて、ついつい不躾なお願いをしてしまいました。名都さんと楽しそうにお話されていたのに割り込んでしまって、ご迷惑ではありませんか?」隣に座った女は哀願するように白石を見つめた。

「いえいえ! 迷惑なんてとんでもない。あなたのような美人が隣に来てくれるなんて、超ラッキーです」名都は白石と隣に座った女を交互に見た。

「物理学の先生が文芸部の顧問をされているなんて、とても素敵です!」女は微笑みながら白石の顔を覗き込んだ。

「いやいや、教師としては当然の使命です、そんなことは」

「でも現在高校生の部活動で文芸部の活動をされているところは珍しいのではないですか?」女の紅い唇から丁寧で優しく響く言葉が溢れ出た。

「っそ、そ、そうですね。僕もこの街の高校しか知らないのですが、文芸部が活動している高校は僕が勤務している城北高校だけだと思います」

「先生は文芸部だけでなく演劇部も指導されているのでしょう? 先生が勤めておられる高校は演劇部もあるのですね。凄―い!」女の右肩が白石の左肩に当たった。

「えっええっ、そうですね。演劇というものはもうほとんど上演されていないから、演劇部自体が存在することは奇跡的です」

「私も演劇の公演を観に行ったことがないのです。演劇を観るとしたら、かなり前のDVDだけですね」

 女の黒い瞳は悲しそうに囁いた。

「いやいや、DVDで演劇鑑賞するだけでも大したものです。今では演劇に興味ある人間はほとんどいなくなった。そして僕も実際に演劇の舞台を観たことがありません。僕もDVDで観ただけですよ。そのDVDもコピーされたもので、何故か親の実家にあったので・・・。僕の親は演劇を観るタイプではなかったので不思議なのですが」白石新次郎の声は相変わらずひび割れていたが甲高くはなくなっていた。彼は落ち着き払ってスコッチウイスキーを一口飲んだ。

「先生は文芸部の顧問でしたね。ごめんなさい、演劇関係のことばかり訊いて」

「いえいえ、そんなことはありません。何でも訊いてください。但し僕の分かる範囲でしかお話できません。もちろん一般人よりははるかに広い範囲ですが」

 名都は白石の言葉に小さく笑った。

「それでは文芸部のことを教えてください。先生が今の高校に着任された時には、文芸部は存在していたのですか? 私が通っていた高校には文芸部はなかったものですから」

「ええ、僕が今の高校に赴任した時、文芸部は名前だけは存在していました。部室もありましたし。ただ部員がいなかった。まあ開店休業みたいなものです。それで東山校長から僕に『文芸部の顧問になって、文芸部を再建してくれませんか』と頼まれたわけです。それで僕は何とか部員を集めて、文芸部の活動を指導して、校長の要望通りに文芸部を見事に再建したわけです」

「エーッ、本当ですか? 凄いですね、先生は。今だと本を読む人なんてほとんどいないじゃないですか。みんな本読んだって何の役にも立たないみたいなことを言っていますし。読むだけ時間の無駄だとか・・・ね?」白石新次郎は隣の女の黒い瞳から目を離すことが出来ないでいた。

「先生の勤めておられる高校は特別なのかな?」隣の女はいつの間にか高校教師の左腕を両腕で抱き絡めていた。

「いや、まあ、そのぅ、あれですよ、あれ。つまり僕にカリスマ性があったということかなァ。ほら、才能は才能を呼ぶってあるでしょう。僕の文学的才能に多感で繊細な高校生が引き寄せられたということですよーッ」

「じゃあ部員さんはたくさん集まったのですね?」

「うーん僕が着任した一年目には七、八人はいたけどね・・・」白石教諭の口調は急に歯切れが悪くなった。

「今は三、四人かなぁ」

「退部したのですか?」

「いや、退部じゃなくて・・・」

「やはりいなくなったのですね・・・」

 饒舌な男も言葉を繋ぐことが出来なくなっていた。

「でも、それでも今度カフカの『審判』の検討会をされるのでしょう? 素晴らしいことだと思います」

「アハハーッ、そうかな、やっぱりそういうことだな、うんうん」白石新次郎は空になったグラスを掲げた。名都は頷いて三杯目のグレンモ―レンジの水割りを彼の前に置いた。

「私も先生と同じものを、ロックで」女も高校教師と同じようにグラスを掲げた。名都は静かに頷いてグレンモ―レンジのロックをつくり女の前の蒼いコースターに置いた。

「先生、文芸部に残った生徒はどんな子たちなの?」黒い瞳の女は白石の濁った眼を見つめた。

「うーん、部長はねぇ宮森華という女子で、やたら意味もなく元気な子。肌はあなたのように白くなくて色黒。容姿はまあ普通。それから副部長だったっけ? 水樹晶。こいつはうじうじした暗い奴で何考えているか分からない。宮森さんがいつも世話している。こいつは頭のネジが飛んでいて・・・、ここだけの話だけど、少し前に傷害強盗事件を起こしている。マインドコントロールされた軟弱者さ。学校もしょっちゅう休む馬鹿だ。それから二年生に高梨尊という男子がいて、こいつは女子にかなりモテる。まあ僕ほどではないけどね。ルックスが良いだけで中身はない。頭は空っぽだけど多少ハンサムで金持ちというだけで女子高生には人気がある。ほら、例の高梨家の道楽バカ息子ですよ。嘆かわしい。こいつを好きだという女子も頭は空っぽだけどね。あともう一人いたような・・・? いなかったかな。あっ! それから演劇部の部長で渡辺美冬と言う子がいてね。この子は頭が良くてとても可愛い。もちろんあなたには及ばないけど。性格も素直で僕の演劇論も理解している。いずれは僕の知的レベルまで上がってくることができると期待しているのだよ。そしてこの子は目の色が左と右では違うんだよ。ここ数日前からそうなったんだ。不思議だなあ」

「そうですか。先生も顧問として苦労が多そう・・・」隣に座っている女は左手でグラスの氷を揺らして、そしてバカラの淵に紅い唇をつけた。

「あっ、そうそう。宮森華って子はねぇ、左膝下から義足だよ。どうしてか分かる?」

 白石教諭は楽しそうに隣の美しい女に訊いた。

「交通事故で左足を損傷したのでしょうか?」

「ブッブー不正解! それはね、宮森華のお母さんがレーザーメスで切っちゃったからデース。プププッ、怖いでしょ」高校教師は下卑た笑いを浮かべた。

 名都はなるべく二人から離れてグラスを磨くことに集中しようとした。けれども何故か白石の方に視線が行った。すると隣に髪の長い女と目が合った。白石教諭はまだ笑っている。名都がその女と目が合ったのは、ほんの一瞬のことだった。女の隣に座っている男はずっとクックッと笑っている。

「先生・・・」女は笑い続けている男の左肩にそっと右手を乗せた。

「あっ、ハイ」白石新次郎は隣の女の存在に気づいたように笑うことを止めた。

「先生のもとに集まってきた感性豊かな生徒の中でも、この街を去って行った子がいたのですね?」

「うーん、まあ、そのぅ・・・、いないことはなかった」

「今の世界において若い人達は生きていくことが、やはり困難だということの一つの現れなのでしょうか?」

「え、えっ、まあそうだ。まあそうとも言えるのかな」

「文学という精神的な鎧があっても、何かの力で街の外に引き出されていなくなってしまうのですね」

「うーん」文芸部顧問はミックスナッツをボリボリボリと齧った。そしてグッとグラスを傾けた。それから「フーッ」と大きく息を吐いた。

「まあ、みんな物事を深刻に考え過ぎです。街の外に出て行方不明になった奴はもともと弱い人間ですよ、僕に言わしてみれば。そう、確か村上春樹が言っていたな。今日一日生き延びるということは僥倖ではないのか、それほど世界は危険に満ちていると。僕も文学者として彼の言ったことに全く同感です。街を出て何処かで野垂れ死ぬこともあれば、交通事故死もある。僕の高校の水樹晶のように頭が変になった輩にナイフで刺されて殺される場合もある。何処かで爆弾がボカンと破裂して腕や足、プププーッ、頭だって飛んじゃうでしょう?」白石新次郎は急に大声で笑いを始めた。「プププッー、ヒヒヒヒーッ」という甲高い笑い声はクロノの端正な空間を蝕む黴のようだった。そしてその下卑た笑いはなかなか収まらなかった。黒い瞳の女はその間スコッチウイスキーをゆっくりと味わっていた。

「ハアハア、失礼。ちょっと面白かったことを思い出してしまって。フーッ」白石新次郎はグラスの水を「ンックンンックン」と喉を鳴らし一気に飲み干した。隣の女は表情のない瞳で白石新次郎が下品に水を飲む様子を見ていた。

「どうしたらこの無味乾燥な世界を生き抜いて行けるか? あなたが訊きたいのはこのことでしょう?」男は勝ち誇ったように隣に座っている女を見た。女は静かに頷いた。

「僕は物理学を教え、そして文学者だけどね、武道家でもあるのですよ。空手の黒帯でかなり上の方までいっている。今でも毎日走っているしね。この暴力的な世界では暴力に立ち向かう力が必要ですよ、美しいお嬢さん。女の人は種の保存のために強い男を選ぶでしょう。その理論は全く完全に100パーセント正しい。僕は身をもって証明することができる。あなたも僕の言っている意味がお分かりでしょう」黒髪の美しい女は何も言わず、ただ優しい微笑みを浮かべた。

「あなたは聡明な方だ。あのねぇ文学なんて何の役にも立たない。本をたくさん読んで生活できますか? できないよねーっ、馬鹿らしい! いつの時代でも人間にとって必要なものは力ですよ、力。言い換えれば暴力ですよ」

 名都はなるべくグラスを磨くことに集中しようとしたが、意識は白石新次郎の話に向かっていた。

「多くの奴がこの世界に絶望してしまっているけど、僕に言わせればそんなの弱者の言い逃れですよ。人はタフでなければ生きていけないと昔から言っているじゃないですか? そうでしょ、あなた。僕の高校の水樹晶なんか貧相な体でふらふらして罪を犯してしまった。どうせあいつは闇に引き込まれて街を出て行くでしょう。そして何処かで野垂れ死だ。へへへ―ッ、あんな社会のゴミは淘汰されて当然ですよ。『クラッシュ』の後だからとか『分水嶺』を超えてしまったとか『あの時』が来てしまったとか、嘆いていても仕方がない。強い者が生き残るのは自然の摂理ですよ。僕のように体を鍛えて、真面目に仕事をして、他の人の面倒をよく見てあげれば、女性に気に入られる。まあ僕は職場では先ほども申し上げたようにカリスマ教師ですよ。そうなれば、自分の思うままやりたい放題ですよ。何がって? 僕は『イタリアの種馬』と呼ばれている男ですからねぇ。ヘッヘヘ―ッ。だからね、ときどきこうして静かなところで一人になって飲んで落ち着きたいわけです。もの思いに耽りながら・・・。カッコいいでしょ。だけど今宵もあなたのような美しい人に出逢ってしまった。ああ、僕には魂の休息はないのか? しかしあなたのような美しい人に出逢ってしまったなら僕の欲情の赤い炎は燃え盛るばかりです」

 男は毛細血管が浮き出た濁った眼で隣の美しい女を見ていた。そして彼の白っぽい舌が分厚い唇を舐めまわしている。女は右人差し指を欲情した男の舌に当てた。

「とても面白いお話でしたわ、先生。私、これから『イタリアの種馬』に乗りたくなりました」

「エッ?」白石新次郎は美しい女の言動に呆然とした。

 彼の隣に座っていた女は立ち上がりコート掛けから白いコートを取った。そしてその白いコートを着て名都に言った。

「こちらの方と私のお勘定を」

 彼女は戸惑っている男をやんわりと制止して二人分の料金を払った。そして男の腕を取ってBar・クロノの扉を開けた。

「ありがとうございました」名都は出て行く二人に声をかけた後、カウンターの一番奥の席を見た。そこには髪の長い美しい黒い瞳の女が座っていた。



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