祝祭の夜
岡野高広がクロノの木製ドアを開けると、カウンターの一番奥に座っている高梨香が手を上げた。彼は真っ直ぐ香の隣に行き彼女を見下ろした。
「岡野さん、お久しぶり」香はにこやかな表情で高広が席につくように促した。
「ああ・・・」高広は促されるまま席についた。
「お酒、何にされます」
「君と同じものでいい」
名都が高広の前に紺色のコースターを置き水の入ったグラスを置いた。
「名都さん、こちらの方にもボウモアを。ロックでいいかしら?」
「構わない」
「分かりました、ボウモアのロックで」名都の抑揚のない声が二人の耳にとどいた。
高広は背広の内ポケットからセブンスターを取り出して口に咥えた。「シュッ」という音とともに差しだされたマッチのオレンジ色の炎が煙草の先を焼いた。それから香はマッチの炎を一息で消した。
「どうぞ」
名都が高広の前にあるグラスと紺色のコースターを少し移動させた。そしてアイボリーのコースターをグラスのあった位置に置いた。それから琥珀色の液体が入ったバカラをその上に置いた。高広は名都の顔を見て一瞬眩しそうな顔をした。
「岡野さん、私からの電話、ビックリしたかしら?」
「ああ、携帯電話はなかなか繋がらないからな」
「私たち、相性がいいのかも」
「さあ、どうだろうな」高広はゆっくりとボウモアを味わった。香も彼の行為に会わすようにバカラに紅い唇をつけた。名都はカウンターの奥でグラスを磨いている。
「ねえ、岡野さん、街の外の様子はどうだったの?」
「ん?」高広は無表情のまま香を見た。
「パパは何でも教えてくれるの、フフッ」香はバカラを右手で差し上げてグラスの中の丸い氷を回転させた。高広はゆっくり回転する氷を見ながら自分の頭が後ろに引っ張られているような感覚を覚えた。
「俺はなぜ自分が街の外に出たのか、分からない」
「あら、そうなの」
「気が付いたら大きな道路わきの歩道を歩いていた。街の外はほとんど荒れ地だ。曇っていて風が吹いて何もない」
「ねぇ、岡野さん。工場とか農場とか発電所とかはなかったの?」
高広は目を閉じ何事か思い出そうとした。
「俺はかなり長い間、街の外を彷徨っていたが、そのような施設は見当たらなかった」
「ふーん、そうなの」香はバカラのグラスを右手で差し上げて、また丸い氷をゆっくりと回転させた。すると黄金色のダウンライトの光が回っている氷に弾かれて小さな星の輝きになった。
「フフッ、綺麗でしょ。岡野さん・・・」
高広はそれには答えずにボウモアを飲んでいる。
「岡野さんは星空を見たことがある?」
「ない」
「一週間前くらいだったかな。私、何か胸騒ぎがしてベランダに出たの。すると雲が割れてたくさんの星が光を放っていた。金色、銀色、紅、青、白、オレンジ。岡野さん、星の光は様々な色があるって知っていました?」
「いや、知らないな」
「あんな綺麗な光景を見たら、この世界も何とかなるかもしれないって思いました」
「そうか・・・・・・」
香は首を傾けて高広を見つめた。高広はボウモアをゆっくりと飲んでいた。
「岡野さん、会社にはもどらないの?」
「もどらない」
「野神のおばさまを襲ったり、無断欠勤を続けたから?」
「そうだ」
「ふーん、でもそれらのことって大したことじゃないと思うけど」
「働いていない君に何がわかる?」高広は呟くように言った。
「フフッ岡野さん、私は学生だけど働いていないってことにはならないのよ。パパにはとても信頼されているし」
「・・・・・・!」高広の脳裏にある場面が浮かんだ。村上玲が完全武装した屈強な保安隊員と万引き犯―老婆に変装した香をセキュリティ対策室に連れてきた光景だ。(あの時、香は老婆の姿に変装していた・・・・・・。だが玲は香が中年の主婦や颯爽としたOLにも変装していたと言っていた。あの時の老婆の顔は・・・・・・)ふと気付くと高広は香の瞳を見つめていた。その瞳は漆黒の闇のように周囲の光を吸い込む力を持っていた。香の黒い瞳が高広の眼前に迫ってきて全てを覆った。
「どうしたの? 高広さん」香の右腕が高広の左腕に絡んでいた。
「ああ、香ちゃんか」
「あーっ、ひどい! その言い方」
「ごめんごめん、ちょっと長い夢を見たような」
「ちょっと、長い夢? 何ですか、それ」香は楽しそうに笑った。
「いや、何か頭の中がぼんやりと霧がかかったような・・・」
「高広さん、霧の中を歩いていたの? それはこの街ではよくあることじゃないかしら?」
「いや、実際に歩いていたわけではないような・・・、あれっ、やはり霧の中を歩いていたのかな」
「フフフッ、それよりもお酒をまだいただくでしょ? ボウモアでいいかしら」
高広が頷くと香は名都にボウモアを注文した。
名都は「かしこまりました」と答え、高広の前に新たなグラスを置いた。
「でも高広さんはよくこの街に戻ってこられましたね。滅多にいないのでしょ、そんなタフな人」
「まあ俺は天才体術家だからな、ふふふっ」
「野神のおばさまをもう少しで殺しかけたしね」
「アレー! そんなことまで知っているの、香ちゃん。でもあの時は操られていたからなぁ、恥ずかしい話。この俺様が強烈な暗示にかかるとはねぇー」そこまで話すと高広は駄菓子屋の老婆を思い出した。(あの婆さん、誰かに似ているような、誰だろう? これまで会った誰かに似ている?)彼は数秒間、思考の底にいた。
「野神のおばさまがいなくなると、もう少し風通しがよくなるかもしれない」
「エッ、なに? 香ちゃん」
「ううん、独り言。女の子はときどき独り言を言うの。わかるでしょ」
「もちろん!」
「ところで高広さん。あなたはいつこの街に戻ってきたの? かなり長い間、街の外にいたようだけど」
「うーん、そこのところが曖昧でねぇー。思い出そうとするとまさに頭の中に霧がかかったような状況になるのだ」
「そうなの・・・、でもこの街に戻るきっかけはあったのでしょう?」
「きっかけ?」高広は片肘をつき左手に顎をのせて考えた。しかし何も思い浮かばなかった。
「高広さんと電話が繋がったのは昨日の午前中だったわ。おそらくその時にはあなたはこの街にすでに戻っていたと思う」
「ああ、俺の部屋で香ちゃんからラブコールがあったよ」高広の顔が緩んだ。
「私、それまで何回も高広さんに電話をかけていたの、二週間前から何度も。でも全然繋がらなかった。だから昨日電話が繋がったということは、その前の日に何かあなたの身にあったからじゃないかな?」
「二日前ねーっ」高広は片肘をついたままだった。(「バサバサババサッ!」、黒い鳥の群れが目の前を横切った。奴らが俺の視界を塞いだ。俺の目の前に誰かがいた。この人間に俺は会ったことがある・・・。「人間を操る―マインドコントロールとか・・・時間をジャンプ、させるとか」伊能ハジメの声が聞こえる。あの機械オタク、何を言っているのだ? いきなり太陽の陽射しが部屋中に溢れた! ここは何処だ? 部屋が真っ白に輝いて目が痛い! 裏保安のチビが飛び上がって強盗を痛めつけている。あのバカ、絶対にドSの変態だ。人の顔をぐちゃぐちゃにして喜んでいる・・・。狭い部屋で勤と一緒にいる。高校の相談室で誰かと話しているのか? 誰と話している?)彼の脳裏にぼやけた場面が浮かび上がっては消えていった。彼は二日前の記憶を辿っていったが、そこには大きな穴が開いている。その大きな穴の中に脈絡もなく浮かんできた記憶の光景が吸い込まれていく。
「どうしたの、高広さん」カウンターテーブルに置いてあった高広の左手に香の右手が重なっていた。
「いやぁー香ちゃん、一昨日のことを思い出そうとしているけど、何故か思い出せない。他の記憶が勝手に頭の中に浮かんできて邪魔する」高広は眉間に皺を寄せて困った顔で香を見た。
「高広さん、どんな記憶が浮かんでくるの。聞かせてくれる?」
「あまり脈絡のないことばかりだけど・・・・・・。例えば黒い鳥がバタバタと目の前を飛んでいくとか、勤と高校の相談室にいるとか、小さな男が誰かの顔を踏みつけているとか」
「黒い鳥が高広さんの前を飛んで行ったの?」香は少しの間、珍しく考え込んだ。
「高広さん、知っている? 黒い鳥は何かの前兆って言われているの。或いは〔しるし〕とも。以前パパから聞いたのだけど。黒い鳥が高広さんの前に現れたことは、あなたにとってとても大切なことじゃないかしら?」
「とても大切なことねぇ」高広は胸の内ポケットからセブンスターを取り出し口に咥えた。香は当然のように彼の煙草に火をつけた。
「サンキュー、マイハニー」高広はセブンスターをくゆらせながら考えた。(俺にとって大切なもの。大切なものって俺にあるのか?)彼の持っているセブンスターの灰が落ちそうになった。香は透明なガラスの丸い灰皿をセブンスターの灰が落ちる場所に置いた。セブンスターの灰は灰皿の中央に落ちた。
「香ちゃん、俺って物事を深く考えないタイプだよ。気ままに楽しく過ごせれば、それがベスト。今みたいに綺麗な香ちゃんと美味しいお酒を飲むことが、俺の人生で最も大切な時間だよ」
「フフフッ、ありがとう」香の細い右手の指が高広の左手の指に絡んだ。
「高広さんの指は空手やっていたのに、それほど硬くない・・・」香は高広の左手を両手で包んだ。
「天才はそれほど稽古をしなくても上達する! 型は大事だけどね。瓦を割ったり板を砕いたりしても意味ないもん。自慢じゃないけど高校までいろんな大会に出たけど負けたことなかったよ」
「すごーい」
「どうして俺は負けなかったか、分かる?」
「ううん、分からない。教えて」
「俺は相手の動きが分かる。正確に言えば相手がこれからどう動くかが目に見える。だから楽勝だよ」
「えーっ、それって相手の動きを予知できるってことですか。すごーい! じゃあ私の動きも分かるのかな」
「それが残念なことに攻撃的な感情のある奴しか分からない。喧嘩とか暴力沙汰だったら相手の動きはお見通しだけど」
「あら、私は高広さんに対して攻撃的かもしれないわよ、フフッ」香はにっこり笑った。
「ひゃー、香ちゃんだったら、俺はどんな攻撃だって受けちゃう」
「意外と致命傷になるかもしれませんよ」
「いい、いい。それでも俺はいい!」高広がのけ反りながら思った。(俺はこういう時間が一番好きだけど、これって大切なものとは違うのか?)
香は口元に左手をそっと添えて笑っていた。そして笑いながら高広に訊いた。
「高広さんはどうしてAFZに就職したの?」高広は香の問いかけに答えるためか、遠い風景を眺めるような目をした。
「高校出る前に大学を推薦で入るかと打診されたり、警察の特殊部隊関係とか軍のナントカ調査部みたいなところからも誘いがあったよ。今の時代、俺みたいな人間って意外と需要がある」
「そうでしょうねぇ」香はバカラを右手に持ちながら高広を見ながら小さく頷いた。
「俺がどうしようかと迷っている時にAFZの谷口副室長に会った」
「パパの会社の谷口楓さんですね?」
「そう。会ったというより副室長が待ち伏せして対戦を申し込んできた」
「エッ、それってストリートファイトですか?」
高広は「うんうん」と二回首を縦に振った。
「俺が勤、あっ林田勤ね、彼と遊びに行った冬の日だったかな。帰り道にある公園の入り口に谷口副室長がいた。灰色スーツと白いブラウスを着ていた。『初めまして、私はAFZの谷口楓と言います。岡野高広さんですね?』って訊いてきたので頷くと『岡野さん、私の勤めているAFZに入社してくれませんか?』と彼女が勧誘してきた」
「単刀直入ですね」
「まあ副室長らしくって俺も良い印象を持ったけど、それでイエスとは言えないでしょ。だから俺は『AFZってよく知らないけど』って答えた。副室長はニコニコしながら『大手スーパーマーケットですが、いろいろやってます。面白いところですよ。岡野さんの才能を生かす場所だと思いお誘いしています』と答えたので『俺の才能って何ですか?』って訊いたんだ」高広は前を向いて話していたが、左の頬に香の視線を感じていた。
「谷口副室長はさらっと言った。『岡野高広さん、あなたは他人の物理的な攻撃を予知できますね』俺の秘密を見破ったのは彼女が初めてだった」
「谷口さん、すごーい。さすがはパパのお友達!」
「お友達? 谷口副室長が」
「そう、ずっと前から仲良しみたいよ」
「フーン、そうなの・・・」高広はそのとき頭の隅に引っかかるものを感じた。
「それで、お話の続きですが谷口さんが高広さんに決闘を申し込んだのでしょう」
「そうそう。副室長が『もしよかったら私と組手をしていただけませんか?』って言ってきたの! 大手スーパーマーケットの求人で組手を申し込まれるって訳わかんないけど、面白そうだから俺、いいよって答えたわけ。それに自分の秘密を握られているのも癪にさわったし」
「それで公園で決闘したわけですね」香の黒い瞳が輝きを増していた。
「まあ決闘というよりも組手だからね。空手なんかで相手と試合形式で技を出していくのだけど、練習みたいなものだろうと俺は思っていた。副室長も「か弱い女性だから手加減してくださいね」とか言っていた」
「でも本気だった?」
「そう。『では』と副室長が言ったと同時に物凄い突きが俺の顔面を襲ってきた。まあ俺は余裕で顔を振って躱したけど、その直後谷口副室長はドンと右足を踏み込み、俺の右わき腹に彼女の左掌が触れていた。俺の予知が危険度マックスを告げて、俺は瞬時に後方に飛び下がった。飛びながら副室長の突き出した左掌底を見るとそこは陽炎みたいに空気がユラユラと揺れていた。彼女は『この発勁も予知できるのですか。凄いなぁ』とか言ってニコニコしていた。俺が構えて攻撃に転じようとすると、『もういいでしょ。岡野さんだったら、これだけで十分お分かりでしょう』と彼女は構えを解いた。俺も構えを解くと『ねっ、私の職場にはなかなか面白い人がいますよ。私たちが勤めている場所は岡野高広さん、あなたが必要です。だから前向きに考えてくれませんか』という谷口副室長の声が届いた」
「それでAFZに入ったと・・・・・・」
「まあ面白そうだったからね。アレーッ? 俺はこんな昔のことはしっかり覚えているのになぜ二日前のことが思い出せないのかな」
「不思議ねぇ。でも高広さんの過去のことを聞けて、私は良かったです。嬉しかった」
「本当―っ? 香ちゃんにそう言われると俺は一番うれしい」
名都は二人から離れた場所で球形の氷を造ったりグラスを磨いたりしていた。時折カウンターの一番奥の席からチリチリした無機質的な微小な圧力を感じていた。彼女はその僅かな圧力が自分にとって良いものか悪いものか判断しかねていた。最初それは自分の右頬に微かな痛みのように感じられた。彼女は疲れが溜まって頬の筋肉が小さな不随意運動を起こしたかと思った。しかしそれは自分の体の中から起こるものではなく、外からの何らかの圧力で起こる皮膚感覚だった。その圧力は香から名都に発せられたものであることが徐々に明らかになった。これまで何度も香はこの店に来たが、そのような微小な圧力を感じたことは今夜が初めてだった。
「そろそろ二時だわ。高広さん、送ってくれる?」
「香ちゃん、お任せを! 何処まで送ったらいいのかなぁー」
「フフフッ、何処までも送ってくださる?」
「OK、俺は香ちゃんのためなら地獄だろうが世界の果てだろうが行っちゃうよ」
二人は肩寄せ合って店を出て行った。
名都は彼らの残したグラスや皿を片付けた。そして先ほどまで香が座っている席を見た。そこには香の雰囲気がはっきりと残っていた。その一番奥の席は座っていた香が数分間離れていて、すぐに戻って来るーそんな空気が渦巻いていた。名都がその席に目を凝らすと、黒い瞳の香が微笑んでいた。
「うん、やはりここは落ち着くな」高梨巽はセキュリティ対策室、中央にある会議用テーブルの白い椅子に深々と座っていた。時刻は午後11時を回っている。
「そうですかぁ、私はここ、居心地が良くないですけど」
河合友子は高梨香の前に黒いソーサーを置き、それから黒いコーヒーカップを置いた。
「ブルーマウンテンかね?」
「さすがは営業本部長」河合友子は自分の黒いコーヒーカップにミルクを少し入れた。
「しかし君も大変だったね。お見舞いに行けず申し訳なかったが」
「あら、私のこと心配してくれていたのですか?」
「私が心配すると迷惑かね?」
「とんでもございません。でもあなたはいろんな人を心配しなければならないでしょう?」
「まあ役職上、仕方ないけどね」
「お上手な言い方・・・」
高梨巽はゆっくり立ち上がり座っている河合友子の後ろに回った。それから彼は河合友子の額を右手で触った。
「傷跡は残っていないね」
「・・・・・・病院でしっかり・・・治してもらいましたから」河合友子の体は小刻みに震えていた。そして深く長い呼吸を繰り返していた。
「脳チップを入れなくても大丈夫なのかね?」
「おそらく大丈夫だと思います・・・。これまでと同じように外に出て行くことができると感じます」
「感じる? 面白い言い方だね」高梨巽が椅子に座ってマールボロを咥えると河合友子は彼の近くに寄り黒いライターで火をつけた。
「あの事故があったあと、私の体がそのままでいいと言っているのです」
「君のカラダがそう告げているのか?」
「はい・・・・・・」河合友子はブルーマウンテンコーヒーをゆっくりと味わった。それから「ふーっ」と息を吐いた。
「ところで少し前に君に行ってもらったパリと呼ばれた街はどうだった?」高梨巽はコーヒーカップを左手で持ちながら訊いた。そして短くなったマールボロを灰皿で消した。
「そうですね。まだ活気は残っていました。あそこにはルーブル美術館がありますから。それに偉大な哲学者、文学者の影響も残っているし自国の歴史もかなり長いので、なかなかしぶとい街です。シャンソンも流れていました」
「ほう、シャンソンも流れているか・・・」高梨巽はコーヒーカップをソーサーに戻したあとマールボロに自分で火をつけた。河合友子は高梨巽の所作をぼんやりと眺めていた。
「でも一神教の地域だから状況は厳しいです。あのことが起こってから信仰が形骸化しつつあるような気がします」
「やはりそうか?」
「私はパリと呼ばれた街を訪れるのは今回で三回目ですが、やはり出歩く人は減っています。そして活気も以前訪れたときと比べ、かなり無くなってきています」
「神への信仰は精神的な背骨みたいなものだから、それが失われつつあるということか。ヒトを取り巻く環境もこの街と同じなのかね?」
「ええ、やはりここと同じでしたわ。いつも曇っていて街以外は荒れ地になっています。それから巽さん、パリと呼ばれた街でもこういった状況になったのは神が下した罰だと信じている人々が増えています」
「罪と罰か・・・」
「神が下した罰ならば仕方がない、受け入れようということは、人々にとって分かりやすいものです」
「そんなに簡単に信じてしまうものなのかね、我々人間は」高梨巽はマールボロの白煙をゆっくりと吐き出した。
「無神論者でリアリストのあなたには理解しがたいでしょうけど」
「いや、私は人間の力や英知が及ばないものに対しては敬意を払っているがね」
「本当ですか?」河合友子は先端が二つに割れた紅い舌で上唇をゆっくりと舐めた。
「本当だよ。だから私はこの部屋が居心地の良い場所だと感じている」
「巽さん・・・あなたは何処でも大丈夫でしょう」
「さあ、それはどうかな」
高梨巽は立ち上がり、扇形の半透明の窓ガラスから階下を眺めた。この部屋の窓ガラスは室内からはクリアに外が見える。食料品売り場から買い物客が一人また一人と出て行く。時折その流れに逆らって食料品売り場に入っていく人もいる。
「こうして客を見ていると、みんな無為に日々を過ごしているように見えるな」
「深く物事を考えていないということ?」
「さあ、それは分からないね。案外、仏陀の言う悟りに近づいているのかもしれない」
「あら巽さん、あなたも仏陀のように解脱したいの?」
「できればそうしたいが、私にはやりたいことが山のようにある」
「ふふふっ、そうねぇ。あなたは欲望そのものですもの」河合友子は高梨巽の背中に自分の豊かな胸を押し付けた。
午前零時、終業のアナウンスとBGMが流れ始めた。
「巽さん、今日は村上玲ちゃんが初めてセキュリティ対策室で仕事をしたけど、何か変化はありました?」
「うむ、野神君からは何も聞いていない。だがフェスティバルの幕は既に上がっているから、いろいろなことが起こり始めているだろう」
「既に幕は上がっていると。私たちも何か起こるのかしら?」
「それは、君次第だ」
「まっ! ズルい男」河合友子は高梨巽の広い背中を軽く叩いた。それから二人は肩を並べてセキュリティ対策室から出て行った。




