2【時空】 転校生
第2部「時空」
宮森華は教室に入ると南側最前列の席を見た。その席には水樹晶が座っていた。彼は片肘をついて外の景色を眺めていた。華は急いで晶の席へ行こうとした。そして欠席した二日間のことを訊きたかった。だが彼女の足は一歩踏み出したところで止まってしまった。華の目には幼馴染の姿がぼんやりと透けて見えた。彼女は改めて晶を凝視したが、やはり存在感のない少年がいるだけだった。華は釈然としないまま晶から二つ後ろの自分の席についた。
「オハヨーゴザイマス―ッ、宮森サーン」華の後ろからおかしなイントネーションの日本語が飛んできた。華が振り返ると、そばかすが浮いている面長なアメリカ人が笑っていた。
「おはよう・・・・・・、んーっとエリック・ハーバート君」
「イエス! 僕の名前を憶えてくれて嬉しいデース」長身のアメリカ人は相変わらず笑っている。
エリック・ハーバートは一週間前に転校してきた。
華は小学校から高校まで通ってきたが、転校生を見るのは初めてだった。ましてアメリカから転校してくるとは奇跡的な出来事だと思えた。クラスの生徒達も当初は興味を持って彼に話しかけた。しかし彼の生まれ育った街―ニューヨークと呼ばれた都市もこの街と変わらなかったことが明らかになるにつれ、彼に話しかける者はいなくなった。
ハーバートはみんなから訊かれることに対して丁寧に答えていた。彼の席が華の後ろだったので彼の話の内容が華の耳に必然的に入ってきた。ハーバートが住んでいた街も廃墟化が進み、人々は徐々にいなくなり、文化芸術スポーツは潮が引くように消えていきつつあった。クラスの生徒達がハーバートに興味を示したのは彼が転校してきた当日とその翌日だけだった。ハーバートはそんな状況の変化に戸惑うこともなく、いつものように口元に微かな笑みを浮かべていた。
「ところで宮森サーン、お元気ィデスカ?」ハーバートは神妙な顔をして訊いてきた。
「えっ、あっ、元気だけど」
「そうですかァ? ちょっと前、ンー一昨日くらいから元気ないかと思うのデスガーッ」
「そうかなぁ、そう見える?」華は転校生の鋭い観察眼に驚いた。
「彼」ハーバートはそう言うと前を指差した。彼の右人差し指が示した先には水樹晶がいた。
「彼はァ、宮森さんのボーイフレンドですか?」
「えっ、違うよ。彼はただの幼馴染」華は顔を少し赤く染めながら声をひそめて答えた。
「幼馴染とは何デスカ?」
「幼馴染とは小さいころからの友達のこと」
「小さい頃からずーっと友達なのデスカ?」
「そう、ずーっと」
「ワオ! それはスゴーイですネーッ」ハーバートは両手を上げてのけ反った。華は彼の反応に心が軽くなるような感覚を覚えた。
(ずっと友だち・・・。晶とは幼い頃から仲が良かった。どうしてかな? 晶は私と同じ活字中毒だけど学校の成績はそんなに良くない。スポーツや運動も駄目。性格もナヨナヨしていてハッキリしないし弱気だし。私の前だけ偉そうにモノを言うけど。顔もスタイルもいつまでも子どものままだし。私って晶のどこが好きなのかぁ?)
「宮森サーン、ドーしたのデスカ?」
「あっ、いや、私、どうして晶とずっと友だちなのかなって」
「彼とはご近所さんデスカァ?」
「あ、そうね。晶とは小さい時から知っていたし遊んでいた。家も近くだよ」
「いつもゥ、彼が宮森さんの近くにィいたのデスネ?」
「うーん、そうかなぁ・・・。どちらかと言えば私が晶の側にいたような気がする・・・・・・」
その時、始業のベルが鳴った。歴史担当教師、中岡美奈子が教室に入ってきた。彼女は小柄で瘦せている。冷たそうな銀縁メガネをかけ長い黒髪を後ろで一つにまとめていた。いつも白衣を着て地味な灰色のスカートとアイボリーのブラウスというファッションだった。
中岡教諭はいつものように持ってきた白いラップトップを教壇の上に置いた。それからそのラップトップを起動させ素早くキーボードを叩いた。すると天井に設置されている映写機にスイッチが入った。教壇の後ろにある大型スクリーンには【ロシアの歴史】という題目が浮かび上がった。それから【1800年代のロシア】という副題も表れた。中岡教諭の仕事はスクリーンに映ったビデオが問題なく流れているか確認することだった。それから生徒からの質問に答えることも彼女の仕事の一つだったが、そんなことは一年を通じて数回しかなかった。
生徒たちはスクリーンにビデオが流れ始めると、ある者は携帯電話のモニターを触り始め、ある者は中岡教諭が来る前と同じように机に突っ伏して眠っていた。女の子同士は小さな声でお喋りをしていた。
華は上体を横に傾けて二列前に座っている晶を見た。晶はスクリーンに映像が流れ始めるとデイバッグの中から本を取り出して読み始めるのだが、今日は本を読むこともせず、先ほどと同じようにぼんやりと外を眺めていた。
華は晶のその様子が何か納得いかなかった。彼女は幼馴染の視線の先を見つめた。そこには灰色の雲が覆った低い空と灰色の海があり、ほとんどが空き家となった民家が点在していた。いくつかの高層マンションだけが黒く輝いていた。それは華が毎日見ている同じ風景だった。唯一変化しているのは人が住まなくなった民家が徐々に廃墟化していくことだった。
「宮森サーン・・・」ハーバートの小さな声が華の耳に届いた。
「ん?」反射的に彼女は振り返った。ハーバートは笑っていなかった。
「宮森サーン、怒ってますかァ?」
「えっ、私?」
「宮森サーン、怖い顔して、外、睨んでマシタ」ハーバートは遠慮がちに言った。
「私、怒っていた?」華は呟くと妙に納得した。そして体がゆるゆると緩んでいくのを感じた。
「そうか・・・・・・、私、怒っていたのか・・・。ハーバート、ありがとう」華が声を潜めて言うと転校生はニッコリと笑った。
昼休み、華はコンビニエンスストアで買ったおにぎりを二個食べた後、ペットボトルの麦茶を飲んでいた。今日、彼女は今まで晶と話をしていなかった。
華の左肩に指で軽く突かれる感覚があった。
「宮森サーン、お願いがありマス」転校生は金色の巻き毛を掻きながら言った。
「ん、何かな?」
「宮森サーン、この学校の案内をしてくれまセンカァ? 何処に何があるのか全く分かりまセーン」
「うん、いいよ。今から?」
「ハイ、今からお願いしマース」
華はおにぎりを包んであったビニール袋を教室のゴミ箱に入れ、ペットボトルをデイバッグのポケットにもどした。
「じゃあ、行きますか? エリック・ハーバート君」
「ハーイ、お願いしマース」
華とハーバートは水樹晶の席の横を通って、教室の出入り口のドアを開けた。水樹晶の席には誰も座っていなかった。
二人は中央階段を降り地上二階の二年生の教室が並んでいる廊下を端から端まで歩いた。西端から調理室、そして主に木工品を作る技術室、それから2―A、2―B、最後の東端に2―Cの教室がある。ハーバートは調理室と技術室を興味深そうに見ていた。一階に降りると西端から音楽室、服飾室、1―A、1―B、1―Cの教室がある。
教室がある建物から職員室のある二階建ての建物に移動している間、ハーバートは難しい表情を浮かべていた。
「どうしたの、ハーバート?」華は長身のハーバートを見上げるように訊いた。
「宮森サーン、この学校には面白い教室がありマース」
「面白い教室?」
「ソーです。二階の調理室と技術室、それからァー一階のファッション関係の部屋。このような教室はアメリカのハイスクールにはなかったデース」
「ふーん、君が通っていたハイスクールにはどんな教室があったの?」
「アーッ・・・、主にコンピューターに関係するものが多かったデース。他にはロボット工学、サイボーグメディカル」
「体に何か入れちゃうやつね」
「イエス、イエス。宮森サーン、頭いいデスネ」
「さすがはニューヨークだね。いつも時代の最先端を行ってる感じ」
「そこのところが難しいところデース」
「難しい? やっぱり最先端のコンピューター理論やサイボーグメディカルは専門的で難しいのかな」
「ンーン、そうじゃないデス。そう言うことじゃないのデス。上手く言えないデス。ごめんなサーイ」ハーバートは両手を肩まで上げて首を左右に振った。
「ハーバート、そんなに謝らなくてもいいのよ」華は小さく笑いながら答えた。
二人は職員室がある建物に着いた。一階は職員室と相談室、それから養護教諭がいる休憩室があり、二階は校長室、会議室、資料室となっていた。
華はハーバートにこの建物の概要を説明した。彼女はこの建物を見て回る意味はないと思いハーバートもそのことに同意した。彼らがこの建物から出て行こうとする時、休憩室のドアが開き白衣を着た中岡教諭が出てきた。彼女は歴史の教師だけでなく養護教諭も兼ねていた。
「宮森さん、休憩室で水樹君が休んでいるわよ」
「エッ?」
「疲れたので休憩したいとか言ってベッドで寝ているわ」養護教諭はそう言って職員室に入って行った。
華はハーバートを見上げると彼は静かに頷いた。彼女は休憩室の木製ドアを小さくノックしたが部屋の中からは何も反応がなかった。華はそっとドアを開け中の様子を伺った。
部屋は広く中央には薄緑色のⅬ字ソファーがあり、そのソファーに囲まれるように円形の木製テーブルがあった。入口ドアの正面向かい側には木製の机と黒いリラックスチェアがある。その机の上には白いラップトップがのっていた。机の右側にはガラス戸のある背の高いキャビネットがあり応急処置のできる医療品が収まっていた。キャビネットが置かれている反対側には三枚の白いパーテーションで区切られたスペースがある。パーテーションに囲まれた南側のスペースにベッドが置いてあった。
華はベッドの傍にあるパーテーションの一枚を少しずらしてベッドの横に立った。そして「晶・・・」と声をかけた。水樹晶は仰向けの姿勢で熟睡していた。彼女の目には彼がとても深く眠っているように見えた。幼馴染はまるで深海にゆっくりと沈んでいるようだった。
華は晶の肉体はベッドに上にあるけど、その魂はどこか違うところに行ってしまったのではないかと感じた。(何か違う? 晶はどうしちゃったの?)彼女は自分の頬に生暖かいものが流れ落ちているのを感じた。それは彼女の涙だった。華は自分がなぜ泣いているのか分からなかったし、そのことで動揺した。スカートの右ポケットから白いハンカチを取り出し、流れる涙を拭いた。それから深呼吸を数回した。「コンコン」とドアを叩く音がした。華は眠っている晶の顔を数秒間見つめった。それから彼女はパーテーションに囲まれた空間から出ると、ずらしたパーテーションをもとに位置にもどした。そして静かに休憩室から出て行った。
入り口のドアが閉まる音がすると水樹晶はゆっくりと目を開けた。彼の視線の先には白い天井があった。それから彼はその天井を見続けていた。
ドアの外に出た華は何か恥ずかしくてハーバートの顔を見ることができなかった。ハーバートは同級生の変化に気づいたふうもなく職員室を窓超しに覗いていた。
「やあやあーっ、エリック・ハーバート君! それから宮森華さん。こんにちはぁーっ」
階段の踊り場から甲高くて張りのある声が響いた。声の主は丸々と太っていたが、体は小さくて一瞬小学生と見間違うほどだ。
「こんにちはーッ、東山コーチョー先生」
校長と呼ばれた男は足早に階段を降りハーバートの前に立ち、彼を見上げた。
「エリック・ハーバートくーん、この高校に慣れましたかぁ?」
「イエス! と言いたいところデスガァ、まだ何処に何があるかよく分からないのデース。それで宮森サーンにィ、いろいろ案内してもらっていマース」
「オーッ! それはグッドアイデアです。学校案内に宮森華さんほど適任者はいないですよーっ。何せ彼女はこの高校の・・・。おっとっと、失礼。うむ、彼女はとても優秀ですからぁ、うんうん」
「ソーですゥ、とても頼りになりマース」
「そうでしょうーっ、そうでしょう」東山校長は頭頂部まで禿げ上がった丸い頭を何度も前後に動かし、丸い眼鏡の奥にある丸い目は機嫌よさそうに笑っていた。
「僕は君がこの伝統ある城北高校を選んでくれてーっ、とても喜んでいますぅ。ぜひ宮森華さんと共にこの高校を盛り上げていってくださいねーっ」東山校長はそう言うと短い右手を上げて職員室に入って行った。
華は東山校長が突然自分の目の前に現れたことに驚いた。高校の始業式や卒業式などの式典は短時間で全てモニターを通して行われている。だから生身の東山校長を間近に見ることは今までなかった。(エリック・ハーバートはこの高校を選んできたの? 私はとても優秀? まさか)彼女の頭の中に東山校長の甲高い言葉が何度も繰り返され響いた。
「宮森サーン、ドーしたのデスカ?」
「ハーバート、あなたはこの高校を選んでアメリカから来たの?」
「イエス、この街にはマイファザー、お父さんの友だちがいるのデース。彼は僕のお父さんのとても大切な友だちで、僕も彼のことをとても信頼していマース」
「フーン、海を渡った友情なんだ。凄いねーっ」
「イエス! お父さんの友だちはスペシャルなァ人デース。彼が転校するのなら城北高校がベストだと言いマシタァ。だから僕はこの高校を選んだのデース」
(この高校がベスト? そうなのかな・・・。この街にある高校はどれも同じような気がするけど。もっとも私だって他の高校のことはあまり知らないけど)
「宮森サーン、学校案内の続きをお願いシマース」
「アッ、そうね。じゃあ次に行きましょう」
二人は渡り廊下を西に向かって歩いた。二十メートルほど行くと右手にカフェと食堂が併設されている平屋建ての建物があった。
「宮森サーン、こちらのカフェ、面白そーデスネ」
カフェの入り口の木製ドアの上に「The lighthouse」と書かれたプラスチックの看板がかかっていた。ハーバートはその看板を見つめていた。
「このカフェに入る? 私もここ、お気に入りなんだ」
「オーッ! いいデスネェ。コーヒーブレイクしまショウ」
華とハーバートが店の中に入ると「いらっしゃいませ」という落ち着いた声がした。鳶色のカウンターの奥にある厨房からオレンジ色のバンダナを頭に巻いた女性が出てきた。
「こんにちは、綾子さん。こちらはアメリカからの転校生、エリック・ハーバート。一週間前から私のクラスメイトになりました」
「初めまして、エリック・ハーバート、デース」華とエリックはカウンター席に座った。
「ようこそThe lighthouseへ。私は飯塚綾子、一応この店の店主です。それからこちらは内田南ちゃん、よろしくね」
内田南と呼ばれた若い女性は「内田です・・・」と消え入りそうな声で小さくお辞儀をした。そして華とハーバートの前に水の入ったグラスを置いた。内田南も頭に水色のバンダナを巻いていた。
「華ちゃんはいつものアメリカンコーヒー、ミルク入りでいいのかな?」
「ハイ、それでお願いします。ハーバートは何にする?」
「僕はブレンドコーヒー、ブラックでお願いしマース」
「OK、エリック・ハーバート。南ちゃん、アメリカンとブレンドを一つずつ、お願いします」
南は「ハイ」と小さく頷いた。
「華ちゃん、晶君の調子はどうなのかな? しばらく彼の顔を見ていないし」飯塚綾子はそう言いながら華とハーバートの顔を交互に見た。
「晶は相変わらずです。相変わらずフラフラしています」
「そうかぁ、晶君はこの店に来ても華ちゃんと話さず本ばっかり読んでいて。私は晶君に言ったことがあるのよ。晶君、華ちゃんを大切にしないと他の男の子にとられちゃうよ。華ちゃん、すごく可愛いし他の男子達にも人気があるんだからって」
「そんなことないですよ」華は顔を赤くして、綾子の言葉を否定するように右手を目の前で左右に小さく振った。
南が二人の前に黒いソーサーと黒いコーヒーカップを置いた。
「それで噂の転校生が華ちゃんにアタックしたのかな。ハーバート君はアメリカ人だし」
「違いますよ、綾子さん。今日彼に校内を案内してほしいと頼まれたので、いろんな教室とかを案内しているだけです」
「ハーバート君、本当?」綾子は楽しそうにエリックを見た。
「オーッ! そのことについてはノーコメント、デース」ハーバートもニコニコ笑いながら綾子と華を交互に見た。
華は東山校長やハーバートが自分のことを優秀だとか頭が良いとか評価してくれることに戸惑っていた。そして目の前にいる綾子が自分の容姿を褒めてくれることも信じられなかった。
「ところで華ちゃん、ハーバート君、三日前にこの店に珍しい人が来たのよ。誰だかわかる?」
「この店に・・・珍しい人ですか?」華は黒いソーサーに黒いコーヒーカップを置きながら綾子の話題が変わったことに安堵した。
「ウーン、僕はまだこの学校の人と名前があまり一致していないデース。わかりまセーン」
「オーッ、確かにハーバート君には難問だったわね」
「ナンモン?」
「ナンモンは難しい問題という意味よ、ハーバート」
「イエス、イエス。分かりました、宮森サーン」
「ヒントはねぇ・・・よく顔は知っているけど会うことがない人かな」綾子はカップや皿を洗いながら言った。
「ひょっとして校長先生ですか? 東山校長」
「ピンポーン! さすが賢い宮森華ちゃん。そうなのよ、私この店を始めて三年になるけど東山校長が三日前に初めて来たの。そしてホットドックとブレンドコーヒーを注文したの」
「どちらもこの店の売りですからね」
「アハハ、この店にはホットドッグとパスタとコーヒーとオレンジジュースしかないけどね。あっ、モーニングセットも少しだけやってるかな」飯塚綾子は皿を拭きながら悪びれずに言い放った。
「綾子さん、それで校長先生はこのお店で食事されたのですか?」
「うん、そう。それで校長がこう言ったの。『やっぱりThe lighthouseのホットドッグとコーヒーは美味しい』って。校長、この店のものを食べるのは初めてなのにさ」
「どこかのお店と勘違いしているんじゃないかな?」華はさきほど会った東山校長の上機嫌な様子から綾子の話が頭の中で何か引っかかった。
「あのぅ・・・、あたし時々、コーヒーとホットドックを職員室に持っていきます。その時に校長先生も注文されて食べられたのではないかと・・・」内田南は自信なさげに言った。
「職員室に持って行ったことあったかな?」
「あっ・・・、はい・・・たまにあります」
「まあいいや。私の記憶なんて当てにならないし」綾子はブラウンのマグカップにコーヒーを入れて飲み始めた。
華は小さく首を傾げて南を見た。(ときどき綾子さんと南ちゃんの話、ズレるんだよなぁ。私だったら少しイラっとくるのに。それって思い違い? それとも二人の記憶が違っているのかな)彼女は両手でコーヒーカップを持ちながら考えた。(少し前に雲が割れて夜空の星がたくさん現れたことも私の思い込みなのかな? 私が訊いた人は誰も見ていなかった。晶が言ったように、私の記憶は私の願いが勝手に作ったものなのかな?)華はコーヒーをちょっとずつ味わいながら考えていた。彼女の目の前に水色の小皿が置かれラムレーズンバターサンドが一個のっていた。
「あの・・・、昨日面白いお店を見つけて・・・買ってきました。よかったら・・・どうぞ」内田南は囁くように言った。
「ありがとう、南ちゃん」華はクッキーを齧ると引き締まったラムレーズンの甘さとバタークリームの柔らかな甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しい!」華は自分の記憶を疑うことを止めようと思った。(あの光景を見たのは私だけだとしても、素敵な記憶として残しておけばいいんだ。私の記憶は私のものだもの。由美さんもそう言ってくれたし)彼女は目の前で恥ずかしそうにしている南を見た。
「オーッ、これはコーヒーに合いますネーッ」
「南ちゃん、グッドジョブ!」華は南に向かって右拳を握って親指を上げるグーポーズをした。
アメリカから来た転校生とポニーテールの女子高生に褒められた南は、彼らから離れて食器を拭き始めた。
(南ちゃん、あんなに喋ったことあったかな?)
「華ちゃん、ゆっくりしてもらうことは嬉しいけど、午後の授業サボるのかな? もうすぐ一時だよ」綾子は意地の悪い笑みを浮かべながら、壁にかかっている丸い時計を見た。
「エッ! ホント、大変! ハーバート、教室にもどるわよ」
「オーッ、宮森さん、マジメですネーッ」
「私は授業にちゃんと出るって決めているんだ」
二人は慌ててレジにいる南にコーヒーのお金を払い、店を出て行った。
「フフフッ、宮森華はいつも面白いわね。そう思わない? 南ちゃん」
「・・・・・・はいっ」内田南はそう答えると、先ほどまで華が座っていたカウンター席を見つめた。彼女にはそのカウンター席がいつもと違ったように見えた。ダークブラウンの木製の背もたれのある頑丈な椅子だが、背もたれの部分がいつもより艶やかさを増しているように見えたのだった。




