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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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黒いリラックスチェア

「中岡先生、中岡先生」

 耳障りな声がする。中岡美奈子は首を振り、声のする方を左手で払った。

「中岡先生、大丈夫ですか?」

 その声は自分を心配している声だと分かり養護教員は重たい瞼を開けた。鬱陶しい前髪が左目を隠し垂れた右目は濁っている。丸く大きな鼻と不似合いなこけた頬、それに分厚い唇がもごもご動いている。

「白石先生?」中岡教諭は周囲を見渡した。自分が休憩室でベッドにもたれかかって寝ていたという状況を把握するのに十秒かかった。体は熱がこもっているようで喉が渇いている。彼女は立ち上がろうとしたが大きくふらついた。倒れそうになる細い体を白石教諭が両手で支えた。

「すみません」そう言いながら中岡美奈子はベッドに腰をおろした。

「中岡先生、何か飲まれますか?」白石新次郎はそう言いながら冷蔵庫から水の入ったペットボトルを持ってきた。

「ありがとうございます。いただきます」中岡美奈子はいつもの白石教諭とは思えない配慮のあるスムーズな動きに驚いた。冷たい水を体内に流し込むと火照った体が冷えて意識がはっきりした。

「あっ、今、何時ですか? 白石先生」中岡教諭は言った後に自分の腕時計を見た。午後一時十五分だった。

「大丈夫です、中岡先生。中岡先生の午後からの授業は2―Aでしたね。僕が自習になったということで連絡済みです」

「あ、あっ、そうですか。それはどうも・・・、ありがとうございます」中岡美奈子は右隣に座っている同僚に頭を下げた。

「少し回復されたようですが、中岡先生。大丈夫ですか? まだベッドで休まれたほうがいいのでは?」

「いえ、もう大丈夫です。最近ちょっと忙しくて睡眠不足だったので」

「そうですか」いつも騒がしい同僚はそれだけ言った。

「それじゃあ、僕はとりあえず失礼します。中岡先生、無理しないでお体を大切にしてください。もし体がすぐれないのならば、有給休暇をとって早退されてもいいと思いますよ」

 白石教諭が立ち上がろうとすると、その左手を中岡美奈子の両手が握った。

「あの、白石先生。もし良かったら、もう少しここに居てくれませんか? 私、あなたに聞いてもらいたい話があるのです」白石新次郎はいつも感情を表さない同僚のすがるような眼差しに驚いた。

「分かりました」白石新次郎は改めてベッドに腰をおろした。

「白石先生、昨日の夕方のことを覚えておられますよね。私と水樹君と渡辺美冬さんと三人が3―B教室に彼らのカバンとかを取りに行った時のことを」

「ええ、もちろん覚えています」白石教諭は大きく頷いた。

「その時、白石先生、おっしゃいましたよね。『今もう六時半過ぎていますようねぇ。まだ空がこんなに明るいです』って」

「そうですね。確かそんなこと言っていたような。美奈子先生、僕の言葉を正確に覚えてくれているのですねぇ。嬉しいなあ」中岡美奈子は白石新次郎の笑顔に不自然さを感じた。

「その光景は重たい雲がぼんやりと白く輝いて、そのことで私たちの周囲が明るかった・・・そうだったですね?」

「フーン・・・」

「それから白っぽく輝いていた雲が突然いつもの黒っぽい雲になって、辺りは急に夜になってしまったでしょ?」中岡美奈子はじぶんの言葉に力がこもっていないように感じ始めていた。

「うーん、中岡先生。そんな変なことありましたか? 少し明るかった空にはビックリしたけど、徐々に暗くなっただけでしょ」

「エッ! だって突然暗くなって白石先生、『エッ!』と叫んで驚かれていたでしょう?」

「そんなことなかったですよ。美奈子先生疲れているんですよ。大丈夫ですか? ストレスが溜まっているんじゃないですか?」物理の担当教諭は呆れた表情を見せた。

「そんな・・・いきなりドン! と闇が落ちてきたみたいな凄い変化でしたよ」中岡美奈子は怒気を込めて隣の同僚を睨んだ。

「まあまあ、そんなことはどうでもいい話じゃないですか。美奈子先生、あなた、今まで眠っていたので夢でも見ていたのでしょう。それよりも美奈子先生、今日のファッションはとても素敵ですねーっ。いつもあなたはそのセクシィな魅力を隠していますが、今日はセックスアピール全開です。どうしたのかなぁ」中岡美奈子の左肩に無遠慮な男の左手が回ってきた。

「白石先生、私、もう十分元気になりましたので、出で行ってもらえますか。私も仕事がありますから」

「まあまあ美奈子先生。美奈子先生は精神的に非常に疲れているんですよ。どうですか、今夜私と飲みに行きませんか。心の疲れを癒してあげますよ、僕は職員のメンタルヘルス担当ですからねぇ。そして二人で楽しい夜を過ごしましょう」男は女の左肩に回している手に力をこめた。

「バシッ!」中岡美奈子の左掌がにやけた男の右頬を激しく打った。

「あれっ? 中岡先生。どうしました?」白石教諭は右頬を押さえながら呆然と座っていた。

 養護教諭は同僚の右手を引っ張り立ち上がらせた。

「白石先生、私はここで仕事があるので、さあ早く出て行ってください! さあ早く!」

 右頬を押さえながら長身長髪の男は休憩室から追い出された。

「ハアハアハア・・・フーッ」

 ソファーに体を投げ出した養護教諭の荒い息づかいはしばらく続いた。二分を過ぎると彼女の呼吸は静かになっていた。

「ようやく落ち着いたようですね」黒いリラックスチェアから水樹晶の楽しそうな声が聞こえた。

「水樹君」薄緑色のソファーで横になっていた養護教諭は慌てて体を起こした。

「あなた、いつからそこにいたの?」

「さあーっ?」リラックスチェアが半周回転した。水樹晶は足を組み右手にはコーヒーが入った蒼い格子模様のマグカップがあった。彼は美味しそうにコーヒーを飲んだ。

「やっぱり、中岡先生の淹れてくれたコーヒーは美味しいです」

「私が・・・? あなたにコーヒーを淹れたの?」中岡美奈子は呆然としながらもそう言った。

「ええ、そうですよ。僕がぼんやりと寝てばかりいるから気付け薬にコーヒーを淹れましょう、と言ってくれたじゃないですか」

「私が・・・・・・」中岡美奈子は頭痛がしてきた。

「先生の淹れてくれたコーヒーはとても美味しい。校内にあるカフェのコーヒーはとてつもなく不味い。あれは飲めたもんじゃない。オレンジ色の変なバンダナをしている、うるさい店員が適当に淹れたもので、あれでお金をとるとは信じられないですね。色は一応コーヒーの色だが中身は不味い水でスカスカ。よくあれだけ不味いコーヒーを淹れられると感心しますね。芸術的な不味さだ。まだインスタントコーヒーの方が一万倍もましだ。何故あのカフェが営業を続けていられるのでしょうねぇ、中岡先生?」

「そうね・・・」

「でも僕はどうしてあんな不味いコーヒーを出すカフェに何回も行ったのかな? フム、謎だ。先生、どうしてだと思います?」

「宮森さんと・・・一緒だったからじゃない」彼女の頭痛はさらにひどくなってきた。

「宮森さん? 誰だろう? その人は」水樹晶は低い声で呟いた。

 中岡美奈子は激しい頭痛とともに眩暈に襲われた。目を閉じていても周囲が速く回転し前後も大きく揺れて、胃が締め付けられるような吐き気がしてきた。ソファーに倒れこみ動くことができなくなった。

 水樹晶は相変わらず何かにとりつかれたように喋っている。

「もう一人の・・・店員・・・・・・まし・・・・・・」

「白・・・馬鹿・・・・・・」

「なかお・・・・・・いっし・・・・・・かも・・・・・・」

 水樹晶の声が途切れ途切れに中岡美奈子の耳に届いたが、その声も徐々に小さくなった。そしていきなり甲高い笑い声が聞こえた。その瞬間、養護教諭は意識を失った。

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