この世界の流れに無頓着な人間
水樹晶と中岡美奈子は休憩室から出て教室のある隣の建物に向かった。二人が一階の階段を上がろうとしたとき反対側から渡辺美冬が小走りで近づいてきた。
「中岡先生、3―B教室に行くのですか?」
「そうだけど」
「良かった。もしかしたら鍵が掛かってしまったかもと思って。私、教室にタブレットを忘れてしまって、取りに行こうと思っていたところです」
水樹晶を前に中岡教諭と渡辺美冬は並んで階段を上がっていった。
「水樹君、休憩室で休んでいたの? 宮森さんが探していたわよ」二階から三階にいく途中の踊り場で水樹晶は立ち止まり、渡辺美冬を見た。
「宮森さん?」水樹晶は不思議そうにショートカットの同級生を見た。
「どうしたの、水樹君」美冬の色の違う瞳が探るような光を放った。
「渡辺さん、水樹君は疲れていて先ほどまで眠っていたのよ。だからまだ頭がボーッとしているんじゃない?」中岡教諭はそう言いながら美冬の顔を正視した。(この子、オッドアイだったのね、面白い)養護教諭は胸の中で呟いた。
「そうなの、水樹君、大丈夫?」
「ああ・・・」美冬は水樹晶の声に違和感を覚えた。
三人が三階に上がったとき白石教諭が3―Bのドアを施錠するところだった。
「白石先生、待ってください」
「ん?」長身長髪の物理の教師は三人を見た。
「この二人、まだ教室に荷物があるので」
「あっ、ハイハイ!」白石教諭は嬉しそうに答えた。
水樹晶と美冬がそれぞれの荷物を持って出てきた。
「渡辺さん、君は何を忘れたのかい?」白石教諭はなおも嬉しそうに訊いた。
「タブレットです、電子図書用の。白石先生が演劇部だったらシェイクスピアを読みなさいって仰っていたでしょう」
「うん、演劇をするのであればシェイクスピアを読まねばイカン!」
「アラッ、白石先生は文芸部の顧問じゃなかったですか?」同僚の女性教師が訊いた。
「中岡先生、演劇はやはり文学を前提として成り立っていると僕は考えています。やはり演劇を志す者であれば、シェイクスピアを読まなければ始まらないと思いますよ。中岡先生、あなたならお分かりかと思いますが」
「フーン、そうですか」白衣を着た歴史教師はイエスともノーともとれる返答をした。
「僕、帰ります」水樹晶は呟くように言って階段に向かって歩き出した。
「おーい、水樹君。宮森部長がたまには部室に顔を出してほしいって言っていたぞ」
水樹晶はその声に応えずに階段を下りていった。
「彼は最近ちょっと変ですよね。そう思いません、中岡先生?」
「さぁー」中岡教諭は同僚を見つめながら右の口角を少しだけ上げた。
「以前はもう少し授業に集中していたというか。近頃はボーッとしている時間が多くて僕はとても心配です、はい! もうホントに心配だぁ」
「白石先生、水樹君はさっきまで休憩室で休んでいましたよ」美冬は少し呆れながら言った。
「エッ、本当ですか、中岡先生? んっ? 渡辺さん、君の目はどうした? 右と左の目の色が違うぞ」
「白石先生、そういう言い方をすると女子生徒から嫌われますよ」
「エッエッ・・・そうですか?」長身の男性教師は慌てて同僚と教え子を交互に見た。
「中岡先生、いいです。私はもう白石先生はデリカシーがないってこと分かっていますし。それに白石先生の無遠慮な言い方はある意味とても貴重だと思っています」渡辺美冬は中岡教諭に向かってニコッと笑った。
「そう、偉いわねぇ、あなた」
「いえいえ、そんなことないです」美冬は小さく首を振ると艶やかな茶色の髪も小さく揺れた。
「それじゃあ私もデリカシーのない質問するけどいいかしら?」
「はい」
「あなたのオッドアイ、これまでカラーコンタクトで隠していたのかしら?」
「ええ、そうです。左目、銀色のほうにカラーコンタクトをつけて右目の色に合わせていました。中岡先生、私はオッドアイ自体をそれほど気にしてはいないのです。ただ何かオッドアイで人と接するのが、自分にとって良くないことのようにこれまで感じてきたのです」
「それでカラーコンタクトをつけていたのね」
「はい」美冬は静かに頷いた。
「でも昨日の朝、学校に行く前にカラーコンタクトをつけて鏡を見たら・・・、何故かとても違和感を覚えました、自分の顔に」
「そうかぁー? カラーコンタクトをつけた顔よりつけてない方が素の顔だから、それが当たり前だろ」
「白石先生、シッ!」中岡美奈子は右手人差し指を立てて唇に当て、冷めた視線を男性教師に送った。冷たい眼差しで睨まれた白石教諭は「すみません、すみません」とペコペコ頭を下げて謝った。
「ごめんなさいね、渡辺さん。それで昨日の朝からカラーコンタクトをつけずに過ごしているのね」
「はい、オッドアイの自分の顔を鏡で見たら違和感は全くなかったです。それにオッドアイで見る景色も自然な感じがしました」
「そう、それは良かった。ごめんなさいね、いろいろ訊いて。養護教員だから生徒の変化が気になるの」
「いえ、そんな。私はこの目のこと、気にしていませんし」
「おう! 僕もそっちの顔の方が素敵だと思うぞ。渡辺さん、自信を持て!」
「白石先生、そういうことではないのよ」養護教諭は呆れて物理担当教師を見上げた。
「中岡先生、いいですよ。それが白石新次郎先生ですから」渡辺美冬は諦めたように笑った。
白石新次郎は女性たちの会話の意味が分からずに首を捻った。そして空を見上げた。
「中岡先生、今もう六時半過ぎていますようねぇ。」白石教諭は低い声で訊いた。
「ええ、今は六時三十五分だけど」
「まだ空がこんなに明るいです」
中岡美奈子は空を覆っている雲が仄かに発光している光景に目を奪われた。
(水樹晶は幼虫から蛹へ。渡辺美冬の左の瞳は銀色だった。世界を覆っている雲が発光している・・・・・・ふーん)彼女は呆然と空を見上げている白石新次郎を横目で観察した。
(これほどに、この世界の流れに無頓着な人間が存在するとは? ただの馬鹿なのか? それとも何か意味でもあるのか? 分からない、分からないわ)
「あっ!」美冬の小さな叫びが氷の矢のように中岡美奈子の胸に突き刺さった。
「えっ?」白石新次郎は不思議そうに美冬を見た。
仄かに発光していた分厚い雲は一瞬にして黒に近い灰色に変わった。そして辺りは闇に包まれた。数秒後、街灯の弱い灯りが点いた。それから高層マンションの部屋の灯りが浮かび上がった。それらはいつもと変わらない風景だった。
(今、時間がずれた? まさか。それとも時間が飛んだの? 私たちは、この世界は、いったい何処に向かっているのだろう・・・・・・)中岡美奈子は自分の胸の奥から、恐怖と不安と僅かな好奇心が滲み出ていることを感じた。そして誘われるように左に佇んでいる渡辺美冬を見た。渡辺美冬はまだ漆黒の空を見上げていた。彼女の二つの瞳は冬の星を宿しているように銀色と紫に美しく輝いていた。




