水樹晶は高梨香と遭遇する
社員専用エレベーターは四角い形状で広い空間を有していた。周囲は全て灰色で非常ボタンだけが真っ赤だった。水樹晶は2と示してある四角いボタンを押すと2はオレンジ色に光った。彼だけを乗せたエレベーターは音もなく降下し静かに二階で止まった。社員専用エレベーターから降りた水樹晶は通路を何回も曲がり、先ほどまで座っていた木製ベンチに着いた。そのベンチには灰色のワンピースを着た髪の長い女が座っていた。女は熱心に本を読んでいた。水樹晶は本を読んでいる女とは間隔をあけて座った。
「こんばんは」ウェーブのかかった長い髪を右手でかき上げながら隣の女はニッコリと笑った。
「あ、こんばんは。ここに座っていいですか」水樹晶は咄嗟に答えた。
「もちろん。そこは晶さん、あなたの席ですから」女は面白そうに笑った。そして読んでいた本をバッグに入れた。
水樹晶は困惑しながら隣の女をじっと見つめた。
「・・・高梨・・・、香さん?」彼は小さな目で香の艶のある黒髪、黒く輝く瞳、形の良い鼻、紅い唇、細っそりとした顎を確かめるように見つめた。
「お久しぶりです、晶さん。お元気ですか?」香はそう言うと,すっと水樹晶の傍に寄った。
「ええ、まあ、何とか」
「そうですか。ちょっと疲れていらっしゃるみたいですけど」
「いえ、大丈夫です。高校三年にもなると、いろんなことをしなくちゃいけないので」
「そうですねぇ。三年生になると今後のことも考えなくちゃいけないし。ふふっ、晶さん、私、高校生を終えて大学生になりました。凄いでしょ」水樹晶は香のあっけらかんとした声の響きに重かった体が軽くなったように感じた。
「そうですか。なるほど」水樹晶は年下だけど大人っぽい香を見ながら、「うん、うん」と納得した素振りを見せた。
「ふふ、どうしたの? 晶さん。そんなに首を振って頷いてばかりいらして」香は楽しそうに水樹晶を見つめた。
「いや、何となく香さんは高校生活に馴染めないと思っていたから。僕も違った意味で馴染めていないけど」小柄な高校三年生は自嘲的に笑った。
「エーッ、私って高校生活に馴染めていないように見えました? どうしてですか」
「いや、香さんが馴染めていないというよりも、周囲が香さんにどう接していいか分からないんじゃないかと思っただけで」
「私ってそんなに近寄りがたいですか?」香は上目遣いで水樹晶を見た。水樹晶は香の黒い瞳の輝きが、写真集で見た冬の星の輝きのように思われた。
「君のように精神的に成熟していて頭も良くてキレイだと、同級生はみんな対応できなくて距離を置いてしまうのではないかな」
「そんなに褒めてくれて・・・、ありがとうございます。でも晶さんとは普通にお話できますよ。晶さんが私の家に来てくれたときとか、ここAFZで会ったときとか」
「確かに・・・。何故かな? おそらく僕が一人きりになって自分が解放された気持ちになるからかなぁ」
「例の幼馴染さんから解放されるってことですか? えーっと彼女、宮森さんだったかしら」
「うん、そう宮森華。あいつ、危なっかしいからね。僕が守っていないと何するか分かんないし」
「そうですか。晶さんも気苦労が多くて大変ですねぇ。でも私と会って話をするとき、幼馴染さんのお世話とかで愚痴みたいなことを全く言わないですよね、晶さんは」
「あっ、そうだね。うーん、香さんは僕の話すことをちゃんと真剣に聞いてくれるでしょう。だから不満や愚痴なんかよりも、僕が普段伝えたいこと知ってほしいことを香さんに話すのだと思う」
「私も晶さんのお話を聞くことが好きです。じゃあ、私たち相性がいいってことかな?」
「まあ、多分、そうだと思う」水樹晶は照れながらそう言った。その時、彼は自分がとても空腹だということに気づいた。
「どうしたの、晶さん? 急にそんな顔して」
「いや、急にお腹がすいていたことを思い出して・・・。朝からまともに食べていなかったから」
「あら、大変。もうレストランは閉まっているわ。一階の食品売り場から何か買ってきましょうか?」立ち上がろうとした香を水樹晶は彼女の右手を握って制止した。
「大丈夫。さっき一階でサンドイッチとコーヒーを買って、この辺りで食べよう思っていたんだ。ちょっと急用ができて、今まで食べられなかったけど」
「じゃあ、今から食事をされたらいかが? この辺りはほとんど人が通らないでしょ」香は目を細めて笑った。
水樹晶は黒いデイバッグからミックスサンドイッチとブラックコーヒーの入ったペットボトルを取り出した。ペットボトルを何処に置こうか思案していると、香が手を出してそれを持ってくれた。彼女はバッグからウエットティッシュを一枚出して、水樹晶に手渡した。
「ありがとう・・・。香さんは何でも持っているね」
「いえいえ、そんなことありませんよ」香は可笑しそうに笑った。
水樹晶が半分ほどミックスサンドイッチを食べたとき、香は蓋の開いたペットボトルを彼に差し出した。水樹晶はブラックコーヒーをペットボトルの三分の一ほど飲み、それを香に返した。彼はサンドイッチを全部食べると、再び香がペットボトルを差し出した。水樹晶はペットボトルの半分までブラックコーヒーを飲むと香から蓋を受け取った。彼はペットボトルの蓋を閉めてそれをデイバッグのポケットに入れた。それからサンドイッチを包装してあったビニールをレジ袋に入れて、それもデイバッグに入れた。そしてズボンのポケットからハンカチを取り出して口の周りを拭いた。
「晶さん、少しは落ち着きましたか?」
「ああ、少しは・・・」
「ちゃんと食事をとっていますか?」
「いや、あまり食べていないような気がする」水樹晶は家での食卓のことを思い返した。朝食はトーストとコーヒー、昼食はコンビニエンスストアで買ったものか、高校の食堂で済ます。食欲がない時は昼食をとらない。夕食は母が用意したものを食べるが、最近はほとんど母と会っていない。夕食といってもスーパーマーケットの弁当とか総菜とかで、他は冷凍食品をレンジで温めて食べるようにとメモ書きあるくらいだ。母、優菜の顔も曖昧になってきて明確に思い出せない。そういえば宮森華がときどき家にやって来て、ご飯しっかり食べないと駄目とか言っていた。そして肉じゃがや焼き魚、味噌汁とか作ってくれた。また彼女は「埃っぽーい」とか言いながら勝手に掃除機を晶の部屋の床に当てていた。
「晶さんがときどき私の家に来てくれたとき、お食事を一緒にしたことがあったでしょ。その時は美味しい美味しいと言って、たくさん召し上がられたと思いますが・・・」
「あーっ、そうだね。香さんの家に行くと何故か食欲がわく」水樹晶はそう答えた直後、強烈な睡魔に襲われた。体がいきなり重たくなった。自力で瞼を開けることが困難になってきた。脳が一切の活動を停止しつつある。指先から尾骶骨から踵から力が抜けていく。(どうしたのかなぁ? 今日はいろんなことがあり過ぎたからか・・・・・・)美しい香の顔が驚いている。水樹晶は何か言おうとしたが意識が途切れた。




