河合友子の誘惑とロシアの話と評価
水樹晶は自転車を二輪車駐輪場に置くとAFZの正面入口に向かった。周囲にあるレストランや理髪店、ゲームセンターを虚ろな目で眺めていく。空は相変わらず重い雲に塞がれて上空は風が舞っていた。空気は小さな砂粒が混ざっているようで、水樹晶は学生服のポケットから白いマスクを取り出して口と鼻をそれで塞いだ。石畳の広場に分散している人々が徐々に集まりAFZの入口に吸い込まれていく。
水樹晶はAFZのエントランスホールに入ると照明の柔らかな光に包まれた。彼は眩しそうに眼を細めて正面中二階にあるセキュリティ対策室を睨んだ。そして食品売り場に向かって歩き始めたが、空気がまるでゼリーのように彼の体にまとわりついた。彼は白いマスクをはぎ取り乱暴に学生服のポケットに入れたが気分は晴れなかった。
水樹晶は体に粘つくような抵抗感を覚えながらピンクのショッピングバスケットを手にして食品売り場に入った。彼はまっ直ぐにパン売り場に行きミックスサンドイッチを一つバスケットに入れた。それから清涼飲料水コーナーで冷えたブラックコーヒーのペットボトルを一本取って、それもショッピングバスケットに入れた。
「水樹君じゃないか。元気かい」水樹晶は振り返ると水色のジャケットを着た林田勤がいた。
「林田さん・・・」水樹晶は自分の体が少し自由になったように感じた。
「宮森さんが心配していたぞ。高校にはちゃんと行っているのかい?」
「・・・ええ、まあ」
「そうか、俺も高校時代、ちょくちょくさぼっていたしなぁ。あっ、大学時代もそうだ。男はそんなもんかもしれん」
「はあ」
「じゃあな」林田勤はそう言うと他の場所へ行ってしまった。
水樹晶はしばらく林田勤が去った方向を眺めていた。彼の視界に何人かの買い物客が入るとレジの方に歩き始めた。彼は清涼飲料水コーナーから一番近いレジの前で並んだ。彼の前には四人の買い物客がいた。彼が前を向いて待っていると時々レジ係の女性と目が合った。最初は偶然かと思ったが、並んでいる客が減ってきてもそのレジ係の女性と目が合った。自分の買い物をレジに通すとき彼はレジ係の女の名札を見た。名札には河合友子と書かれていた。
「合計450円になります」河合友子の声は甘ったるいように聞こえた。水樹晶は財布からカードを出し河合友子に手渡した。そのときレジ係の女の艶やかな手が水樹晶の右手に触れた。水樹晶がレジ係の女を見るとその女の紅い舌が自分の赤い唇を舐めまわした。彼女の紅い舌先は蛇のように二つに割れていた。
「ありがとうございます」
水樹晶はレジを離れても、その甘ったるい声は耳に残っていた。それと先端が二つに割れている彼女の紅い舌も脳裏に残っていた。彼はエスカレーターで二階に上がり広い通路の側面に置いてある木製ベンチに座った。そのベンチからセキュリティ対策室の黒い出入り口ドアが見える。そしてそのドアの周辺は陽炎が燃えたっているように見えた。彼は目を凝らして改めてセキュリティ対策室の黒いドアを見た。やはりその周辺は空気が揺らいでいる。
「あら、あなたもセキュリティ対策室の入り口が分かるのね」先ほどの甘ったるい声が頭上から聞こえた。水樹晶は驚いて顔を上げた。彼の目の前には先ほどのレジ係の女が豊かな腰に手を当てて立っていた。
「ようこそ再びAFZへ、水樹晶君」
水樹晶は自分の名前を告げられて再び驚いた。
「あなたが待っている冷ちゃん、村上玲ちゃんはまだあのヘンテコな部屋からは当分出てこないわよ」
水樹晶は言葉を失った。意味が分からなくなった。
「ふふ、そんなに驚かなくてもいいでしょ。あなたはここでは超有名人だから。ねぇ横に座っていいかしら」河合友子は小柄な高校生が返答しないうちに彼の左隣に座った。
「私は河合友子。よろしくね、晶君」水樹晶の隣に座っている女から強烈な香水の匂いがした。それは彼がこれまで嗅いたことのない匂いだった。
「あの、以前、僕が事件を起こして皆さんに迷惑をおかけして、すみませんでした」
小柄な男子高校生は深々と頭を下げた。
「いいのよ、そんなことは」レジ係の女はそう言うと水樹晶の方に体を寄せてきた。二人は密着した状態になった。
「ねえ、晶君、面白いことを教えてあげましょうか。ふふふっ・・・、あの日、あなたはレジ係の玲ちゃんを連れ出そうとしたでしょ。ホントはあの日のあそこのレジ担当は私だったのよ、うふっ」
水樹晶は不思議そうに隣の女を見た。隣の女は赤茶色の目をしていた。その目は探るように強盗未遂犯だった若い男を見ていた。
「私はねぇ、そのとき遠い国に出かけていたの。帰って来て事件のことを聞いてね、危ない目に逢わなくて良かったぁって思ったの。私の危機回避能力は捨てたものじゃないって。でもねぇ、強盗犯が晶君のようなカッコいい男の子だったら、私はあなたに連れ去られた方が良かったのにって思ったの」隣の女の右手が水樹晶の左太腿に置かれていた。
「マインドコントロールされてナイフを振り回している危ない男と一緒に行きたかったのですか?」男子高校生の声は少し苛立っていた。
「晶君、あなた、本当にマインドコントロールされていたの?」隣の女の赤い口が少し開いて二つに割れた紅い舌がぽってりとした上唇を舐めるように動いた。それを見て水樹晶は自分の体の奥底に得体のしれない熱い塊の存在を感じた。
「あなたは玲ちゃんを欲しているのではないかしら?」
「そんな! 僕は村上さんとは面識はありませんでした。あの事件の時は誰でもよかった。あの場所で彼女を連れ去ろうとしたのは偶然です」
「本当かなぁ、そうなの?」隣の女の右手が男子高校生の左太腿で円を描くように動いている。
「晶君は読書家だから二階の海浜書店によく行くでしょう。玲ちゃんは時々あそこにもヘルプで入ったりしていたのよ。彼女は有能で何でもできるタイプだから。そして目立つの。だから面識がないってことはウソでしょう?」
「いや、そんなことは・・・」
「晶君、君がそう思うとしても君の脳は意識下で村上玲を欲望の対象として捉えていたのよ」
「そうかな」水樹晶はぽつりと言った。
「私もあなたの欲望の対象になる?」隣の女は笑った。
「さあ、どうでしょう」
「私はあなたの知りたいことを知っているかもしれないわよ」
「僕の知りたいこと?」
「そう、例えば外国の話とか」
「ふーん」水樹晶は無関心を装った。
「私はスーパーのレジ係だけど違うお仕事もしているの。例えば、フランスとかロシアとかアメリカとかに行って、その地域の状況を調べてくるお仕事とかね」
「ロシアにも行ったことがあるのですか?」
「ええ、まだ人がいたモスクワにも行ったわ。興味ある?」
「ええ、まあ・・・」水樹晶は小さく頷いた。
「じゃあ、落ち着いた場所でいろいろ教えてあげる。行きましょ」
「あっ、でも・・・」水樹晶はセキュリティ対策室のドアの方を見た。
「大丈夫よ。玲ちゃんは今日、遅出だから退社は午後10時以降よ。私は玲ちゃんとお友達だから何でも知っているの」河合友子は立ち上がり、座っている水樹晶に向かって右手を差し出した。水樹晶は彼女の手を右手で握り立ち上がった。
「さあ、行きましょう」二人は肩を並べて歩いて行った。
河合友子と水樹晶は社員専用エレベーターに乗って十階フロアに到着した。通路の手前に頑丈な白いドアがありセキュリティロックが掛かっていた。河合友子はドアのモニターに社員証をかざして顔認証、指紋認証を受けた。
「社員番号2273 カワイトモコ ですね?」モニタ―のスピーカーから電子音が問いかけた。
「はい、河合友子です」河合友子は事務的に答えた。
「カワイトモコ 確認しました」スピーカーからの電子音が途切れると白いドアは音もなく開いた。
「こっちよ」河合友子は右手で少年の左手を取って引っ張るように早く歩いた。彼女は1015のナンバープレートが掛かっている部屋で止まると黒いドアのモニターに先ほどと同じ作業をした。ドアは音もなく開き二人が部屋の中に入ると音もなく閉まった。
「さあどうぞ、お座りになって」この部屋の主人はリビングのソファーに男子高校生を誘った。水樹晶は言われるままにワインレッドのソファーに腰を下ろした。
「何か飲む? 晶君」
「あの、アイスコーヒーがあればブラックで」
「OK」河合友子は灰色の冷蔵庫からブラックコーヒーの入ったペットボトルを取り出した。それからクリーム色のキャビネットからグラスを取り出して、それに氷を5個入れてブラックコーヒーを注いだ。彼女は紙製のサイケデリックなコースターをソファーの前にある透明なテーブルに置いて、それからグラスを置いた。
「ありがとうございます」水樹晶は低い声で礼を言った。それから河合友子は缶ビールを冷蔵庫から取り出した。彼女は水樹晶の前に置いてある同じコースターを透明なテーブルに置き缶ビールを置いた。そして招き入れた客の右傍に座った。
「いただきましょうか? カンパーイ」河合友子は缶ビールのステイオンタブを引きそれを右手で高く掲げた。紅い唇を缶ビールにつけて「うぐうぐうぐと」いう音を発しながら小麦色の液体を体内に流し込んだ。男子高校生は冷ややかな目で隣の女の仕草を見ていた。
「あーっ美味しい。さあ晶君、何を訊きたいのかな?」河合友子はそう言いながらブラウスのボタンを上から2個外した。彼女のピンクのブラジャーが見え胸の谷間も見えた。水樹晶は豊かな胸を見て隣の女の紅潮した顔を見た。
「モスクワの様子が知りたいです」水樹晶は無表情のまま口を開いた。
「そうねえ、あそこの人たちはシベリアの方に行ったと私は思う」
「はっ?」
「私がモスクワに行ったのはかなり前の話だけど、もうほとんど人はいなかった。当然行政機能は崩壊していたというより行政機関そのものが無くなっていたの。赤の広場も砂漠の中の廃墟みたいだった。もちろん砂漠なんてないけどね。レーニンは今の状況をどう思っているのかしら? 社会主義体制が発展していれば、もしかしたら世界は違った様相になっていたかもしれないって思ったわ。クレムリンを見ながら」
「ロシア革命後のソ連のことですか?」文学青年は意外な顔をした。
「そうねえ。晶君、ロシアの人たちって強くて冷たいイメージがあったけど、実はとても激情家だと思わない?」
「ええ、そうですね」晶は『カラマーゾフの兄弟』の長兄ミーチャを思い起こした。
「ロシア革命の時、レーニン達革命の遂行者は自分達のやっていることが楽しくって仕方がないということ聞いたわ。その革命の象徴がモスクワという街かもしれない」
「・・・・・・」水樹晶はじっと河合友子を見ていた。
「でも二〇世紀最大の実験は失敗に終わった。そしてロシアという国は徐々に冷えていく」
「じゅあ、ロシアはクラッシュ前に、既に終末に向かって行ったということですか?」
「さあ、それは分からないわ」河合友子は笑いながら左手で男子高校生の右の頬に触れた。
「冷たい頬ねえ」水樹晶は何も言わず河合友子を見続けていた。
「閑散とした赤の広場に佇んでいると中年の男が英語で声をかけてきた。あなたは中国人ですかってね。いいえ、私は日本人と答えると彼はじっと私を見て訊いてきた。日本はこの国よりはましだろうってね。確かにロシアよりは元気はありますと答えたように覚えている」
河合友子はビールを一口飲んだ。
「その中年の男は言ったわ。みんな東へ、シベリアの方へ行ったのだろうと」
「シベリアですか?」
「既に永久凍土は溶けしまって気温もかなり上がっていた。シベリアも寒くはなくなっていた。晶君、ロシアという国は大地そのものなのよ。そしてシベリアの大地に母なる神はいるとみんな思っていた」
「シベリアが壊れてモスクワという街の機能が失われたということですか?」
「その可能性はあると思う。ねえ晶君、人間は精神的な背骨が打ち砕かれれば意外と脆い生き物かもしれないわよ」
「河合さん、あなたは楽しそうですね?」
「そうかしら」
「あなたはおそらく消滅しつつある街をかなり見てきたのでしょう? それでよく平衡を保っていられますね」水樹晶は眉間に深い皺を寄せた。
「他の人よりはちょっとは多く見てきたかな。あなたの言うとおり、あちらこちら行くことはなかなか大変よ。体と心のメンテナンスを常にしていないとね。いろんなものを入れたりそれを補修したりチェックしたり。でも私もあなたと同じよ。魂が求めるもの、それがあれば何とか生きていくことができるのではないかしら、ふふふっ」河合友子は先の割れた紅い舌を水樹晶の右の頬にくすぐるように這わせた。彼女の右手は小柄な少年の勃起したペニスを学生ズボンの上から握っていた。
(どうして最近僕に関わる女は僕のペニスばから触りたがるのか?)水樹晶はゆっくりと顔を隣の女の方に向けた。その瞳はガラス玉のように何の表情も持たなかった。
「ふふふっ、晶君、素敵な目をしているのね」豊かな体の女は右手をペニスから離し少年の傍から離れた。
「あなたは本当に玲ちゃんを求めているのかもしれない」彼女はそう言うとブラウスの外したボタンを留めた。
「河合さん、僕はさっき座っていたベンチに戻ります」水樹晶はソファーに置いてある黒いデイバッグを取り上げて、それを背中に背負った。
「あら、もう行くの。分かったわ。玲ちゃんにあなたが待っていること、知らせましょうか?」
「いえ、それはいいいです」
「ふふ、そう。じゃあエレベーターまで送るわ」
河合友子は水樹晶の左腕に両腕を絡ませて楽しいそうに10階の通路を歩いた。彼女はエレベーター前の白いドアを開け、エレベーターの10階のボタンを押した。
「晶君、あなた、なかなかイイ感じになったじゃない」河合友子は軽く男子高校生の左頬にキスした。エレベーターに乗り込んだ少年の姿が見えなくなると、彼女は先ほどと同じ作業をして白いドアを開けた。それから自分の部屋に向かって歩き始めた。




