表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い鳥の世界  作者: 西野了
28/93

超人たちの宴

第1部「祝祭」終了

 水樹晶は深い霧の中、ゆっくりと自転車を走らせていた。村上玲と別れて二十分が過ぎた。自転車のライトでは深い霧のため数メートル先の風景も曖昧にしか見えない。左側に児童公園がぼんやりと見えた。すると前方に、彼の進路を塞ぐように二人の人影が浮かび上がった。一人は異様な巨体で、もう一人は水樹晶よりも小さかった。彼らは紺色の作業服を身に着けていた。

「高校生がこんな夜にウロウロしちゃっていいのかなぁ」水樹晶はその声に聞き覚えがあった。その声はどこか頭の中を軽く引っかかれるような不快さがある。

「水樹晶君、少し僕らと話をしないかい? 知らない仲でもないし。なあ小柱」

「うん」仲野仁に呼ばれた小柱徹は一歩前に歩み出た。その巨躯が少し前に出ただけで水樹晶は強風が吹いてきたような圧力を感じた。そして目の前にいる二人は村上玲を襲った自分を捕縛した人間だと理解した。

「分かりました」水樹晶はそう言うと自転車から降りた。

「じゃあここの公園のベンチに座って話をしよう」仲野仁は決定事項を告げるように言った。

 公園の錆びた南側の門をくぐると東側に電灯があり木製ベンチが二台あった。

「あそこのベンチに座らないか」仲野が言いながらそちらの方に歩いて行く。水樹晶は仲野の後をついて行き、彼の後ろには小柱がゆっくりと歩いている。水樹晶と小柱との距離は二メートルほど離れているが、水樹晶は背中全体が空気の塊に押されているように感じた。

 水樹晶はベンチの横に自転車を立てると彼は木製ベンチを右掌で触った。木製ベンチは乾いていた。水樹晶はベンチの隅に座った。仲野はベンチに座らずに水樹晶の前に立っていた。小柱も座らずに仲野の隣に立っている。

「水樹君、君は怪我の回復が早いねー。あれだけボコボコにやられたのにもう治っている」

 仲野はニヤニヤ笑いながら少年のような高校生を見つめていた。

「はい」水樹晶はそう言うと顔を上げて自分を痛めつけた相手を見た。

「だけどそうなったのは君がうちの店員、あの紅いメガネの子を脅して連れ出そうとしたからだよ。なあ小柱?」

「ん」190センチを超える巨漢は小さく頷いた。

「その件については悪かったと反省しています」水樹晶は仲野の細い目を見ながら答えた。

「反省しなくてもいいよ。俺たちみたいな出来損ないは、君たちみたいな輩がいないと困っちゃうのさ。そうだろ相棒?」仲野は隣の小柱を仰ぎ見たが相棒と呼ばれた男は無反応だった。

「なあ水樹君、君はあの紅いメガネの店員が好きなのかい? 先ほどまでのデートは上手くいったのかな」

「えっ、あの・・・」水樹晶は一瞬驚いたが、すぐに納得した。

「君は襲った相手を喫茶店に連れ出して何を話していたのかな。出来れば教えてほしいなぁ」仲野の浅黒い顔の色が徐々に紫色に変わってきた。

「おい、仲野」小柱が眠たそうな目で仲野を制した。

「わかってるよ。ちゃんと話を聞いた後だ」仲野は充血した細い目で小柱を数秒間睨んだ。

「水樹・・・くん。俺たちの店がなぜ事件や事故が少ないのかわかるか? それは君みたいな奴がことを起こす前に排除する人間がいるからだ。わかるだろ。俺たちもあまり手荒な真似はしたくない。へへへっ。あの村上玲という店員と何を話したのかな?」仲野の両手の指は鉤型になっていた。

「僕が前に犯した過ちについて謝罪しただけです」

「謝っただけで三時間も喫茶店でしけこむのか! 他にも何か話しただろ」仲野の口角が吊り上がり黄色い犬歯が現れた。

「あとは個人的なことで、あなたに話すつもりはありません」水樹晶は仲野の顔を真っ直ぐ見た。

「個人的なことだと。ナイフを振り回す強盗犯にプライバシーはないんだよ! しかし何だな。ナイフ突きつけられた相手とヘラヘラ話すあの女も変な奴だ。馬鹿じゃないのか! お前にナイフを突きつけられて気持ち良かったのかもしれねえな。あの紅いメガネの女は変態女かぁ、へへへ―」

「ぐっ」水樹晶は仲野を睨みつけた。

「何だぁ、その目は」仲野の声が水樹晶にとどく前に、目の前にいた男の姿は水樹晶の視界から消えた。

「ブン!」という空気を裂く音が水樹晶の頭上で鳴った。「ドン」という音とともに仲野の体は小柱の右足に弾かれた。仲野は後方宙返りしながら水樹晶から五メートル離れた地点に着地した。

「小柱ぁ、何の真似だぁ」

「今、この子をやる理由はないよ」小柱はベンチを背に仲野と対峙した。

「てめえ、俺に逆らうのか」

「・・・」

「そいつは俺たちが排除すべき人間だぜ。てめえはいつものように俺の言うことを聞けばいいんだよ。そこをどけ!」

 小柱は動かない。

「小柱、てめえ・・・」

 仲野は腰を落とし前傾姿勢をとった。右手を左手よりも少し前に出す構えを取ると深く息を吸い始めた。彼が息を吸い終えた瞬間、四足で走り出し一気に小柱の前に移動した。小柱の左掌底が仲野の顔面を捉える直前に、仲野の左正拳が巨漢の鳩尾にめり込んだ。「うっ」という声とともに小柱の左裏拳が仲野を薙ぎ払おうとしたが、仲野の姿は無かった。仲野は小柱の五メートル左の位置に立っていた。霧の中、小柱が仲野の姿を確認したとき、小柄な男は宙を舞っていた。前方回転した仲野の右踵が小柱の頭頂部に蹴り落された。小柱は両手を交差させ、その右足を受け止めた。その刹那、仲野の左踵が小柱の右側頭部にめり込んだ。その衝撃で小柱は左に体が傾いたが左足で体を支えたと同時に右足を踏み込んだ。小柱の左拳が空中に浮遊していた仲野を捉えた。小柱の剛拳が仲野の腹部にとどく前に「パン!」という炸裂音が響いた。小柱の左拳を仲野は両足裏で受け止めた。その反動で彼の体は高く宙を舞い音もなく地面に降り立った。

 先ほどよりも三メートルほど長い距離で二人は再び対峙した。自然体で立っている小柱の右側頭部から鮮血が流れている。

仲野は右手刀を前にして体を前後左右に揺らせている。彼の口からひと筋の血が流れ落ちた。

「小柱ぁ、てめえも勁を使うのかい。さすがは俺の相棒だ」

「この子はまだ、何もしてない」

「おい、てめえが俺に逆らったことがあるか? 無いだろ。てめえをおかしくさせたのが、そのガキだぁ」

「・・・・・・」大男は考えていた。

「てめえがバカじゃないことは知っている。俺たちの仕事はあの場所を守ることだろ。最近あの場所が少し変だ。不安定になってやがる。そのガキもその要因の一つだ。小柱、てめえもわかるだろ?」

「わからん・・・」

「そうかい。じゃあ、マジでわからせないといけねえなぁ」

 仲野は構えを解いてゆっくりと小柱に向かって歩き出した。水樹晶の目には仲野の体がぼやけたように見えた。最初は深い霧のためだと思ったが、それは仲野の不自然な動きのためだった。仲野の小さな体は左に揺れると見えたら右にあり、そう確認すると少し後ろに下がった位置にあったりした。その捉えどころのない体が小柱の間合いに入った。小柱はノーモーションで右フックを放ったが仲野の体をすり抜けた。その瞬間巨漢の太い左足が跳ね上がって仲野の胸を砕いたように見えた。

「残念」仲野は笑いながらそう言うと、右掌で相棒と呼んだ男の左わき腹を軽く押した。「ボン!」という音とともに、小柱の巨体が右へ四メートルほど弾け飛んだ。そして小柱の口から赤い血が溢れ出た。

「へぇー、これでも倒れないのかい。頑丈な体だなぁ。小柱ぁ、俺の言うことを聞いたほうが長生きできるぜ」

 仲野が小柱との間合いを再び五メートル程とったとき、公園の入り口にスカイラインのパトロールカーが音もなく止まった。「バタン」というドアを閉める音が響き、岩を思わせる頑健な警察官が二人の間に入った。

「決闘はいけませんね」透き通った声が公園の入り口から聞こえてきた。深町智は瞳の動きだけで仲野仁、小柱徹、水樹晶を確認した。そして足早に水樹晶の座っているベンチへ歩いて行った。

「水樹晶君、通報、ありがとうございました」

「お巡りさんよう、そいつは強盗犯だぜ」仲野は両手をだらっと下げて少し前傾して立っていた。

「そのことは存じ上げています。しかし水樹晶君はマインドコントロールされて、あの犯行に及んだということで、その件に関して処理は終わっています。それにそのようなケースは日常茶飯事ですので」

「ケッ、サツは生ぬるいなぁ」

「それよりもAFZの優秀なスタッフがこのような場所で決闘というのは穏やかではありませんね」

「優秀なスタッフ? 出来損ないだろ」

「それを言うなら我々はほとんど出来損ないですね」

「ふん、偉そうに・・・。おい、お巡りさんよう、これは決闘じゃなくて仕事の研修だ」

「そうですか。それは失礼しました。しかしあまり厳しい研修をされないように。そちらの方はかなり体が傷つけられているようですが」深町は小柱を見たあと仲野を涼しげな瞳で見つめた。

「俺もお巡りさんと研修する趣味はないぜ。小柱ぁ、明日ちゃんと仕事に来いよ」仲野は水樹晶を一瞥すると楽しそうに笑った。そして南の錆びた門をくぐって公園から姿を消した。

 小柱は仲野が出て行った門を見て自分の血の付いた分厚い唇をもごもごと動かした。それから首をゆっくり動かして水樹晶を見た。彼はしばらくベンチに座っている男子高校生を静かに見つめていた。そして何度か首を振った。何か納得がいかない表情を浮かべて公園を出て行った。

 深町は小柱が出て行ったことを確認すると水樹晶の隣に座った。

「大磯君、君もこっちへおいでよ」

「ハッ!」大磯は駆け足で二人の前に来た。それから回れ右をして二人に背を向けた。背筋を伸ばし両足は肩幅の間隔に開き両手は尾骶骨の所で左手を上にして重ねた。

「水樹君、通報ありがとう。あの二人が真剣に戦うと下手をすれば、どっちかが死んじゃうからね。そう思うだろ、大磯君」

「ハッ、彼らはとても危険であります」大磯は姿勢を変えずに答えた。

「さあてと・・・」深町は長い足を組み右ひじを右膝についた。そして芸術的なラインの顎を右手にのせて水樹晶を見た。

 水樹晶は隣に座っている警察官に見つめられ緊張したが、嫌な感じは湧いてなかった。

「水樹君。怪我は治ったね、良かった良かった。でも君、雰囲気が変わった? 何かあったのかな」

「いえ、別に」

「そうか、失礼」深町は優しく笑った。

「ところで水樹君、これは職務質問ではないけど、もしよかったら彼らが何故戦ったのか、その原因が分かれば教えてくれないかな?」

 水樹晶は今日の出来事を話したくなかった。

「彼らは僕がある女性と長時間話した内容を知りたかったのです。正確には小柄の男の人だけが知りたかったのですが」水樹晶は自分が突然話し始めたことに驚いた。彼は慌てて隣に座っている警察官を見た。美しい警察官は相変わらず優しく微笑んでいる。

「その女の人は先日僕が襲った村上玲さんです。僕は彼女に謝りたくて今日の夕方、AFZに行きました。村上さんは一階の食料品売り場にいなくて二階の事務所みたいなところにいました。僕は彼女が仕事を終えると、話がしたいとお願いしました。村上さんはいいよと言ってくれて六階の喫茶店で僕の話をいろいろ聞いてくれました」水樹晶は自分の口が勝手に動いてしまうことをどうすることもできなかった。

「僕は彼女に街を出ることについて尋ねました。村上さんはこの街に人じゃない気がしたからです」

「他の街から来たのかな?」

「はい、村上さんは他の街から来たそうです・・・・・・。あのことがあってから僕はいろいろ考えました。どうしてあんな事件を起こしてしまったのか、自分は今の暮らしに何かとても問題を抱えているのではないか、自分はこれからどういう風に生きていきたいのか、そんなことです」

「うん」深町は心配そうな色を湛えた黒い瞳で隣に座っている高校生を見た。

「そんな中で自分はこの街を出て行くことが自分にとって必要ではないか、という考えも浮かんできました。いや、そうじゃなくて、僕はずっとこの街を出て行くことを考えていた、欲していたような気がしたのです。それでよく分からないけど僕の頭の中に村上さんの存在が徐々に大きくなって、結局今日彼女に会いに行きました」

 水樹晶は話を止めることを諦め始めていた。彼は目の前に背を向けて立っている岩のような警察官を眺めた。その警察官はヒトではなくこの公園のオブジェのように見える。そして深い霧の中に立っているのにその警察官の輪郭がはっきりと見えた。水樹晶は改めて目を凝らして見た。するとその警察官の体の周囲の霧が小さく渦巻いていることが分かった。

「僕の同僚があそこで守っているので何の心配もいらないよ」もう一人の警察官が親しい友に語りかけるように言った。

「・・・あのお巡りさん、えっと・・・」

「僕は深町、あそこで立っている彼は大磯です」

「深町さん、僕は二日前にこの街を出て行ったのです」

「二日前・・・、雨が降った日かな?」

「ええ、その日は学校帰りに同級生とお気に入りの古本屋に行っていました。確かに雨が降っていました。雨が久しぶりに降っていた・・・・・・」しばらく水樹晶は話すことを止めてしまった。深町も何も言わなかった。

「立川書店の窓ガラスに雨が流れ落ちていた。雨は止むこともなく降り続いていた」また水樹晶は黙り込んだ。彼は目をつむり眉間に小さな皺を寄せて深く思考していた。

「深町さん、僕は雨が降ったからこの街を出て行ったのだと思います」

「雨が降ったから君はこの街を出て行ったと?」

「はい、そんな気がします。上手く言葉では言い表せないけど」

「そして今、君はここにいる」

「はい、街を出て西に向かう歩道を歩いている途中で雨が止んで、ある男の人に会いました。AFZの岡野さんです。彼にまだ街を出て行かない方がいいと言われました。そして僕はこの街に帰ってきました」

「ふーん、岡野氏がねえ・・・・・・」深町は長い足を組み替えて、また同じように左膝に右肘をついて端正な顎を右手に置いた

「家に帰ったのは昨日の朝でした。僕はとても疲れていて学校を休みました。自分の部屋のベッドで眠り、目覚めたのは夕方の五時でした。目が覚めて部屋をぼんやりと見ていると何かよそよそしい感じがしました。慣れ親しんだ自分の部屋なのに他人の部屋のような気がしたのです」

「うん」深町は小さく頷いた。

「それでも時間が経つにつれ自分の部屋にいることに落ち着きを感じ始めました。僕は一階の台所に行ってお湯を沸かしコーヒーを淹れました。マグカップを持って自分の部屋に戻り椅子に座ってブラックコーヒーを飲みました。その時、コーヒーの味が少し変わったように感じました。ザラッというか喉にちょっと抵抗があるような感覚を覚えた。いつもと同じ種類のコーヒーなのですが。不思議な感覚でした。それから本棚にある本の題名を一つひとつ読み始めました。僕の本棚にある本は繰り返し読んだ本か、これから繰り返して読むであろう本しかありません。でもかなりあります。僕はときどきこの作業をします。そうするとその本の好きな場面が脳裏に現れていい気分になることができます。僕がそうやって作品の好きな場面を思い起こすのですが、お気に入りの場面って本筋とはあまり関係がないようなこと、つまりエピソードが多いのです。例えば主要な登場人物がベートーヴェンのピアノ三重奏をその場面しか出てこない喫茶店主と語り合うとか、最初のところしか登場しないお抱え運転手が主人公に電話で信者の悩みを解決する神様の話をするとか、そんな場面がいつも頭に浮かびます。昨日はカフカの『審判』のところで目が留まりました。その作品の主人公が弁護士の家に訪問し、そこでセクシィな女の人が弁護士といちゃつく光景が何故か浮かんできました。そのあと僕は急に落ち着かなくなって家を出てしまいました。外は既に暗くなりつつあります。僕は何の迷いもなく立川書店、あっ僕がよく行く古本屋ですが、そこに向かいました。その店は開いていました。その店は僕が行くときはいつも開いています。僕はその日、端の本棚から一冊ずつ本をチェックしていきました。普段はそんなことしないのですが。何故かな・・・」水樹晶はそこまで話すと一息ついた。彼は少し疲れたように見えた。

「晶君、何か飲むかい?」深町はベンチの横にある自動販売機を指さした。

「いえ、結構です。さきほどロアノでコーヒーを二杯飲みましたから」水樹晶はそう答えると、先ほどまで喫茶店で村上玲とコーヒーを飲みながら会話をしていたことを思い出した。村上玲との会話は現実感がなかった。けれども彼女の存在は、水樹晶にとって捉えどころがないけれども、彼の中にある激しい飢餓感をおぼえさせるものだった。気がつくと、相変わらず微笑んでいる深町の顔があった。

「本棚を端から見ていったというところからでしたね。東側の本棚、店の奥の方ですが、そこには様々な写真集が置かれていました。今はもう見ることのできない夜空の星々とか、人工衛星が撮った宇宙空間の写真とか、そんな種類の写真集がかなりありました。それから自然の風景、森林や美しい花や木の葉が紅く染まった光景とか今は失われたものばかりを写したもの。そして空の風景写真もありました。信じられないけど深町さん、雲が白くて空が青くて太陽が輝いて月が浮かんでいるのです・・・。ああっ陽が射しているのに雨が降っている光景もあった。すべて過去の記録ですが」

 深町は黙ってしばらく瞳を閉じていた。

「そう、それらは全て過去の記録です。今となっては未来の記憶かもしれない。僕は何故この時代に生まれてきてしまったのか? 僕は素晴らしい本に接すると、時々そんな風に思うことがあります。自分はこの時代に生まれるべきではなかった、それは間違ったことではないのかと思うのです。僕がそんな考えに囚われていると隣に由美さんが立っていました」

「由美さん?」深町は首を少しだけ捻った。

「あっ、立川由美さんはそのお店のオーナーです。彼女はいつも僕に優しくしてくれる素敵な人です。その時も『晶君、コーヒーとお菓子があるから休憩しない?』と言ってくれました」

「うん」深町は警察帽をとって左手で金色の前髪をかき上げて再び着帽した。水樹晶はハンサムな警察官の仕草を見ながら、隣に座っている男は立川由美のことを既に知っているのではないかと思った。

「そのお店にはソファーがあってテーブルもあって、僕はよくそこでコーヒーやお菓子をご馳走になります。その時もコーヒーとビスケットをいただきました。ビスケットは小麦の香りがしてとても美味しかった。よく考えてみたら僕は朝からそれまでコーヒー以外は何も口に入れていなかったのです。由美さんもソファーに座ってコーヒーを飲んでいました。僕は彼女に『昔の自然風景は信じられないくらい美しい。由美さん、以前の自然は本当にあれ程美しいのですか?』と訊いてしましました。彼女は白いカップを白いソーサーに置き答えてくれました。『そうねえ、あれ程美しいと人の手が入っているかもしれないわね。でも青空も夕焼けも夜空に煌めく星々も存在したと思うわ』由美さんの言葉を聞いて僕は自分がたまらなく一人ぼっちだということを実感しました。街を出て雨に濡れながら荒野を歩いている僕が本来のあるべき自分なのだと・・・・・・。それから先のことを僕はあまり覚えていません。立川書店にいつまでいたのか、家に帰って食事をしたのか、翌日学校に行ったのか、全て曖昧なのです。気がつけばAFZの二階の椅子に座って村上玲さんが職場から出てくるのを待っていました」

「・・・・・・」

「玲さんは何回も街を出て行って違った街で暮らしてきた。それはこの世界の外にいるみたいです。それでもちゃんと生きている。僕はそんな彼女にとても惹かれている・・・・・・」

「水樹君、君は村上玲さんを求めているのかな?」

「分かりません。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「うん」深町智は微かに頷くと立ち上がった。

「大磯君、そろそろ帰ろうか」

「ハッ」大磯は瞬時に回れ右をして深町に敬礼した。

「水樹君、いろいろ話してくれて、ありがとう。もう遅いから気をつけて帰るように」

 二人の警察官は深い霧の中、スカイラインに乗り込んだ。スカイラインは白いフォグランプを点けて、ゆっくりと走り出した。

 水樹晶は銀色の腕時計を見た。ちょうど⒓のところで長針と短針が重なっていた。






 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ