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黒い鳥の世界  作者: 西野了
32/93

休憩室で水樹晶が考えたこと

 三時限目、物理の授業が午前十一時四十五分に終わった。鶯色のスーツを着こなした白石新次郎教諭が教室を足早に出て行った。

 水樹晶は疲れていた。体の中に不純物が溜まっている感覚があった。昨夜は眠りが浅く、そのためか様々な夢を見た。大きな爬虫類に襲われる夢。(あれは鰐という動物だったのか? 巨大で長い口に鋭い歯。その恐ろしい口が迫って僕の体を食いちぎろうとした。鰐に襲われたと思ったら狭くて暗い洞窟に腹ばいになって進んでいた。出口の光が見えたような。あれ、鰐という動物も絶滅したのだろうか? それから・・・)彼は前方の白いスクリーンも黒板も見ることなく、右肘を机についてその右手に顔をのせて左方向をぼんやりと眺めていた。窓の外は灰色の重い雲と灰色の海が見えるだけだった。

(僕はいつもの同じ道を歩いている。駅から離れた宿泊施設に行くとクラスの奴らが待っていて、今から劇の発表をするから早く準備をしろと言われた。僕は劇の練習をしていない。いつの間にか広い畳の部屋に布団がたくさん敷かれている。僕が眠ろうとすると誰かが僕の布団に入っている。誰だったか?)彼にとって、その夢は悪くなかった。

(山道を歩いている。俺の家から自動車で30分以上かかるのに・・・。近道をしようと思って小道に入ると急に辺りは暗くなって変な生き物が寄ってきた。汚い犬のような獣が口から涎を垂れて俺の周りをうろついている。ピョンピョン跳ねて尻尾はフワフワして犬じゃない。アルミのような人工的な目をして笑っている。いや真っ黒な目だったか。目は空洞だったかもしれない。いきなりそいつが襲ってきて、俺は目覚めてしまった。嫌な汗が体じゅうから吹き出た。それから村上玲さんをナイフで脅して彼女を連れ出そうとしたことを思い出した。村上さんの手は小さくて冷たかった。あの時、彼女は全く抵抗しなかった。僕の顔を悲しい瞳でじっと見ていた。そのあと僕は米袋が山積みになったキャリーに吹っ飛ばされた。空中から真っ黒いものが目の前に迫ってきて視界が塞がり濁った音がした)

 3―Bクラスの人間は昼食をとっていた。水樹晶は全く食欲がなかった。弁当や他の食品の匂いを嗅ぐことも嫌だった。彼は教室を出て階段を下り一階の通路に出た。そして休憩室のある建物を目指して歩いた。休憩室のドアの前に着くとため息が出た。それから彼は木製のドアを軽く叩いた。

「どうぞ」部屋の中から乾いた声が聞こえてきた。

 黒いリラックスチェアに座っていた中岡美奈子はクルリと椅子を回転させて、入ってきた水樹晶を見た。

「水樹君、どうしたの?」養護教諭は無表情で訊いた。

「中岡先生・・・疲れているのでベッドで休ませてください」水樹晶は力なく答えた。

「じゃあ、ソファーに座って。体温と血圧測るから」

 中岡教諭はソファーに端に座った水樹晶の額に円筒形の体温計をかざした。「体温は異常ありません、三十六度二分です」と体温計は人の声で報告した。それから黒い学生服と白いカッターシャツを脱いだ水樹晶の左腕に血圧計のマンシェットを巻いた。

「上が117、下が80。問題なしと。ところで今日は宮森さんと一緒じゃないのね」

「・・・・・・」

「ふーん、まあいいや。ベッドは空いているので、ゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます。・・・先生、僕は宮森さんという人と一緒に休憩室に来ていたのですか?」

「一緒というよりは彼女に引っぱられて来た感じね。宮森さんが『先生、晶がボーッとして何言っても反応しないの。大丈夫かな?』と心配してね」

「・・・・・・」

「記憶にない?」中岡美奈子は冷たく微笑んだ。

「はい・・・」

「毎回そのパターン。あなたは目が虚ろでバイタルは問題なかったけど、こちらの呼びかけに無反応だった。しばらくすると覚醒するけど」

「そうですか」

「宮森さんだから、あなたをほっとけなかったのでしょう。守らなければいけないと思っていたのよ」

「僕を? どうして」

「さあーっ?」中岡教諭は少しだけ首を傾げた。

「それよりも、あなた、疲れているのでしょ。早くベッドで横になりなさい」

 水樹晶は頷いて部屋の壁にかかっている黒いプラスチックのハンガーをとった。それをソファーに置くと黒い学生ズボンを脱いだ。彼のボクサーパンツは異様に盛り上がっていた。彼はハンガーに学生ズボンを通しカッターシャツをかけ学生服をかけた。そのハンガーをパーテーションの上のフレームに引っ掛けた。それからおもむろに黒い靴下を脱いで、ソファーの隅に置いた。

 中岡教諭は目の前に男子生徒の一連の動きを面白そうに眺めていた。相変わらず痩せて貧弱な体だったが、一か所だけいつもと違っていた。

「水樹君、あなた本当に疲れているの?」中岡美奈子は水樹晶の勃起した下腹部を見て言った。

「ええ、僕はとても疲れています」水樹晶は養護教諭の視線を気にすることもなく答えた。そしてパーテーションをずらしベッドに腰をおろし、再びパーテーションをもとの位置にもどした。それから羽毛布団をめくって横になり羽毛布団を肩までかけた。

 養護教諭がパーテーションの隙間から中の様子を伺うと、既に水樹晶は静かに眠っていた。

「悪くないわ」彼女は自分の黒い椅子に座るとそう呟いた。そして自分の言葉が湿っていることに気づいた。

 ドアの向こうから低く芯のある声とおかしなイントネーションの声が聞こえてきた。



 水樹晶は真っ白い部屋の中にいた。白い部屋には机も椅子もテーブルも何もなかった。ただぼんやりとした白い光が辺りを包んでいた。彼はいつもその部屋に留まっていた。そこにはもう一人の人間がいた。もう一人のその人間―ポニーテールの少女は白いドアに向かって歩き出しドアノブを右手で持った。彼女がゆっくりとドアを開けると目もくらむばかりの光が入ってきた。少女は振り返り何か言ったようだったが水樹晶は何も聞きとれなかった。その激しい光の中に溶け込むように少女は消えて行った。ドアが小さな音をたてて閉まった。部屋の中は相変わらず曖昧な光が満ちていた。彼はその空間が嫌いになった。ここは自分の求めている場所ではないと感じた。すると徐々に周囲の光の量が減っていった。薄暗い部屋に灰色の肘掛け椅子があった。その肘掛け椅子は左側の肘掛けの部分がなかった。彼はその椅子に座った。弾力性があり自分の体にフィットしている。上等な椅子だ。よく見るとそれはL字型のソファーの一部だった。その肘掛け部分の片方が欠けている椅子だけがソファーから分離している。彼は考えていた。何かを考えていた。とても大切なことだ。深く深く考えるのだ。頭の何処からかそんな声が聞こえてきた。ここに留まりずっと何かを考え続けるのだ。彼は目を閉じ、右肘を肘掛けにのせて思考の海に沈んでいた。

「晶・・・・・・」

 彼を呼ぶ声が聴こえた。だが彼はその部屋を出て行くことはできなかった。



 水樹晶は重い瞼を開けた。ぼんやりとした白い天井が見える。眠ったせいか体が軽くなったように感じる。だがまだこのまま休んでいたいと彼は思った。

(静かだ。そして何も動いていない。時間すらも動いていない。動いているのは自分の脳だけで、それ以外は何も動いていない。時間なんてものは人々が勝手に作り出した幻想ではないのか? 一人ひとりが自分の世界で動いているだけじゃないのか。多くの動物や昆虫、植物も死に絶えた。石や岩、コンクリートや金属さえも分子崩壊に向かっているだけだろう?)彼は規則正しく呼吸を繰り返していた。(生きていることは死に向かっていることだ。間違いない。正しい。絶対正しい。僕は死ぬために生きている。じゃあ何故生きている。僕は終わりに向かって歩いている。世界も終わりに向かって進んでいる。やがて生きているものはいなくなり、分子崩壊した無機物だけが存在するのか? それが世界の正しいあり方なのか? わからない。そんなことは僕には関係のないことじゃないのか。僕はあの時、街にもどらずに荒野を彷徨って何処かで野垂れ死にしたほうが良かったのかもしれない。でもこの街でやりたいことがあった? 求めるものが存在した? 僕は色褪せたこの街が好きなのだろうか?)

 ドアが開いた音がした。それはとても大きな音のように響いた。それでも水樹晶は天井を見続けていた。

「水樹君、入っていいかしら?」パーテーションの外から中岡教諭のクールな声がした。

「はい」水樹晶は同じ姿勢のまま答えた。

「どう、よく眠れた?」

「たぶん・・・。でもいろんな夢も見たような気がします」

「そう・・・。水樹君、五時三〇分になったわよ。一応帰宅時刻だから」

 水樹晶は起き上がり、左の枕元に置いてあった銀色の腕時計を左腕にはめた。そして腕時計が五時三十五分を示していることを確認した。

「あなた、疲れが取れていないのならば、まだここで休んでいてもいいのよ」

「ありがとうございます。でも、もう帰ります」水樹晶は立ち上がるとパーテーションをずらし、服のかかったハンガーをとって、それをソファーに置いた。中岡美奈子は彼の動きを目で追いながら、その男子高校生がまだ勃起していることを確認した。

「水樹君、あなた、どうしちゃったの?」

「えっ?」水樹晶は片足立ちで靴下を履く途中だった。彼は右の靴下を履き終えて真っ直ぐ仲岡教諭を見た。

「どういうことですか?」

「こういうことよ」養護教諭は男子高校生に顔がつくほどに迫った。そして右手でボクサーパンツ越しに勃起したペニスを掴んだ。

「あなた、何かあったの? なかなかいい傾向だと思うけど」

 二人は十秒間、同じ姿勢で静止していた。中岡美奈子は右手で握っている水樹晶のペニスから伝わってくる鼓動だけを感じていた。水樹晶は頭上を何かが飛び去っていくのを感じた。

「もう帰ります」水樹晶は無表情を崩さなかった。

 中岡美奈子はまだ硬いペニスを握っていた。そして冷たく笑った。

「水樹君、昨日のあなたと今日のあなたは違うのよ。あの事件を起こす前の水樹晶とあの事件を起こした後の水樹晶も当然違う」

「何が言いたいのです・・・・・・、中岡美奈子先生」十七歳の小柄な高校生の声を聞いた三十四歳の女性教師の体が小刻みに震えた。

「あなたは急に大人になった。そして揺れ動くこの世界が見えてきたのでしょう?」

「何の話ですか?」

「あなたに何があったのか私は知らない。水樹君、人は平凡には生きることはできないの。あなたが小説の世界に閉じこもろうとしても現実はそれを許さない」

「・・・・・・」二人の唇が触れそうなほど接近していた。

「水樹君、あなたが遭遇したことは避けられなかったのよ。あなたが求めるものを手にしたいのなら、いろんなものを犠牲にしなくちゃならない」養護教諭は左腕を男子生徒の細い腰に巻きつけた。そして青紫の唇で水樹晶の薄い唇を塞いだ。水樹晶の舌に中岡美奈子の柔らかくて細い舌が絡みついてきた。二人の舌は二匹の蛇が殺し合いをするように激しく絡み合い引き合いもつれ合った。女性教師の右手は男子生徒のボクサーパンツの中に入って硬いペニスを激しく強く擦った。水樹晶は目も眩むような快感で陶然としたが、冷静に状況を見つめていた。

(この行為はある種の儀式なのか)

 彼は目の前の女が性的に興奮してもうすぐ絶頂に到達することが分かっていた。まるで陳腐なアダルトビデオを鑑賞するように、喘いでいる女をガラス玉のような瞳で見下していた。

 水樹晶の予想通り中岡美奈子は「アッ」と小さく叫ぶとその場にへたり込んだ。そして体全体が数秒間痙攣した。それからハアハアと荒い息をついた。男子生徒は何事もなかったようにカッターシャツを着て学生ズボンを履きベルトを調整した。それから学生服を着た。

「先生、大丈夫ですか」その声に中岡教諭はビクッと反応し顔を上げて水樹晶を見た。彼女の顔色は蒼く荒い呼吸は治まっていた。

「あまり大丈夫じゃないわ」彼女は立ち上がりながら歪んだ微笑みを浮かべた。そしてスカートをパタパタとはたいた。

「こんなことは初めてだもの」

「僕もです」水樹晶は黒く小さな目を細めて笑った。

「水樹君、あなたは本当に変わったのね。それは良いことか良くないことかは分からない。でも一つだけ言えることは、あなたはまだ若いってこと。確か十七歳だったわね」

「はい・・・十七です。でも先生、こんな時代に年齢とか意味はあるのですか?」

「あなたの言っていることは私にも分かるわ。こんな曖昧な世界で意味を求めることは難しい。だけどね、おそらくあなたより私の方が長く生きているし、それなりの経験もしてきた。そして自分を守る術も少しは知っているつもり。私の言っていることは間違っているかしら?」

「いいえ、先生の言っていることは正しいと思います」水樹晶は肩の凝りを解すように首を左右に伸ばした。

「水樹君、あなたには小説を、いわゆる物語を読み続けてきたというアドバンテージがある。だけど無防備であることには変わりない」

「無防備?」

「そう、今となっては・・・」

「よく分からないな」水樹晶は中岡美奈子の灰色の瞳を見つめた。中岡美奈子は彼の視線を無視して、ふうと息を吐いて頭を左右に数回動かした。それから頬を両手で軽く叩き背伸びをした。

「あなた、荷物を教室に置いてあるのでしょう。もう鍵が掛かっているかもしれないので一緒に行くわ」

「ありがとうございます」3―Bの男子生徒は便宜的に少しだけ頭を下げた。








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