高梨家訪問の約束
「オー、この部屋が文芸部の部室デスカァ」入口の引き戸を背にしてハーバートは両手を大きく広げ周囲をキョロキョロ見回した。
「私もここに時々来るけど、改めてこの部室を見ると紙の本が多いわね」美冬は部屋の奥に向かって左側本棚に並べられている様々な書籍を見ている。
「ところで話変わるけど最近自習が多過ぎると思わない? 先生たち、怠慢だわ!」木目が浮かんでいるテーブルを前にして華は口を尖らせた。
「そうですね。何か学校全体に係る問題があったのかもしれません」華の左隣に立っている尊は腕を組んで考えていた。
「あー、なるほど。そうかぁ、そういうこともあるかもね、さすが尊君」
「学校全体が落ち着いていない雰囲気です」
「そうそう、私もそんな気がする。それとは関係ないかもしれないけど、何か私の周囲が突然賑やかになったような感じもするんだ」
華は尊と同じように腕を組んで考える仕草をした。
「アーッ、それは僕がこの高校に転入したからでしょうネ。僕のパワーがこの城北高校に嵐を呼び起こしたのデスゥ」ハーバートは両腕を上げて天を支えるポーズをした。
「ハイハイ、確かにハーバートが来てから私の周囲は賑やかになりました、と言うかうるさくなりました!」
「オー、宮森サーン、昨日のこと、まだ根に持っているのデスカ?」
「えっ、いや、別にそんなことはないわ」華は一瞬、尊を見た。尊の黒い瞳も華を見ていた。
「ところで今日もまた水樹君いなくなっちゃったわね、宮森さん」美冬は本棚から目を離し華の方を向いた。
「うーん、確か一時限目はいたと思うけど、それから先はいなくなった」
「昨日の夕方、水樹君に会ったわ。中岡先生と一緒だったの。今日もひょっとして休憩室で休んでいたのかも?」
「あーっそっかぁ、晶は時々ボーッとして意識が飛んで私がよく休憩室に連れていっていたし。昨日も休憩室で眠っていたし」
「そういえば中岡先生、午後の最初の授業、自習にしましたよ。もしかしたら副部長が休憩室で休んでいたかもしれませんね」
「うーん、でも一人の生徒のために自習にするのかな?」華は尊を見て小首を傾げた。
「宮森さん、中岡先生の授業はビデオ見せるだけだから、自習にしてもあまり変わりはないと思いません?」
「あ、あっ、そうだね。渡辺さん意外とハッキリ言うんだ。確かにやる気のある教師ってほとんどいない・・・」華は美冬を見た。美冬の右の瞳が紫に輝いているように見えた。
「私の勝手な憶測だけど中岡先生は他の先生と少し違うような気がするの。歴史の授業はあまり熱心じゃないけど養護の先生としては凄く優秀な印象がある。彼女は歴史の授業中、私たち生徒を深く観察しているように見える。教員として生徒を見ているのではなく、違った立場で」
「ふーん、美冬はそんなふうに人を・・・、あ、ごめん渡辺さん」
「フフフッ、いいよ、美冬で」
「あっ、じゃあ私も華って呼んでよ」
「じゃあ、僕もハーナァって呼びますネーッ。そしてハーバートではなくてエリックでOKデース」
「あなたはダメです! ハーバートッ!」華はハーバートに向かって憎々しいしかめっ面をした。
「オーノー」とハーバートは大げさに頭を抱えた。
「華・・・、そんな顔していいの?」美冬はこみ上げてくる笑いをこらえながら言った。
「エッ?」 華は反射的に左を見ると尊も照れながら笑いをかみ殺していた。華は頭に血が上るのを実感した。自分の顔が真っ赤に染まっていることも分かった。
「エッ、えっとぉ、アレ、あれよ、尊っ、君・・・」華は何を言っているのか全く分からなくなった。恥ずかしくて一年後輩の顔を見ることが出来ないことだけは確かだった。
「それで中岡先生のことですよね」尊は軽く咳をして話を続けた。
「彼女は水樹副部長のことが気になっている、養護教員としてではなく、一個人として気になっているということですか、渡辺さん」
「ええ、そう。最近水樹君は以前とは変わってきたと思わない? 華」
「あっ、うん、そうなんだ。晶はまるで私のことなんか、どうでもいいって感じで。失礼しちゃうわ、もう」華は少しだけ口を尖らせた。
「しかし副部長がそんな状態だと、あまり部活動に参加しそうにないですね」
「そうよ。晶がカフカの『審判』読んでみんなで書評しようって言いだしたのに」
「フランツ・カフカ。『審判』ですネーッ。僕も読みましたヨ。面白いですネーッ」
「ハーバート、本当?」華は訝し気に訊いた。
「イエス、ホント―です。信じてくだサーイ」
「宮森部長、エリックは意外と読書家です。僕の家で日本語訳の本をかなり読んでいますよ」
「えっ、そうなの」
「チッチッチ、人は見かけによらないデース。ハーナァさん」ハーバートは華に右の人差し指を向けて軽く左右に振った。
「ハーバート君、君が読書家だってことは信じるわ、尊君がそう言ったから。だけど私のことハーナァさんって安易に呼ばないでほしいな」華は少し困った顔をした。
「オー、何故デスか?」
「うーん、よく分かんないけど、何か嫌だ。あっ、君が嫌いとかじゃないんだよ。ハーバートと一緒だと賑やかで楽しいし、仲良くしたいって思うし」
「ハーバート、華にとって男の人から華って呼ばれることは、特別なことだと思うの。ほとんどの女性もそうだと思う。それから私と華との関係とはまた違った意味を持つもの。だから分かってあげて」
「イエス、イエス・・・、分かりまシタァ。今度からちゃんと宮森サーンと呼びマス」
「ハーバート、ごめんね。私、名前だけはこだわりがあるんだ、昔から。何故だろう・・・・・・」しばらく誰も何も言わなかった。
「そういえば以前、何回か副部長が僕の家に来て、本を借りて帰ったことがあります」
「オー、スルジャの家に来るとは。その副部長さん、水樹君は面白いデース」
華は晶が一人で尊の家を訪れていたことに驚いた。(でも文芸部員同士だから、そんなこともあるのかな。ハーバートは晶を面白いって・・・。彼は何言っているのだろう?)
「尊君の家にはハードカバーの本とか全集とかいろいろあるのかな?」華は自分の心臓の鼓動が明確に聴こえていた。
「ええ、父が道楽で集めていたみたいです。世界名作文学全集とか西洋史、日本史、イスラム史、東南アジア史、アフリカ史、日本古典文学全集、五経・論語、史記、ギリシア神話、旧約聖書、西洋美術史、世界の民話集、フランス思想史。それから個別にドストエフスキー、チェーホフ、シェイクスピア、マルクス、ジョイス、カフカ、プルースト、レヴィナス、夏目漱石、宮沢賢治、村上春樹たちの作品を収集しています」
「すごーい! うちの図書室より全然凄い。いいなぁ」華はある言葉が喉まで出かかっていた。
「じゃあ、今度の土曜日、二日後に僕の家に来ませんか? 部長の気に入る作品もあると思いますよ」
「エッ!いいの? うーん、でもいきなり尊君の家に私一人だけが行くっているのも、何か失礼なような気がする」華の返答は自分の予期しないものだった。
「じゃあ、私も一緒に行っていいですか、高梨君。高梨君のお家はとても大きくて立派でしょう。家の人も結構いるんじゃないかな? 私、そんなお屋敷を一度見てみたかったの」
美冬はチラッと華を見た。
「立派かどうかは怪しいですが・・・。かなり広いので家を管理するために働いてもらっている人は数名します。それからエリックや知人の息子も暮らしているので、確かに渡辺さんの言った通り一般的な家庭よりは多いでしょう」
「そういうお家に女の子一人ではなかなか行けないと思うの。だから私と華、二人でお邪魔していいかな?」
「もちろん、歓迎します。もし良かったら副部長にも声をかけられたらどうでしょう? 以前も僕の家に来て楽しそうでしたし」
「あっ、そうね。もし晶が来たらカフカの書評の話もできるかも。あっ! でもそうしたら美冬が困っちゃう」華は申し訳なさそうに美冬をみた。
「宮森サーン、水樹クン来るかどうかわかりませーン。もし彼が来てブンゲーブ三人がお話するなら、僕が渡辺さんをエスコートしマスゥ。ダイジョーブ、デース」
「それか一番心配なのよ。あなた、美冬に変なこと言わない?」華はニコニコ笑っているアメリカ人に疑いの眼差しを向けた。
「オー! それならダイジョーブ、デース」
「なぜ?」華はなおも厳しい目を向けていた。
「宮森サーン以外の人には変なコト、言いまセーン」
「どういうこと! エリック・ハーバート!」
「オー、ゴメンナサーイ、アメリカンジョークですゥ」
「もうーっ、それってアメリカンジョークじゃないでしょ!」華は赤い頬を膨らませてハーバートを上目遣いで睨んだ。しかし尊の視線に気づき、文芸部長は慌てて平静を装ったが頬はピンクに染まっていた。




