「でも、あなたは、ときどき、いなくなる。誰も、あなたを、見つけられない」
AFZ五階のミニシアターには水樹晶の他に客は二人いた。
水樹晶は久しぶりに朝食をしっかりとったので、昼過ぎになっても空腹ではなかった。香の部屋には結局十一時過ぎまでいた。朝食をとった後、また少し眠ってしまった。その後シャワーを浴びて髪を洗って浴室から出ると、香は着替えを用意してくれた。下着、靴下、カッターシャツ、いずれも新しいもので小柄な男子高校生の体に馴染んだ。
「晶さんが昨日着ていたものは洗濯して明日にはお返しできると思います。だから明日は私の家に是非いらしてくださいね」香は楽しそうに言った。
「ああっ、ありがとう。香さん」水樹晶はドライヤーで髪を乾かしながら、自分と香がいる部屋の雰囲気を楽しんだ。(これが家庭的ってことなのかな?)彼は自分の体のネジがほどけて楽になっていることに気づいた。そして体の奥から力が湧いてくる感覚があった。
「香さん、どうしてこんなに僕に良くしてくれるの?」
「あら、晶さん、私にそのことを言わせるの?」香の黒い瞳が悪戯っぽく笑った。
「だって僕は本を読むだけの、何の取り柄もない男だよ」
「ふふふっ、それは晶さんが自分の良さに気がついていないだけ・・・」
「僕の良さ? そんなものあるのかな? 頭は悪いし運動も駄目。見た目だって貧弱だし性格は優柔不断。それにいつも後ろ向き的なことばかり考えている。悪いところだったらいくらでもあるけど」
「晶さんは自分に厳しいですね」香はそう言うと晶がドライヤーを当てた髪をそっと撫でた。
「晶さん、あなたはとても激しく求めているものがある。あなたは熱くて冷酷で暴力的で引っ込み思案で知的で感情的で」
「とても矛盾しているように聞こえるけど」水樹晶はドライヤーを白いテーブルの上に置いた。
「そう、矛盾しています。でも本来の人間って矛盾そのものじゃないかしら?」
「僕は懐古趣味なだけだよ」
「晶さんはこの世界の時間の流れに逆らっているように見えますけど」
「・・・そうかもしれない」水樹晶は目の前にいる成熟した若い女性の言ったことを頭の中で繰り返していた。(熱くて冷酷で暴力的で引っ込み思案で知的で感情的で。本来の人間って矛盾そのもの。僕はこの世界の時間の流れに逆らっている)
香は水樹晶の細い右手を白い両手で包んだ。そして真っ直ぐ彼の小さな目を見つめた。見つめられた少年も目の前にあるその黒い瞳をじっと見つめた。彼はその黒い瞳を何処かで見たような気がした。彼はつぶらな黒い瞳の奥底に銀色の輝きを見て取った。
「晶さん、これからどうなさいます?」
「分からない。AFZにいるかもしれないし、高校に行くかもしれない」
「そうですか。しつこいようですが、明日お会い出来たら、私、とっても嬉しいです」香の掌の温かさを水樹晶はずっと感じていた。
「うん、行けたら・・・・・・、いや、なるべく行くようにするよ」
水樹晶は戸惑いながらそう答えた。
高校の授業を怠けて休んだ少年は二本目の映画を観ていた。
水樹晶は今観ている映画より先ほど観た映画を思い返していた。(確かあの映画のヒロインはオードリー・ヘプバーンだったな。あんなに生き生きとして可愛くて・・・。白黒映画だったから、かなり古い映画のはずだ。人と人との繋がりは洒落ていて楽しいものだったのか? だけどフィクションだろう。アメリカ人の仕事ぶりがあれ程優しいはずはない。『麗しのサブリナ』かぁ)
「バウバウ! キャン!」目の前の画面では白地に黒い斑点がたくさんある犬が吠えている。同じ種類の犬が何十匹もいる。アメリカのディズニーという映画会社の作品だった。
(あんなにうるさい生き物を飼っていたとは信じられないな。犬という種族は人間が飼うことを止めて野生化したので駆除されたと何かの本で書いてあった。どうして以前の人間はこんな手間のかかる生き物を飼っていたのか? 可愛いとか言っているけど理解できない。悪役の魔女みたいな女が言っているように毛皮にした方が価値がある)
水樹晶がそう思ったとき胸がチクリと痛んだ。彼はその痛みに違和感を覚えた。(くだらない映画だ)彼が腕時計を見た。長針は3を指し短針は4を少し超えた所を指していた。
(まだ五時までかなりある。今日は玲さんに会えるかな)彼の脳裏に村上玲の優しい笑顔が浮かび上がった。(茶色いショートヘア、蒼い瞳、小さな鼻、ピンクの唇。丁寧な喋り方。うん、誰かのようにずけずけとお構いなく話す人じゃない、玲さんは。ん? 誰が無遠慮にずけずけ話す・・・誰?)
「ただいまより館内清掃を行います。館内におられます、お客様。申し訳ありませんが、この館内より出られますようお願い致します。なお再び入場できます時刻は17時45分となっております」
水樹晶は館内放送を聞いて思考を中断した。周囲を見回すと離れた所に初老の男が一人、まだ残っていた。その男は座席に座って眠っていた。
水樹晶は左隣の座席に置いていた黒いデイバッグを取ってそれを背負った。それから奥の出口の扉の方へ歩いて行った。AFZ五階ミニシアターを出るとチケット売り場に向かって歩いた。
チケット売り場のあるフロアにはポップコーンやドーナツを売っている自動販売機があった。水樹晶は自動販売機にお金を入れシナモンドーナツを一個買った。それから他の自動販売機でホットコーヒーを買った。彼は壁際にある木製のベンチに座り紙コップに入っている熱いコーヒーを飲んだ。そしてビニール袋を破ってドーナツを齧った。彼は周囲をぐるりと見まわした。チケット売り場のカウンターには男性職員と女性職員が一人ずつ立っていた。カウンターの前には数人の客がいた。彼らはチケットを買ってフロア中央にあるドーナツ状の丸い椅子に座った。ミニシアターに通ずるゲージには茶色の制服を着た女性職員が立っていた。彼女は観客のミニシアター入場を許可する時刻を待っていた。
水樹晶は自分がいつごろからこのミニシアターに通い出したか、思い出そうとしていた。
(確か十二歳の頃からミニシアターに通い始めた。誰かと一緒に来ていた? 親? 違うような気がする。ミニシアターの観客もかなりいたように思ったが。最初の頃は観客が一斉に笑ったりして驚いたものだ・・・。それが五年前のことか? 映画を観る人間も減っている)
彼はチケット売り場の職員を見た。男が一人、女が一人。彼らは五年前からあのチケット売り場で働いている。それから入場ゲートにいる女性職員。彼女も五年前からいた。この五階にあるミニシアターとチケット売り場はずっと変わっていない。(こんなに客が減っているのに、なぜこのミニシアターは営業を続けているのか? ここ二、三年はずっと赤字なはずなのに)水樹晶は最近このミニシアターに来るたびにそう思った。(だけど、僕にとってみればありがたい話だ。ここは数少ない気に入った場所だからなぁ)彼は飲み終えた紙製のコーヒーカップをゴミ箱に入れ、ドーナツを包装していたビニール袋をプラスチック専用のゴミ箱に入れた。そのから足元にあるリノリウムの床を見た。薄い茶色の床は僅かに光沢がある。天井を見上げるとそれは白いドーム状だった。水樹晶は床を見て周囲を見て天井を眺めた。そして腕時計を見た。腕時計の長針短針は五時五十分を指していた。先ほどまでミニシアターの開場を待っていた人たちは、このフロアから姿を消していた。
彼はエスカレーターに乗って階を降りて行った。二階に着くとセキュリティ対策室の入り口ドアが見える木製ベンチに座った。
午後六時を過ぎたがセキュリティ対策室からは誰も出てこない。水樹晶はセキュリティ対策室の入り口を見ながらベンチに座っていた。その入り口周辺の空気は何の変化もなかった。三〇分経っても一時間経ってもそこから誰も出てこなかった。午後七時三〇分過ぎた時にドアが開き眼鏡をかけた痩せた男が出てきた。歩き方が旧式のロボットのようにカクカクとして不自然だった。その男は水樹晶の前に来て止まった。
「あなたは、水樹、晶、くん、ですね?」変な区切りの日本語がベンチに座っている高校生の耳に届いた。
「あっ、はい」男子高校生は声をかけてきた男を見上げながら答えた。
「僕は、AFZで、働いて、いる、伊能、ハジメ、です」
「あっ、はい?」水樹晶は目の前に突っ立っている男がいきなり自己紹介したので驚いた。(この人は先ほどセキュリティ対策室から出てき人間だろう。セキュリティ対策って秘密を守るところじゃないのか。この人、自分から身分を明らかにして大丈夫か? 話し方も変だし)
「そこに、座っても、いいです、か?」
「ええ、どうぞ」
伊能は男子高校生と適度な距離を開けて座った。
「水樹君、あなたは、ここ、AFZが、好きなの、ですね」
「えっ?」
「あなたは、AFZの、いろんな、ところに、いる」
「はあ・・・」水樹晶は伊能の言葉を素直に聞いていた。
「水樹君、あなたは、いろんな、人から、見られている」
水樹晶は一度頷いた。
「でも、あなたは、ときどき、いなくなる。誰も、あなたを、見つけられない」
「えっ、どういうことですか?」
「分からない、のです。だけど、それは、面白いこと、です」伊能は隣に座っている少年を見て不器用に笑った。水樹晶も隣に座っている変な動きをする男を見て笑った。
「じゃあ、僕は、これで、失礼、します」伊能は立ち上がり深くお辞儀をして去って行った。水樹晶は「伊能ハジメ」と自己紹介した男の機械的な歩き方をずっと見ていた。そして伊能の姿が視界から消えると床に目を落とした。
(どうして僕みたいな取り柄のない人間が監視されているのだろう。やはり玲さんにナイフを突きつけて強盗しようとしたからか?)だが彼はその答えに納得しなかった。彼がやったちっぽけな強盗など、この世界では日常茶飯事だし皆の記憶から直ぐに消滅してしまう。
(僕がときどき何処にいるか分からなくなる?)水樹晶にとっては伊能が告げたこちらの言葉の方が頭に引っかかった。(ときどき頭がボーッとして脳が全く活動していないような感じにはなるけど・・・・・・、そんなときに何処かに行ってしまうのか? 馬鹿な、そんなことじゃないだろう)彼は相変わらず床を眺めながら考えていた。そのうち彼は自分が座っているところの床が乳白色であることに気がついた。そしてこの通路が異常に幅が広いことに驚いた。
(これまで何回このAFZの通路を歩いたのに・・・、全く通路の色、形状に関心が向かなかった。どうして今、そんなことに驚いているのか?)
唐突に水樹晶の頭の中は雑多な映像が浮かび上がった。それらの映像が脈絡もなく絡み合った。そして彼は脳全体が発熱したように感じた。
(村上玲が狐とじゃれ合っている。高梨尊と宮森華が抱き合ってこちらを軽蔑した目で見ている。高梨香と雑貨屋の老婆が丸椅子に座って密談している。その雑貨屋には内田南も座っている。林田勤が大きな鞄を持って倉庫を走り去って行く。白石先生が薄暗い路地で女と商談している。中岡美奈子が僕の首筋に齧り付いていて僕の肉を食いちぎり美味しそうに咀嚼している。だけど僕の首筋は痛くないし血も出ない。僕を傷つけたAFZの柄の悪い小男が細長い物体を縄で巻いて橋の欄干に吊るして喜んでいる。なんだ、これは? 由美さんが土砂降りの雨の中、傘をさして周囲を見回している。彼女は街の外にいる・・・・・・。彼女の隣に背の高い男が立っている。その男の顔はぼんやりしていて見えない。誰だ! この男は! 僕はこの男との繋がりがある。どんな繋がりだったか? 分からない。分からない。とても大切なことのように感じる。駄目だ。分からない。そして・・・これは夢なのか? 現実なのか?)水樹晶は立川由美の隣に立っている男の顔を注視した。この男を自分はとてもよく知っているような気がした。その男は膝まである灰色のコートを着ていて、同じ色のスラックスを履いている。だがその男の顔はどうしても見えない。そしてその男が冷たい笑いを浮かべた。隣の由美に対してではなく、自分に対して嘲りの笑いを浮かべたのだ。そのことを水樹晶は、はっきりと理解した。そして彼の中の混乱は徐々に無くなっていった。自分の頭の中に誰もいなくなった時、彼は腕時計を見た。午後九時を過ぎていた。
(・・・・・・今日は家に帰ろう)水樹晶は立ち上がりセキュリティ対策室の入り口を見た。その入り口には何の変化もなかった。彼は西側のエスカレーターに乗り一階へ降りて行った。




