白石教諭が騒がしく原子力発電の仕組みを説明していた
宮森華は食堂から3ーB教室の自分の席に帰ってきて水樹晶の席をみた。その席には誰も座っていなかった。教室をぐるりと眺めたが幼馴染の姿は見当たらなかった。
「水樹君、今日は欠席するのかな?」渡辺美冬の声も心配そうだった。
「また何処かでフラフラしているのよ。メール送っても返信ないし」華は水樹晶の席が空いていることが当たり前に感じ始めた自分に嫌な気持ちがした。
「水樹クン、他の生徒に比べても存在感がないデース」
「ハーバート、シ―ッ」美冬はハーバートを軽く睨んでピンクの唇の前に右手人差し指を立てた。ハーバートは両手を肩まで上げてホワイ? という仕草をした。
「いいのよ、美冬。晶は晶で考えていることがあるのよ」午後の授業開始チャイムが鳴った。
「そうだね」美冬は華の左肩をポンと叩くと自分の席に戻って行った。
チャイムが鳴って五分後に白石教諭が教室に入ってきた。
華は珍しく授業に集中できなかった。白石教諭が騒がしく原子力発電所の仕組みを説明していたが、彼女の頭は上の空だった。(晶はどこに行っているんだろう? 明日は尊君の家に行くのに。でも晶が尊君の家に行っていたなんて知らなかった。なんか変な感じ・・・。頼りない晶を守ることが私の役割だと思っていたけど、そうじゃなかったのかなぁ)彼女がぼんやり考えていると右頬に僅かな圧力を感じた。華が圧力を感じた方を見ると、二列離れた席の美冬が微笑みながら華を見ていた。(美冬は人の心の動きが分かるのかなぁ。いいなぁ。私なんか幼馴染の心さえも分からない。私は晶の心を平気で踏み込んでいたのかもしれない。それで私から離れていったのかもしれない・・・。尊君が自分のことを語らなかったのも私の無神経な性格のせいかもしれない。あれっ? でも最近は尊君、自分のこと話してくれるし、この間は彼と手を繋いじゃったし。私、尊君のこと好きなのかな? 明日、彼の家に行って変なこと言わないかなぁ。ハーバートのこと言えないじゃない、私)
「宮森サーン、宮森サーン。白石センセーが呼んでますヨッ」ハーバートの声に華は我に返った。
華は慌てて教室入り口手前で立っている白石教諭の所に行った。
「白石先生、何でしょう?」
「宮森さん、水樹君、今日は欠席だね」白石教諭は深刻そうに言った。
「先生、晶は結構学校休みますよ」
「あれっ、そうだったか」
「でも私も最近は会っていないので、少しは心配しています」
「うん、そうだろ、そうだろ」華は目の前の教師が何を納得したのか分からなかった。
「あっ、先生。明日、高梨尊君のお家でカフカの『審判』の書評の検討会をします。晶にも連絡しましたから、もしかしたら来るかもしれません。突然の話だけど先生も来られませんか?」
「うーん、明日かぁ」文芸部顧問は首を捻った。
「明日はお休みだから、先生もゆっくりしたいのですね」
「それもそうだが、もう一つ困ったことがある」
「困ったことって何ですか?」
「僕は『審判』を読んでいないのだよ」文芸部顧問は悪びれずに答えた。
「はあーっ、先生、かなり前から『審判』に関して研究するって言っていたのに」華は唇を突き出して白石教諭を睨んだ。
「いや、僕もこのところ忙しいのでね。明日は難しいと思う」
「そうですか。明日は美冬、渡辺美冬さんも特別参加してくれるんですけどーっ」
「あっ、そう。そうなんだぁ。渡辺君もねぇ。うん、うん」
「白石先生、何がうん、うん、なんですか?」
「そうだねぇ。こういう難しい課題には一定の人数がいた方がいいわけだ。うん、僕もなるべく行くようにするよ。じゃあ」
物理学を教えている教師は右手を上げ紺のスーツを翻して教室から出て行った。
「もうー、何なの、白石先生は」華はそう言いながら自分の席にもどった。
「どうして白石先生が文芸部の顧問なのかしら。ねえ、そう思わない美冬」
「まあまあそう怒らないで。白石先生は、その時に言いたいことを言っているだけじゃないかな。ときどき演劇部の部室に来てシェイクスピアのことを話すの。ほらハムレットの有名なセリフ『生きるべきか死すべきか、それが問題だ』とかね。でも華が言うように本文は読んでいないのよ。面白いわ」
美冬は華の席の傍に立ってクスクス笑った。
「オー白石センセー、いい加減ですネ―ッ。僕の生まれ育った街ではそんな教師がクラブの担当にはなりまセーン。専門性? って言うのですカ? スペシャリストじゃないとクラブの責任者とは認められまセーン」ハーバートは真面目な顔で話題に加わった。
「だけどーッ。彼のようないい加減な人がいることが大切な気もシマース。例えば渡辺サーン。アナタは『審判』を呼んでいるのではないですカ?」ハーバートの唐突な質問に美冬は少し驚きながらも答えた。
「うん、私も実は『審判』読んでいるよ。顧問の猪口先生がこの作品は読んでいたらいいよって言ってくれたの。そしてこの作品を演劇にできたら素敵だろうなぁって思ったの」
「へぇー、さすが猪口先生」華は美冬の言葉に感心した。
「宮森サーンも渡辺サーンもスルジャもみんな、『審判』を読んでマース。そして僕も読みマシタ。読んでないのは文ゲー部顧問の白石センセーだけデース。言い方悪いけど白石センセーはダメ先生デース。だけど、ダメ先生がいることがみんなをリラックスさせている気がしマース」
「ふーん、ハーバートもたまには良いこと言うんだぁ」
「オー、宮森サーンは僕のこと、誤解してマース。ねえ渡辺サーン」
「ふふふっ、それはどうかなぁ。でも今の話はとても良かったので、かなり挽回したかもね、ねえ華?」
「それはどうかなぁ」華は腕を組んで左側にいるハーバートをチラッと見た。ハーバートは目を見開き口を縦に引き延ばしておどけた表情をした。「ププッ」と華も美冬も吹き出してしまった。
「ハーバート、せっかく良いこと言ったのに、なぜそんな変なことするの?」華はまだ笑っていた。
「オー、イッツ、アメリカンジョーク!」
「ハーバート、それはアメリカンジョークではなくて、だだの変顔ではないかしら?」
「そうよ、ハーバート。君はなんでもアメリカンジョークと言えばいいと思ってるでしょ!」
「アウチ! 宮森サーンは厳しいデース」
「そうかしら」華は澄まして答えた。
「明日は白石先生、高梨邸に来るかしら?」美冬は華に訊いた。
「そりゃあ、来るわよ」
「文芸部顧問だから?」
「いや、演劇部顧問だからでしょ? 美冬」
「あら、そうでしたか?」
華は「フフフッ」と微笑んでいる美冬の左肩を右手で二回軽く小突いた。そのとき美冬の紫と銀色の瞳が笑っていないことに気づいた華は、何故か自分の胸の内に尖った小石のようなものが引っかかっていると感じた。




