学生会館一階文芸部、部室
学生会館一階にある文芸部のドアは施錠されていなかった。
「こんにちはーっ」華は部室に入ると、男子生徒が一人、木目がある楕円形テーブルの椅子に座って本を読んでいた。
「こんにちは、宮森部長」高梨尊は本を置いて華を見た。
「タケル君、晶、来なかったかな?」華は一番奥の席に座りながら訊いた。
「副部長は見ていないですよ。そう言えば副部長、最近あまり部室に来ていないような気がしますが」
「晶は幽霊部員みたいなものだからね」華は高梨尊のエキゾチックな風貌を見ながら(ハーバートよりもタケル君のほうがよっぽど外国人っぽいなぁ)と思った。
「でも以前はもう少し部室にいたと思いますよ。部長に連れて来られた影みたいに」
「フフッ、私は晶の保護者みたいね」
「結構、そんな印象がありましたよ」
「へぇー、そんなふうに見られていたのか、私」華は一年後輩の言葉を聞いて意外な気がした。
「ところで部長、今日の昼休み、面白い人間と歩いていましたね」尊は嬉しそうに言った。
「あっ、ああ。アメリカからの転校生のことね。彼に校内を案内してほしいと頼まれたのであちこち行ったのよ」
「エリック・ハーバートは僕の家に住んでいます」
「エッ、そうなの!」華はハーバートが高梨尊の家に住んでいることよりも、尊がプライベートなことを話したことに驚いた。このクールな後輩はとても博識で文学的素養も豊かで奥深いものがあると華は感じていた。そして尊はいつも華に対して丁寧に、そして深い敬意を持って接してくれていた。それは華にとって嬉しいことではあったが、なぜ自分のような平凡な人間に尊がそうしてくれるのか分からなかった。だが尊はプライバシーに関わることはいっさい華に話さなかった。本の話や学校のこと、一般的な話題について尊は華の知的好奇心を刺激する話術を駆使する。けれども話が彼の個人的な領域に侵入しそうになると巧みに方向転換して話題を変えてしまうのだった。そのことが水樹晶と決定的に違っていた。
「エリックのお父さんは僕の父の大切な友人なので、エリックが日本に来るために僕の父はいろいろ便宜を図ったようです」
「まだアメリカとの往来は大丈夫みたいだけど、移住するということは極めて稀でしょ?」
華は言葉を選びながら訊いた。
「そうですね。自分の街を出て他の国に行くには殆どの人がある種の処置が必要ですし、移住となればやはり受け入れ先がその人に適合しなければなりません」
「そうね・・・。でもどうしたら移住先がその人に合うか合わないっていうことが分かるの?」
「その前に先ず・・・・・・」尊はデイバッグのポケットからカフェオーレの入ったペットボトルを取り出した。
「私も飲み物を買って来よう」華が椅子から立ちかけた時「部長、このカフェオーレ、まだ開けていないので一緒に飲みませんか」と尊が声をかけた。
「えっ、いいの? エへへッ、じゃあお言葉に甘えて」文芸部部長は入口ドア側の壁の奥にある小さな冷蔵庫の扉を開けた。
「タケル君、氷いるかな?」
「ハイ、四個ほど」尊は冷蔵庫の横にある三段ボックスから赤いマグカップと透明なコーヒーカップを取り出した。そして赤いマグカップを華に手渡した。華は四角い氷を四つ、白いプラスチックスコップですくって尊が持っている透明なカップに入れた。それから自分の赤いマグカップにも四個氷を入れた。二人はそれぞれのカップをテーブルに並べて置いた。尊がその二つのカップにペットボトルのカフェオーレを注いだ。
「それじゃあ、いただきまーす」華は席に着くと赤いマグカップを右手で高く掲げた。
「乾杯!」尊が透明なカップを赤いマグカップに軽く合わせた。
「あっ、乾杯!」華の言葉に尊はニコッと笑った。華はドキッとしながらマグカップにピンクの唇をつけた。
「フーッ美味しい。今日はなぜかたくさんの人とお話ししたから喉が渇いちゃった」華は両手でマグカップを持ちながらチラッと左斜め横に座っている尊を見た。
「部長がたくさんの人と話すとは珍しいですね」
「ハーバートに校内を案内してほしいって言われていろんな所に行ったから。あっ、そうそうタケル君、ハーバートはどうして移住することができたのかっていう話よ。続きを教えて」
「フフッ、さすが宮森部長ですね」
「ん?」
「街から出る話について殆どの人は関心を持ちませんよ」
「えっ、そうなのかな?」
「関心を持たないというよりタブーと言ったほうがいいかな」
「うーん・・・・・・」華は少しだけ首を傾げながら納得のいかない表情を浮かべた。
「エリックは・・・」尊はカフェオーレを一口飲んだ後、華の黒い瞳を見た。
「彼は小さい時から何度も僕の家に来ていました。まあ遊びに来るという感覚だと思いますが、僕とも姉とも仲良く遊んでいた記憶があります」
「へぇー、ハーバートは小さい時から他の国に行って、また自分の街にもどって暮らすことができたのね。凄い」華はそう言いながら(タケル君、お姉さんがいるんだ)と頭の奥で確認した。
「エリックは僕の家に来るたびに『こっちのほうがニューヨークより住みやすい。僕はこの街が好きだ』と言っていました。その想いは時が経つほど強くなっていったと僕は感じました」
「フーン、やっぱり人によって合う街とそうでない街とあるんだね。でもハーバートの話を聞いているとニューヨークもこの街もあまり変わらないみたいだけど」
「そうですね。時が経てば経つほど、残念ながらどの街も同じようになるようです。だけど現在の人間は基本的に生まれ育った街に留まりたいみたいですね? なぜだか分かりませんが」尊は黒い瞳を閉じてカフェオーレを味わった。
「ねえタケル君、ハーバートがこの街を好きになった理由って何だったのかな?」
「・・・・・・僕は彼がこの街を好きになったというより、僕の家に来たかった、滞在したかったと思っていました」高梨尊は悪戯っぽく笑った。華は彼のその笑顔を見て「ドクン」という胸の音を聴いた。
「ハーバートがあなたの家にいたかったということは・・・、彼はあなたのお姉さんが好きだったのかな」
「さすが、文芸部部長。推理小説も恋愛小説もたくさん読んでいますね」
「推理小説はそんなに読んでいないよ。っていうかタケル君のお姉さんだったら凄い美人で素敵な人じゃないかなぁって・・・」華はそう言いながら頬が火照るのを感じ動揺した。
「ありがとうございます。僕のことはさておき、姉、香はなかなか魅力的な女性だと思います。双子の兄弟なので、かなり贔屓目で見てしまいますが」
「エッ! タケル君とお姉さんは双子なのっ」華は予想外に大きな声が出てしまった。慌ててカフェオーレを飲み込んだ。
「ウグッ、ゲホゲホ、コホコホ」甘く冷たい液体は彼女の気管に入ってしまった。彼女は急いで白いハンカチを口に当てたが連続して咳き込んだ。すると高梨尊は左手で華の左肩を支えて右掌で彼女の背中の真ん中から上に優しく叩き上げた。華は二回ほど背中に心地よい打撃を感じると新鮮な空気が真っ直ぐ彼女の中に入ってきた。
「フーッ、ありがとう、タケル君」華は数回深呼吸をした。そして頬がさらに火照るのを感じた。それから席に着いた尊を見ながら彼の姉の容姿をイメージした。(タケル君と同じ顔をした女性ってどんな感じだろう?)華はその女性を上手く想像できなかった。
「香と僕は二卵性双生児なので、それほど似ていませんよ。身長も違いますし」
華は左斜め隣に座っている一年後輩の聡明さに言葉を失った。そして彼の今日の言動がこれまでとは違っているように感じた。(何だろう、この感覚? 晶とも林田主任さんともハーバートとも違う・・・・・・。私はこれまで晶としか心を通わすことができないと思っていた。でも、ひょっとして・・・そうじゃないかもしれない)
「一時期、国は人口を増やすための一つの政策として双子を人為的に造ろうとしました」
「えっ、そうなの」華は尊の言葉に反応して顔を上げた。
「僕は詳しく知りませんが、結果としては上手くいかなかったようです。僕と姉は自然に生まれたらしいです。まあ真偽のほどは定かではありませんが」
「ふーん」
「部長、氷が溶けますよ」華は慌てて氷が溶けて薄くなったカフェオーレを飲もうとした。だが先ほどのことを思い出し、ゆっくりとマグカップに唇をつけた。
「それで話はもどるけど、ハーバートはあなたのお姉さんの近くに居たくてこの街にやってきたの?」
「うーん、確かにエリックは香のことを好きだと思います。だけどそれはエリックと僕との仲の良さとそれ程違わないのではないかと思うようになりました。最近一緒に暮らしていて」
「恋愛感情じゃないんだ」
「どうやらそうみたいです」
「フーン」華は赤いマグカップを傾けてカフェオーレを飲もうとした。しかしカフェオーレも氷もすでになくなっていた。
「部長、カフェオーレならまだありますよ。おかわりをどうぞ」
「いやいやいや、もう充分いただいたし。そのカフェオーレはタケル君の飲み物だし」華は右手を目の前で素早く何度も振った。
「じゃあ、残りを半分に分けましょう」
「え、あっ、いいの? エへへッ、それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「どうぞ」高梨尊は爽やかに笑った。
華と尊はそれぞれのカップを持って再び部屋の隅にある小さな冷蔵庫に氷をとりに行った。華が冷蔵庫の前に片膝をついて冷蔵庫のドアを開けた。
「部長のマグカップを持ちましょう」
「ありがとう」華は自分の赤いマグカップを尊に手渡した。その時、床につけてある左足の義足の継ぎ目が熱く脈打った。その熱が一瞬の間に彼女の体全体を駆け巡った。
「尊君、氷は三つでいいかな?」
「ハイ、三つでいいです」高梨尊は一瞬意外な表情を浮かべた。華は尊のコーヒーカップに氷を三個入れた。
「それでは私も」華は自分のマグカップに氷を入れると白い氷用のプラスチックシャベルを容器にもどし冷蔵庫のドアを閉めた。
二人は前と同じように氷が入ったマグカップとコーヒーカップをテーブルに置いた。
「私がカフェオーレを入れていい?」尊が頷くと華は目分量でカフェオーレをそれぞれのカップに注いだ。
「それでは、再びカンパーイ」華はそう言うと赤いマグカップを透明なコーヒーカップに軽く合わせた。
「乾杯」尊の低い声が心地よく華の耳に届いた。
華はカフェオーレを一口味わった。(カフェオーレってこんなに美味しかったかしら?)彼女は空になったペットボトルのラベルを見た。それは彼女がよく買うカフェオーレと同じデザインだった。
「どうしました?」尊が口角を少し上げながら訊いた。
「あっ、いや、何でもないの。尊君、話の続きを聞かせて。ハーバートが何故この街に来たのか、その理由を」華は自分の中の疑問を振り払うように尊の黒く輝く瞳を見つめた。
「分かりました。話を続けましょう」尊もカフェオーレを一口味わって透明なコーヒーカップをテーブルに置いた。
「エリックはこの街に好きな場所が三ヶ所あると言っています」
「三か所もあるの」
「一つは僕の家、二つ目はこの城北高校」
「この高校がそんなにいいのかな? そういえば校長先生もハーバートがこの城北高校を選んだって話していた」
「東山校長がそう言っていたのですか?」尊は少し驚いた。
「そう、昼休みにハーバートに職員室のある建物を案内していたら、校長先生に初めて会ったの。その時に校長先生がそう言ったのよ」
「部長はエリックがなぜ城北高校を好きなのか、分からないようですね」
「うん、そう。うちの高校、そんなに良い高校なのかなぁ。生徒も先生たちも活気がないし、部活動だって盛んじゃないし。活動している部は減ってきているでしょ。それから図書室! あそこはもう物置みたいになってるじゃない。学校って、もっと生徒が学びやすい環境であるべきだと思わない、尊君!」華は話しているうちに日頃抱えているストレスが言葉として出てしまった。
「ハイ、そうですね。部長の仰ることはもっともです」尊はそう答えながら笑いを我慢していた。
「何よ、尊君。私の言っていること、おかしい?」華は少しムッとした。
「いやいや、そんなことはないです。部長の言っていることは正しいと思います。ただ・・・」
「ただ?」
「部長がこれほどストレートに感情を表したのを初めて見たので、ついつい嬉しくなって・・・」
「えっ、そうかな?」華は尊の親密な笑顔を見て戸惑った。
「ただエリックが城北高校を気に入ったのは最近のことです。二年前ぐらいからかな」
「そうなの、昔の方が高校も活気があったと思うけど」
「そうですね。インターネットの映像を見ても、明らかに昔の方がいろんな活動をしていました」
「最近は学校のホームページ、ほとんど更新していないでしょ。やる気がないんだから」華は口を尖らせ紅い頬を膨らませた。
「エリックは何度かこの高校を見に来ています。他の高校にも足を運んでいます。それでこの高校を一番気に入ったみたいです。僕の父もこの高校を勧めていました」
「ふーん、まあここには尊君もいるしね・・・」華は納得していなかった。
「それでは最後の場所は何処だと思います? 宮森部長」
「うーん、三番目の場所ねぇ」華はハーバートが三つも好きな場所があると聞いて、彼を羨ましく思っていた。(私なんか生まれてずっとこの街に住んでいるのに、好きな場所と言えば由美さんのお店しかない。ハーバートはいいなぁ。彼はそういう意味でも他の人と凄く違っているのかもしれない)
「じゃあヒントを出します。その場所はとても大きな建物です」
「大きな建物ねぇーっ。大学かな?」
「違います」
「総合病院」
「違います」
「スタジアムっといっても今は使われていないし・・・」
「そうですね。それも違います。ヒントその二。今でも毎日かなりの人がその場所に行き来しています」
「エーッ、今でもこの街でそんな賑やかな場所あったかな」
「部長もときどきその場所に行っていると思いますよ」
「えっ、私も?」華は思わず自分の顔を右手で指差した。そしてマグカップを両手で持って首を捻った。彼女は自分が家や学校以外に行く場所を思い浮かべてみた。(由美さんのお店、晶の部屋、図書館、海岸、それからお買い物は・・・)すると徐々に彼女の脳裏にある人物が浮かびあがってきた。食料品売り場でお菓子をチェックしている林田勤の姿だった。
「ひょっとしてAFZ?」
「正解です」尊は嬉しそうにその言葉を告げた。
「へぇー、ハーバートは買い物好きなのかな」
「AFZはこの街の中心にあり交通のアクセスもいいので、行きやすいということもあります。食料品、衣服、雑貨、各種専門店、飲食店、イベントホール、ミニシアターとAFZに行けば一応ひと通りのものは備えられますから」
「あそこはちゃんとした書店もあるしね。AFZの二階の本屋さんで本を買うでしょ。それから六階の喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読むことが私、好きなんだ。あれっ、六階の喫茶店、何ていう名前だったかな?」
「確か『ロアノ』ではなかったですか?」
「そうそう『ロアノ』。私『ロアノ』だと落ち着いて本を読めるの、不思議だなぁ」
「僕も部長と同じように、『ロアノ』で本を読みますよ」
「えっ、ホント! フフッ何だか嬉しいな」華は自分の言葉に驚いた。
「あっ、あの、えっと、その、尊君。ハーバートはやっぱりAFZでいろいろお買い物とかするのかな? 彼、アメリカ人だし」華は自分がかなり変なことを言っているような気がして内心とても慌てていた。
「彼はとくに買い物が好きだとは思えないですね。ファッションに凝るとか美味しいものにこだわるとかはないです。ただAFZ、あの場所が好きだと言っていました。一階や二階を歩くと気持ちがいいとよく言っています」
「あーっ何となく分かるなぁ。AFZって凄く安心感があると思わない? 尊君。私にとっては、この街で一番あそこが安心できる場所」
「宮森部長にそう言われると僕としても嬉しいですね」
「えっ?」
「僕の父はAFZに勤めています」
「えーっ、そうなの。尊君のお父さんだったら重役クラスでしょ」
「そうですね。責任あるポストみたいです」尊の言葉は何の違和感もなく華の耳に届く。
「じゃあ、お父さんは忙しくってあまり家にいないのかな?」
「ええ、ほとんど家にはいませんね。たまに家に帰っていると香とお酒を飲んでいます」
「お姉さん・・・香さんって尊君と同い年だよね。お姉さんは重役のお父さんの晩酌相手とは・・・。でも高梨家だったらそれが似合っているのかもね」
「おかげで香からAFZに関することをいろいろ知ることができます」
「あっ、そうかぁ」華の脳裏に顔に包帯を巻いている水樹晶の姿が映った。(あれ、わたし、AFZが好きだったのかな? 晶をひどい目にあわせた所なのに。でもあれは晶が悪いし・・・。二階の本屋さん『海浜書店』って変な名前だけど入りやすい。『ロアノ』も一人でいっても淋しく感じないし・・・。あそこのウエイトレス、なぜメイド服なのかしら? 私も十七年生きていれば、この街でも好きなところが少しはあるのかもしれない)
しばらく二人は何も話さなかった。
「あれっ、私、今日、何しにここに来たのかな?」
「副部長を捜しにきたのでは」尊は微笑みながら言った。
「それ以外に用事があったような・・・」
「フランツ・カフカの『審判』の書評。それぞれの進捗状況を確認したかったのではないですか?」
「そうそう、それよ、それ! カフカの『審判』! 晶が言い出したのに最近、全然部室に来ていないし」
「副部長は幽霊部員でしょう」
「うーっ、そうだけど・・・」華は不平そうに唇を尖らせた。
「いつものように僕と部長で討論しますか?」
「うーん、それもいいけど」
「僕だけと話すことは不満ですか?」尊は穏やかな表情を変えずに訊いた。
「いやいやいや、私は尊君と小説についていろいろ話すことはとても好きだよ。尊君、博識だし私と違った感性で読んでいるので、あなたのお話はすごく参考になるし。でも・・・・・・」
「でも三人で討論した方がいいですね、ある種の客観性が出てきますし」
「うん、そんな感じがする」華は話していて悲しさが湧いてきた。(あれ、私、どうしたのかな?)
「どうしました? 部長」
「あっ、いや、これまで通り尊君とお話するのがいいなあ。晶はロシアの作家ばかりだし」
「でも副部長が今度はフランツ・カフカの『審判』にしようと言い出したでしょ」
「ホントに晶は『審判』読んでいるのかしら」
「副部長はちゃんと読んでいると思います。先日会ったときも『審判』の内容についていろいろ言っていました。裁判所の建物が変だとか、主人公のアパートの不可解さとか・・・。僕は副部長の読書量は凄いと思います。あまりジャンルや作家にこだわらずに幅広く読んでいるといつも感心しています」
「エーッ、そうなのかなぁ。私といるときはいつもロシアの作家ばかり。それもドストエフスキー、ドストエフスキーってうるさいのよ」
「そうですか。それはおそらく・・・・・・」
「おそらく・・・?」
「副部長は宮森部長を信じている、そして宮森部長に何か伝えたいのではないでしょうか?」
「晶が私に伝えたいこと? メッセージ? そうかなぁ」華は赤いマグカップを見ていた。溶けた氷が透明な膜になってカフェオーレの茶色にのっていた。
〈キーンコーンカーンコーン・・・・・・キーンコーンカーンコーン〉生徒の下校を促す間延びした鐘の音が響いた。
「五時半になったね。尊君とお話すると、いつもあっという間に時間が経っちゃう」
「そうですね」
「私、湯沸室でカップ洗ってくる」華はとなりの湯沸室のシンクでカップを洗い、布巾かけから乾いた真っ白な布巾を取った。そしてその布巾でカップを丁寧に拭いた。それから二つのカップを三段ボックスの所定の位置に置いた。
「それでは、今日の部活動はここまで!」華は気を付けの姿勢をして言った。
「お疲れ様でした」尊も立ち上がり同じ姿勢をして、一礼をして答えた。
「あれっ、でも今日は文芸部の活動だったのかな?」華は部室の外に出て首を捻った。
「貴重な活動だったと思いますよ」尊は部屋の鍵を閉めながら言った。
「そう?」
「世界を救うためにも」
「何、それ」華は少し吹き出した。
「宮森部長とカフェオーレを分け合って飲むことができましたし」尊は静かに微笑んだ。
「あっ、尊君、カフェオーレありがとう。ごちそうさまでした。じゃあ私と尊君がカフェオーレとかケーキとか分け合えば、この塞がった世界に風穴を開けることができるの? だったら今度はイチゴショートがいいなあ」華は悪戯っぽい瞳で高梨尊を見上げた。
「分かりました。それでは今度はイチゴショートとホットレモンティを用意しましょう」
「いやいやいや、尊君、今のは冗談よ、冗談」
「そうですか? この塞がった世界を開放するためですよ」尊は不思議そうな顔をした。
「エッ?」華は歩きながら尊の顔を見つめていた。一年後輩は空を見上げていた。
「今日は午後五時三十分を過ぎているのに空が明るいですね」
華は尊の言葉に誘われるように空を見上げた。南の空から数十羽の黒い鳥が現れ北に向かって飛び去っていった。
「黒い鳥・・・・・・」華はその言葉をずっと待っていたような気がした。
二人は黒い鳥たちが飛び去った北の空を見上げていた。黒い鳥たちが姿を消して十秒経った。華は自分の右手が尊の左手を握っているのに気づいた。




