白い半月の夜
クロノという店を勤に紹介したのは玲だった。変わり果てた後藤満を目撃した次の日、勤は玲に誘われて薄暗いバーの席に腰を下ろしていた。勤はI・W・ハーパーのロックを注文し玲は麦焼酎のロックを注文した。
「先輩、お疲れ様でした!」玲は嬉しそうに透明なグラスを勤の琥珀色のグラスに軽く合わせた。「カチッ」と控えめな音がした。
「ああっ、お疲れ」勤は少し気圧されたように答えた。彼の横にはアイボリーのブラウスに淡いピンクのカーディガンを身につけた玲が美味しそうにグラスを傾けていた。
「あーっ、仕事の後のお酒は美味しいですよね、勤先輩」彼女のグラスの液体は半分しか残ってなかった。
勤はそんな玲の姿を見て少し気分が良くなり、二口目のバーボンウイスキーを流し込んだ。食道から胃にかけて熱い液体が浸み込んでいく感覚を覚えた。
「先輩って苦み走ったいい男を目指しているのですか?」
勤は玲の質問の意味がよく分からなかった。
「ん?」
「だっていつもお酒を飲むときに、先輩は眉間に皺を寄せてお酒飲むじゃないですか」
玲はそう言うと自分も眉間に皺を寄せてグラスを傾けた。勤は玲のおどけた仕草に小さく笑った。そして岡野高広に「勤、お前もっと楽しく酒飲めよ」とよく言われることを勤は思い出した。
「そんなに難しい顔していたか・・・・・・。意識しているつもりはなかったのだが」
彼は少しの間グラスの中の氷を眺めていた。それぞれ形の違う氷が肌を寄せ合うように接触している。氷の表面には薄い水の膜があり、ダウンライトの淡い黄色を反射させている。
「私は先輩の渋い顔、好きですよ。何か物事を深く深く考えているようで」
「いや、酒を飲むときはそんなに考えていない」
「本当ですか?」
「うん、本当だ」
「本当?」
「うん」
勤は隣の玲の丸い肩や柔らかい腕が、ときどき自分の左腕に当たる度に体が反射的に軽く硬直した。それと同時に彼女の上目遣いの瞳と紅潮しつつある頬を見ると、頬が自然と緩みそうになる。
(高校時代に好きな女の子と初めてデートした時のようじゃないか・・・)勤は今更ながら自分の反応に驚いていた。室内にはチャット・ベーカーの中性的な歌声が呟くように流れている。
(いったいこの状況をどう理解したらいいのだろう?)勤は二杯目のウイスキーを喉に流し込みながら考えていた。
「先輩」勤は左腕のワイシャツが軽く引っ張られる感覚を覚えたと同時に、玲の碧い瞳が彼の視界の真ん中に飛び込んできた。
「どうしたのですか? また深刻な顔をして」
「いや、別に」
「やっぱり後藤さんのことを考えていたのでしょう?」
「ん?」
「以前とあんなに姿形が変わり果ててしまったら、誰だってビックリですよね」
「そうだな」彼は玲に言われて、改めて昨日の後藤前室長の姿を脳裏に思い浮かべた。饅頭のような丸い顔が細長くなり、愛嬌のあるせり出たお腹はやせ細ってしまった。だから黒いベルトが紺色の作業ズボンをずり下げないように、きつく締め付けられていた。後藤前室長は生気のない目で陳列棚の少し上の辺りをじっと見つめていたのだ。呪文を唱えるようにブツブツ言いながら。
「麦のロック、お代わりくださーい」隣で玲が三杯目の焼酎を注文していた。寡黙なバーテンダーが彼女のグラスを受け取ると新しいグラスに氷を五個入れ、それから透明な液体を注いだ。
「相変わらずペース早いな」
「それは勤先輩と飲むときだけですよ」
「村上さんは酒強いし」
「フフッ、それ秘密ですよ」
玲は右人差し指を勤の口の前に立てて笑った。彼女の艶やかな頬はピンクに染まり瞳は深い藍色に変わっていた。
(確かに村上さんは職場の飲み会ではお酒はあまり飲めない人だったな。高広達と数人で飲んだりしても、彼女はあまり飲めない女子として振舞っていた)勤は美味しそうに麦焼酎を味わっている玲を見ながら記憶を辿っていた。
「後藤室長は・・・守る人だったのですね」
玲は囁いた。
「ん?」
「後藤室長は攻める人じゃなくて守る人だったと思います」
勤は急に玲の声のトーンが落ちたので驚いた。しかし何とか頭を回転させた。
「それは彼がセキュリティ室長に適していて、販促には適していないということ?」
「はい」
「ふーん」
「すみませーん、ハーパーのおかわりお願いします」玲は勤のグラスをとってバーテンダーに手渡した。
「先輩も今日、飲むペース早いですね」勤はまた笑顔になった玲の顔を見ると「あ、ああっ」と曖昧に頷くだけだった。それからしばらく二人は黙ってお互いの酒を飲んでいた。玲はときどき体をユラユラと揺らし、隣の勤に寄りかかったりした。
「私たち中年の不倫している恋人みたいですね」
「えっ、そうかな?」
「アーッ! マスター笑った」
二人の目の前でグラスを磨いていた寡黙なバーテンダーは、照れながら手を振って否定した。
勤は今日の玲がいつもと違って情緒不安定だなと感じていた。
「それでさっきの話だけど・・・・・・」勤は少し遠慮しながら訊いた。
「あっ、ハイ」
「後藤前室長は販売促進の部署で何か大きなミスとかしたのかな?」
「いいえ、目立ったミスはなかったみたいです」
「じゃあ販促に関する企画立案能力に難があったとか?」
「それも後藤室長は上手くやっていたようです。ほら室長はかなり長くセキュリティ対策やっていたじゃないですか。例えば万引き犯の盗む商品の傾向とかちょっとした事故が起こりやすいスペースとか、そういういろんなデータが販促にも役立ったらしいです」
「ふーん」勤は玲の話を聞きながら感心していた。(村上さんは言い淀んだり、返答に詰まったりするということがほとんどない。いや、ほとんどというより俺が見た限り全くない―それはとても不思議なことじゃないか?)彼はI・W・ハーパーを口に含みながら、そんなことを考えていた。
「今の話は高梨香ちゃんに教えてもらいました」玲は珍しく言いにくそうに言った。
「あの万引きした高校生?」
「はい。彼女は本当にいろんなこと知っていて、後藤さんは変な趣味があるって言っていました」
「変な趣味?」
「後藤室長はセキュリティ対策の関係で、窃盗犯とか店の物を壊す人とか爆破予告をする愉快犯とか、そんな変な人達とずっと関わってきたじゃないですか」
「まあ、そうだな」
「先輩、そんな人たちと日常的に関わるって、どう思います?」
「うーん、あまり好ましくない状況だな」勤は喉の渇きを癒すようにI・W・ハーパーを一口飲んだ。
「でしょう。あたしだったらそんな所いられないですよ。異動させてくださいって人事に言うか、そうでなきゃ辞めちゃいますよ」
「うーん、そうか」勤は玲の言葉を聞きながら高広のことを思い出した。(あいつは結構楽しそうに仕事をしている)気がつくと玲の視線を真正面に感じ、彼は慌てて話を続けた。
「でも村上さんは高広や後藤室長が捕まえられなかった万引き犯を見つけたじゃない、あの女子高生を。それに勘が凄くいいから、案外セキュリティ対策室なんか適しているかもしれないよ」
「それは先輩の友だちの岡野さんが困っていたから・・・・・・」
玲はそう言うとチラッと上目遣いで勤を見た。
「まあ確かにあの時は高広、困って憔悴していたからな」勤にしては珍しくぞんざいな言い方だった。
「違いますよ、先輩! あたしは先輩が困っていると思ったから頑張ったんですよ!」玲は勤の左腕を両手で掴んでブンブンと左右に振った。
「わかった、わかった。ごめん」勤は慌てて彼女の両手首を握りなだめた。
「相変わらず仲が良くていいですね」二人の目の前にいるバーテンダーはそう言うと、玲のグラスを取り上げ新しいグラスに氷と麦焼酎を注いだ。
「あたしと勤先輩はラブラブですよ、ねーっ」玲は勤の左腕を抱え込んで体を預けた。バーテンダーはそれには答えずに静かに微笑んだ。そしてグラスを磨き始めた。
勤は混乱していた。玲と飲みに行くと時々こんな感じで彼女と体の接触があった。会話も弾むときが多い。しかし今夜の玲はいつもの彼女とは違う何かを勤は感じ始めていた。喉の奥からせり上がって来るような、頭の片隅でチリチリと疼いているような微妙な感覚が彼を不安にさせた。
「それで、後藤前室長の話だけど」
「あっ、そうでした。後藤室長の変な趣味って話でしたけど・・・・・・」玲は相変わらず勤の左腕を両手で抱え込んでいた。
「後藤室長は変な人と接しないとダメみたいです」
「ん?」
「セキュリティ対策室長時代には、万引き犯とか爆破予告する愉快犯とか訳のわからないことを言い出すクレーマーとか、そういった変な人と日常的に会っていたわけでしょう」
「うん(クレーマーは違う部署だと思うが)」
「後藤室長は変な人と接することが生きていくうえで不可欠だったみたいです」
「でも高広が言うには、後藤室長は販促に異動することに凄く喜んでいたということだったけど?」
「それはやはり嬉しかったと思いますよ、栄転だし。多分あっちに行って気づいたんじゃないでしょうか。自分の居るべき所はここではないということを」
「そうか・・・」
「それでどんどん痩せていって元気もなくなったみたいです」
「だからこっちに戻ってきたのか。でも何故清掃の部署にいるのかな? セキュリティ対策室に戻れなかったのか」
「野神室長がいますし」
「ああ、彼女か」
勤は長身でスタイル抜群の野神冴子を思い浮かべた。彼女も眼鏡をかけていたが玲とは違いそれは鋭利な刃物という印象を勤に与えていた。
「高広の奴、あんなに仕事ができるって人を初めて見たって驚いていたな」
「あたし、あの人、なんか嫌です」
「嫌?」勤は玲が他人を敬遠する言葉を聞いたのは初めてだった。
「うーん、嫌というより苦手な感じです・・・・・・」
「苦手なのか。フム」
勤はこれまで玲が会社では誰に対しても自然体で接している様に見受けられた。口うるさい同僚の中年女性でも偉そうな中間管理職にも緊張せずに接していた。(しかしそれは俺の勝手な思い込みかもしれない。村上さんが人並外れた勘の持ち主ということは、それだけ繊細な感性を持っているということじゃないか?)
「どうしました先輩? また難しい顔をして」
勤は考えることを止めると、目の前に深い藍色の瞳があった。
「後藤さんは清掃の仕事、やっていけるのかな?」
「自分からやりたいということらしいです」
「エッ?」
「これも香ちゃんから聞きました」
玲はそれから酒も飲まずにずっと勤の左腕を抱きかかえ体を彼に預けていた。彼女は何も言わずに規則正しく深い呼吸を繰り返していた。
午前零時を過ぎ二人は店を出た。
「ありがとうございました」寡黙なバーテンダーの低い声が小さく響いた。もう一人の女性バーテンダーが玲に小さく手を振った。
タクシーの後部座席に乗り込むと玲は低い声で自分のマンション名と住所を告げた。運転手がその場所頷きながらを確認した。
「勤先輩、あたしの部屋でコーヒーを飲んで酔いを醒ましません?」
「あっ、ああ・・・・・・」
玲は勤の返事を聞くと眼鏡を外し紅い眼鏡ケースの中に入れた。そしてそのケースをオレンジ色のバッグに入れた。それから先ほどまでいた店と同じ姿勢で自分の体を勤に預け、静かに目を閉じた。彼女の額は勤の左腕にピタッと張り付いているようだった。二人はビデオの静止画像のように固まったままタクシーに乗り続けた。
高層マンションが林立する地域にタクシーは入ってきた。黄色点滅する信号機を過ぎた。
「ここでいいです」玲が言った。
玲のマンションに着くと風が上空を舞っていた。半月を細い雲が横切っている。タクシーが行ってしまうと辺りには何も動くものがなかった。白い半月が雲に隠れると闇の厚さが増した。冷やかさを含んだ風が吹き、歩道にカサカサと何かが転がる音がした。
玲がエントランスの自動ドアを開けエレベーターのボタンを押すまで、彼女はずっと勤の腕を離さなかった。勤は何か言おうとしたが出てきそうな言葉を飲み込んだ。エレベーターは素早く二人を七階まで運んだ。音もなくエレベーターのドアが開いた。七階の廊下は風が強く時折玲の茶色い髪を吹き上げた。
勤はエレベーターからかなり歩いた感じを受けた。彼が(まだかな?)と思ったとき玲は立ち止まり右肩から対角にかけている淡いオレンジ色のバックから鍵を取り出した。
「カチッ」と澄んだ音が響き重いドアは音もなく開いた。黄色い光が降り注ぎ二人をぼんやりと浮かび上がらせた。
勤は今の状況を現実だと受け止めることができなかった。バー・クロノで玲が黙り込んで彼に体を預けてから今まで現実感がなかった。歩いていた道路のアスファルトの硬さもなく、タクシー運転手の顔も無かった。真夜中の空気は薄く自分が呼吸をしているかどうかも曖昧だった。
(月が、半月が出ていた?)
唯一確かなものは玲の両手の重みだった。しかしそれすらも表面的な感覚で自分の傍にいる女性が、いつも一緒に働いている村上玲だという確信が持てずにいた。
リビングの灯りをつけると玲はカーディガンを脱いでそれを椅子にかけた。それからブラウスを脱ぎスカートを脱いだ。そして灯りをスモールランプにするとストッキングをスルスルと外した。勤が何か言おうとしたがいきなりその口は柔らかい玲の唇にふさがれた。玲の両手が勤の首に回され彼の口の中に硬くなったり柔らかくなる舌が入り込んできた。勤の目の前に玲の暗い瞳があった。その瞬間勤の体は発熱し、辺りは闇に閉ざされた。
(勤先輩・・・・・・)彼のペニスが玲の唇に含まれて荒々しいまでに膨張していた。
(これからも)玲の体が勤の体を包むように覆いかぶさってきた。
(ずっと)彼の体は神聖な儀式に捧げられた肉体のように自由がきかなかった。そして相変わらず現実感が全くなかった。
(あたしを・・・・・・)唯一勤には圧倒的な射精の感覚があった。その直後頭を突き刺す痛みと玲の奥深くに自分の精液が届く痺れる感触があった。それから生暖かい雫が彼の頬に落ちてきた。同じ間隔で一粒二粒三粒と落ちてきた。その雫が頬を伝い口に入った。玲の涙だった。