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黒い鳥の世界  作者: 西野了
25/93

ロアノでの村上玲と水樹晶とウエイトレス

  セキュリティ対策室に玲が異動して初日の勤務が終わった。彼女は腕時計を見ると18時5分前だった。新しい職場を出ると通路にある木製ベンチに座っていた影が立ち上がった。黒い学生服を着ている男は高校生らしいが少年の面影を残していた。

「あのーっ・・・、このあいだはすみませんでした」水樹晶は玲に向かって深々と頭を下げた。

 玲はいきなり男子高校生が歩いてきて頭を下げたので驚いた。目の前の高校生が顔を上げて彼女を見つめたので、玲は彼が自分を襲った水樹晶だと認識した。

「あ、ああっ・・・、あの時の・・・。もう怪我は治ったの?」

「城北高校三年の水樹晶です。怪我はもう治りました」水樹晶は玲が怖がる様子もなく自分の怪我を心配してくれたので安堵した。

「僕はよく怪我をするのですが、すぐに治ります。人並外れて回復力があるようです」

「そう、良かったね」玲が微笑むと水樹晶は少し顔を赤くした。そして俯いて何やら必死に考えている。

「ん? どうしたの、水樹君」玲の柔らかな声を聞くと水樹晶は顔を上げて言った。

「あの・・・・・・もしよかったら僕と少しばかり話をしてくれませんか」

 玲は彼が自分に用があるのだろうと最初から感じていた。そして彼のために時間をつくることは必要な気がしていた。また今の彼の様子から危険な雰囲気は感じられなかったことも玲を安心させた。

「わかったわ。じゃあこの上にある喫茶店でお話しましょうか? それでいいかな」

「はい、もちろんです。ありがとうございます」

 二人はエレベーターに乗り六階に上がった。玲がロアノの出入り口の黒いドアハンドルを引き「さあ、どうぞ」と言った。水樹晶は戸惑う素振りもせずに店内に入り店内を見回した。玲は奥の方の四人掛けのテーブルに水樹晶を案内した。彼女は水樹晶が対面の椅子に座ると、自分もゆっくりと腰をかけた。アンドロイドのようなウエイトレスが規則正しく歩いてきた。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「あたしはホットレモンティにするわ。水樹君は?」

「じょあ、僕はアメリカンコーヒー、ブラックで」

「かしこまりました」ウエイトレスはそう言うとまた規則正しく歩いて行った。

「フフッ、水樹君、コーヒーをブラックで飲むなんて大人ね」

「いや、そんなことないです。ただブラックで飲む方がコーヒーの味がちゃんと分かるかなって思って」

「フーン、あたしが高校生の頃って、そんなこと考えなかったなぁ」玲は眼鏡の紅いフレームを動かして目の前の男子高校生を見つめた。

「僕、本を読むことが好きで、その、読書中にブラックコーヒーを飲むと何だかカッコいいのではないかと思って・・・」

「あら、カッコつけるためにコーヒーをブラックで飲むのね」玲が笑いかけると水樹晶の顔が赤く染まった。先ほどのウエイトレスが二人のテーブルの側に来て玲の前にホットレモンティの白いソーサーと白いカップを置き、水樹晶の前にアメリカンコーヒーの白いソーサーと白いカップを置いた。

「ご注文のお飲み物は以上でよろしいでしょうか?」

「はい」玲が答えるとウエイトレスは軽く頭を下げ厨房の方へ歩いて行った。

「今の人、何か、機械的な話し方でしたね」

「そうね、あのウエイトレスさんはアンドロイドじゃないかっていう人もいたわ」

「そうですか」水樹晶はアメリカンコーヒーを一口飲んだ。それから深呼吸をして玲を真っ直ぐ見た。

「あっ、自己紹介していなかったわね。私は村上玲と言います」

「村上・・・玲さん」

「そう、村上玲・・・」水樹晶は玲の蒼い瞳をチラッチラッと見て、それから顔を上げた。

「・・・村上さん、ひとつ質問していいですか?」

「何かしら?」

「村上さんは他の街に住んだことがありますか?」

 玲はティーカップを持ち上げたが口元に運ばずにソーサーにもどした。そしてしばらく目の前の男子高校生の小さな黒い眼を見た。

「・・・・・・うん、あるよ・・・。あたしは、他の街からこの街に来たの」玲は体から何か詰まったようなものが抜け出るような気がした。

「凄いなあ」水樹晶はまたコーヒーカップに薄い唇をつけた。

「そうかな。今でも外国に旅行する人はいるでしょう」

「でもそういう人たちは特別で、それに彼らは何らかの処置をしているでしょう」

「うーん、確かにそうだね」玲はふと河合友子を思い起こした。

「違う街に住んで、そこから出て、また以前とは異なる街に住むことができる人は稀だと思います」水樹晶の眼差しには敬意がこもっていた。

「そんなに褒められることなのかな」

「だって生まれ育った街を出ると、ほとんどの人が帰って来ないじゃないですか?」

「でもそれは、あたしみたいに他の街に住んでいるかもしれないでしょ」玲はティーカップをゆっくりと持ち上げた。

「だけど僕の周りの人は、街を出た人はほとんど行方不明になって何処かで死んでしまっているって言っています」

「確かに他の街から来たって言ったら、みんな驚いていた・・・」玲は静かにティーカップを傾けた。

「だから、そのことはできる限り言わないようにしているの。何だかそのことはタブーみたいだから」

「あっ、そうですか。ごめんなさい」水樹晶は眉間に皺を寄せ少しだけ俯いた。

「いいのよ、水樹君。謝らないで」

「はい・・・・・・」

「そして、あなたは街を出ることがどんなことなのか、それを知りたいのね?」

「はい、そうです」

 玲はティーカップを持ったまま動かなかった。彼女の瞳は前を見つめていたが何も見ていなかった。「コトッ」とティーカップがソーサーに置かれる音がした。

「この街に来る前はここより北の場所に住んでいたの。その街もこことあまり変わらなかったように思う。高層マンションがあって巨大なショッピングモールがあって文化施設があって学校があって・・・、いつも曇っていて風が吹いて人々はあまり外に出歩かない―この街と同じね」

「前の街ではどんな仕事をしていたのですか?」

「フフッ、水樹君、警察の職務質問みたいね」

「あっ、すみません」水樹晶は右手で前髪をかき上げた。それから慌ててアメリカンコーヒーを飲んだ。

「前の街でも、同じような販売のお仕事。あたしは人と接することが好きなの。それに接客のお仕事をする人はいつも足りないので仕事には困らない」

「他人と接する仕事ですか。僕にはできない」

「そうなの?」

「だって不特定多数の人間に会うのでしょう? リスク高過ぎです」

「・・・・・・そうね」玲が微笑むと水樹晶は顔が引きつった。

「いいのよ、水樹君。あなたはマインドコントールされていたのだから。あなたには罪はないと、あたしは思っている」

「すみません・・・・・・」会話はしばらく途切れた。玲は店内に流れているモーツァルトの室内楽に耳を傾けた。

「あたしが街を出た理由はよく分からないの。気がつくと街を離れていた、その繰り返し」

「でも、それまで住んでいた街を出ることは危険だと思います。やはり他の人みたいに行方不明になってしまう可能性もあるでしょう? だから村上さんの中に街を離れるちゃんとした理由があるような気がします」

「ふーん、水樹君って頭いいね」玲はまだ幼さの残る少年の顔をじっと見つめた。目の前の少年がマインドコントールされたにせよ、ナイフで自分を襲い連れ去ろうとしたとは信じられなかった。彼女にとって、あの事件はまるで現実感がなかった。

「そうねぇ・・・、街を離れる理由かぁ」彼女は眼鏡の紅いフレームを右の親指と人差し指で何度も動かしてみた。

「あたしはあまり自分で判断して動くことが苦手なの。何か周囲の環境とか雰囲気とかでその場所を離れたような気がする・・・」

 玲はぼんやりと目の前のティーカップを眺めた。ティーカップは真っ白で艶やかだった。何の装飾もなくただ白かった。玲は初対面に等しい男子高校生に何を話しているのだろうかと不思議に思った。(あたしは嫌なことがあったから、それぞれの街から逃げ出しちゃったのかなぁ)

「村上さんは何か求めるものがあるから、街を離れたのではないでしょうか?」

「何か求めるもの?」その言葉が玲の頭の中に楔が打ち込まれたように感じた。

「求めているもの? そんなもの、あるかしら?」水樹晶は玲の顔を凝視している。

(高校を卒業して生まれ育った街を離れた。あたしには親がいたのだろうか? 確かに父と母は存在した記憶はある。自分が住んでいた家もあった。でも家庭の温もりを感じたようには思えなかった。そもそも家庭の温もりって何だろう? 両親はあたしに必要最低限のことはしてくれたかもしれない。だけど彼らはあたしに愛情を注ぐとか優しくするとかいった行為はなかったように思う。高校を出てすぐに他の街に出て行った。高校生になってから徐々にこの街はあたしの住むべき場所ではないと感じ始めた。そして卒業間近になると生まれ育った街を出て行くことが当然のように思うようになった。それからあたしは幾つもの街に移り住んだ。どこでも二年も経つと他の街へ移動してしまった。何故かしら?)

 玲の視線の先には水樹晶のガラスのような小さな瞳があった。その瞳は銀色を帯びていた。

(前の街でもここと同じような仕事をしていた。接客だった。衣服を売っていたような気がする。いつも同じくらいのお客がいて同じように服が売れていた。えっ? そうだったかな。街はいつも閑散としていたのに・・・・・・。売り場の男性社員が優しくしてくれた。彼はいつも淋しそうに微笑んでいた。いつの間にかあたしの部屋に彼はいるようになった。マンションの高い位置にある部屋。北風が吹いていたけど冷たくなかった。彼はよくあたしを求めた。何かにしがみつくように。あたしはセックスをすると彼に何かを与えることが出来るのではないかと思っていた。ある日、彼はいなくなった。職場にも来なかった。売り場には彼と同じような男がやってきた)

「村上さん、何を考えているのですか?」玲の目の前には相変わらずガラス玉のような瞳があった。

「あたしは何を求めているのだろう? 分からない、分からないの。でも確かにあたしは何か求めているの。手に入れたいものがあるの」玲の言葉は空中にフワフワ漂っていた。

「だから、街から街へと彷徨っているのですね」

「そう・・・・・・」玲の脳裏から過去の映像が消えていき、目の前の小さな黒い目に焦点が合った。

「村上さんは不思議な人だなぁ」水樹晶はそう言うとアメリカンコーヒーを飲み干した。

「追加のご注文はございませんか?」水樹晶の側にウエイトレスが立っていた。そして彼女は表情を少しだけ和らげて二人に訊いた。

「アメリカンコーヒー、ブラックをお願いします」

「あたしは、追加注文はないです」

「かしこまりました」ウエイトレスは小さなタブレットを素早く操作し、一礼をして去って行った。

「雨の降った夜・・・、一昨日の夜になるのでしょうか、僕はこの街を離れようとしました」水樹晶はグラスの水をゴクリと音を立てて飲んだ。

「防水用のコートを着てリュックに適当なものを詰め込んで西に向かって歩きました。国道沿いの歩道は真っ直ぐ西に延びていたので・・・。真夜中を過ぎていたし珍しく雨だったので、ほとんど人に会いませんでした。昼間でもいつものように曇っていても、ほとんど人には会わなかったかもしれません。国道には大きなトラックとトレーラーが時折走り去って行くだけでした。村上さん、僕はその時、つまり歩いている間に思ったことは、どうして自分はこの街を出て行くのだろうか、ということでした。僕は生まれ育ったこの街を出て行く理由がなかったのです」

 ウエイトレスが水樹晶の注文したアメリカンコーヒーの入ったカップとソーサーを持ってきて彼の前に置いた。そして空になったグラスに水を注いだ。それから玲のグラスにも水を注いだ。ウエイトレスは最後に空になったコーヒーカップとソーサーを自分が持っているトレーの上に置き微笑みながら訊いた。

「以上でよろしいでしょうか?」

「はい」水樹晶は答えた。玲はウエイトレスの顔を見ていた。ウエイトレスはチラッと玲を見て、それから一礼して去って行った。

 玲はウエイトレスの後ろ姿を見ながら、その制服がメイド衣装だと気づいた。(ロアノに何回も来ているのに、なぜ今まで気づかなかったのかしら?)彼女は少し驚いてしまった。

「村上さん、続きを話してもいいですか?」水樹晶の視線を感じ玲は慌てて彼の方を向いた。水樹晶は玲の顔を確認すると、アメリカンコーヒーを一口飲んだ。そして静かに目を閉じ深呼吸して、それから目を開けた。

「僕はこの街に違和感を覚えていました。でもそれはこの街というよりこの世界全体に違和感があった。高校に行っても家にいてもみんなは表面的なことを話すばかりで物事の本質には触れない。やっていることも意味がないように思えることが多かったです。けれども僕の話をちゃんと聞いてくれる人はいたし、まともなことを話す人もいました。僕がリラックスできて生きていることを実感できる場所もありました。だから僕は自分がこの街を出て行こうとしていることが不思議でした」

「でも、水樹君はここにいる」玲の言葉に水樹晶は頷いた。

「僕が国道沿いの歩道を歩き続けていると周囲の様子が変わりました。国道と歩道があるだけで他は荒れ果てた土地があるだけでした。ああ、街を出たのだと感じました。時折、大型車が走り去って行くのですが動くものはそれだけです」

「あたしは自分の車で街を出たわ。地図もあったしインターネットの情報もあった。インターネットの情報はあまり更新されていなくて古いものだったけどね」

「じゃあ、やはり明確な目標みたいなものが村上さんの中にはあったわけですね」

「うーん・・・、そうかしら?」

「僕はなにかに引っ張られて歩き続けたようです」

「うん」玲は喉が渇いていた。先ほど水樹晶が追加注文したときに自分も飲み物を注文しておけばよかったと後悔し始めていた。彼女の視界の端にウエイトレスが入ってきた。玲は左手を上げてウエイトレスを呼んだ。メイド服姿のウエイトレスは玲の側に歩いて来て止まった。

「ホットレモンティを一つ、お願いします」

「ホットレモンティを、おひとつですね。かしこまりました」ウエイトレスはにこやかに答えて、その場を立ち去った。玲は呆然として彼女を見送った。

「・・・・・・、村上さん、・・・どうされました?」

 玲は遠くから誰かが自分を呼んでいるような気がした。彼女は自分の眉間に重い圧力を感じた。水樹晶が不思議そうに玲を見つめていた。

「あっ、ごめんんさい。ちょっと気になることがあって。でも、もう大丈夫。話を続けて」

「分かりました」目の前の少年はあまり納得していなかった。しかし彼は再び話し始めた。

「街を出て何時間かずっと歩き続けました。途中で雨は止んだと記憶しています。東の空が少しずつ明るくなり始めたときに、ある男の人に逢いました」

「男の人に逢った?」

「はい、その男性は僕の知っている人でした。そしてまた村上さんも知っている人です」

「あたしも知っている人?」

「僕が街の外で出逢った人はAFZの岡野さんです。僕が事件を起こしてから、しばらくして高校にきて事後調査のようなことで岡野さんに会いました」

「エッ! 岡野さん! 本当?」玲は驚いた。

「はい、岡野さんです。声も聞き覚えていましたし、ちょうど自動販売機がある場所だったので顔もちゃんと見えました。」

 玲は岡野高広がいなくなって淋しい想いをしていた。彼の調子の良い明るさが彼女には心地よかった。高広がいなくなって勤も依然と違った生真面目な硬さのようなものが少し現れたような気がしていた。今思えば岡野高広という存在が勤の生真面目な硬さを飲み込んでいたのかもしれない。玲はよく喋り様々な表情を浮かべる高広の姿を思い出し、肩が軽くなるように感じた。

「岡野さんは藍色のフードコートを着て立っていました。まるで僕が来るのが分かっていたように。勿論そんなわけはないのですが・・・。彼は僕を見るなり言いました。『水樹晶君か? 久しぶりだな』僕はこんな場所で人がいるなんて思ってもいなかったので、かなり驚きました。自動販売機のある所は電灯もあるしベンチもありますが、本当に人が利用しているとは思えませんでした。大型自動車の運転手が立ち寄るかもしれませんが、自動販売機の近くにはそれらしき自動車は駐車していませんでした」

 水樹晶はそこまで言うと視線をテーブルに落とした。そしてグラスの水を一口含んでゆっくりと飲み込んだ。それから再び視線を玲の蒼い瞳に向けた。

「僕は最初、自動販売機の前に立っている人に恐怖を感じました。背が高くて藍色のフードコートで顔が見えなくて、何か死神みたいなイメージがあったのです。彼が僕の名前を呼んだときも声がとても低くて以前高校の相談室で会った時と雰囲気が違いました。以前会った岡野さんは明るくて大っぴらな性格でとても話しやすかった印象を受けたのですが。彼が被っているフードを下げて顔を見たときに、ようやく岡野さんと分かりました。彼は最初に声をかけた後はしばらく黙ってぼくを見ていました。僕は彼に何か話そうと思ったのですが言葉は喉に詰まったように何も出てきません。すると彼は『街を出て行くのか?』と訊いてきました。僕は『はい、そうです』と答えたかったのですが言葉が出てきません。慌てて首を縦に数回振りました。その動作で岡野さんは僕の返事の意味を理解したようです。彼はまたしばらく何も言いませんでした。沈黙するというよりも何も言わなかった。それから突然「君はまだ、街を出て行かない方がいい」と告げられました。言われたというよりも告げられたのです。(まだ、街を出て行かない方がいい?)僕は何度も岡野さんに告げられたことを胸の内で繰り返しました。その間、風は全く吹かず、大型トラックやトレーラーも行き来しませんでした。その間、静謐な時間を僕は味わいました。そして僕の頭の中には何の疑問も浮かびませんでした。気づけば僕はこれまで来た道を引き返して歩いていました。相変わらずの曇天でしたが朝がきました。僕は一度も振り返ることなくこの街にもどってきたのです」

「ふーん、よく分からない話だね」玲はホットレモンティの入っているカップにほんの少しだけ砂糖を入れた。そして金色のスプンで琥珀色の液体をゆっくりとかき回した。

「僕の話、分かりにくいですか?」水樹晶は意外そうな表情を浮かべた。

「まず水樹君が街を出た理由、それから街に引き返した理由。そして最後にあなたはあたしに何を訊きたいかってこと。あなたはあたしに街を出るってことはどういうことか知りたかったのでしょう? でも水樹君、あなたは既に一度街を出てしまっているのじゃないかな」

「でも、この街を出たのは数時間だけで、また戻ってきました・・・」

「だけどね、晶君。街を出たほとんどの人は帰って来ないって、あなた言っていたでしょ。確かに未だに旅行をする人はいるけど、彼らはほんの一握りの人たちで、しかも何らかの処置をしているわ。それに旅行先だって極めて限定されている。それよりも一度街を出てまた同じ街に戻って来るなんて、あなたはあたしよりもずっと稀な人間じゃないかなぁ」

「そう・・・ですか」

「それから生まれ育った街を出て、ちゃんと街で生きているってことは晶君とあたしは相通ずるものがあるのかもね」玲は無邪気に笑った。

 水樹晶は目の前の女性の笑顔を見て誰かを思い出しそうになった。いつも彼の身近にいる人間の笑顔なのだが思い出せなかった。彼はそのことでかなり動揺した。そして自分を取り巻く周囲の物が急に張りぼてのように感じた。テーブルもコーヒーカップも自分が座っている椅子もまるで現実感がなかった(ああ、僕はこの世界をいつもこんな風に見ていたのか?)周囲の光景は出来の悪いジオラマのように静止している。自分がこんなにつまらない世界に生きていることに彼は嫌悪した。そして圧倒的な怒りが湧いてきた。こんな街を出て行くことが当然だと思った。(何故どうしてこの街にいる? せっかく出て行ったのに? あの男のせいだ! あの男―岡野という男の言ったことに従って戻ってきてしまった。何故僕はあの男の言うことを素直に聞いて従ってしまったのか?)

「どうしたの? 晶君」

「わっ!」思考を中断された水樹晶は驚いてのけ反り、危うく椅子ごと後方に転倒しそうになった。

「大丈夫、晶君」姿勢をもどした水樹晶の顔に玲の顔が接近したので、水樹晶は再びのけ反ったが今度はバランスを崩すことはなかった。

「やっぱり僕はこの街が嫌いです。それが今はっきりわかりました。たとえこの街に僕の好きな場所があろうとも、それはほんの少しだけのものです。嘘で塗り固められた街に僕は呼吸すら苦しい。僕の居るべき場所は物語の世界だけです」

「物語・・・、それは小説の話の中ってことなの?」

「そうです。少し前まで人々は、命がけで人を愛したり怒りのために人を殺したり激しくもあるけど血のかよった生き物だった。いろんな事件や不幸せな人達もたくさんいたけど、ちゃんと人間として生きていたように思います」

「うん、何となく分かるわ」玲は少しだけ頷いた。

「だから僕はこの街を出なくちゃいけなかった。だけど、あの男が邪魔をした!」

 水樹晶は激しい怒りに囚われて少年らしい雰囲気はなくなってしまった。彼は頭を掻きむしりハアハアと荒い息をついた。彼は自分では制御できない怒りの嵐の中にいた。これまで他人に対してこれほどまで怒りの感情が激しくなることはなかった。まして岡野とは二度しか会っていない。けれども岡野の言葉が契機となり、水樹晶がこれまで抑えていた怒りや憎しみが一気に噴き出してきた。この感情の暴走を水樹晶はどうすることもできないでいた。怒りや憎しみが自分の体を捉え、周りにあるものを無茶苦茶に破壊してしまうのではないかと恐怖した。

「晶君、あなたがなぜ岡野さんの言葉に従ったのか分からないけど、あなたにはまだこの街でやるべきことがあるのではないかしら?」

 玲の声が聴こえた。

 水樹晶の頭の中が一瞬真っ白になった。その瞬間、彼の中にあった怒りと憎しみは消滅した。そしてなぜ自分がこの街に戻ってきたのか、その理由を理解した。

「そうですね。確かに僕はまだこの街でやるべきことがあるようです」

 玲は水樹晶の感情の振幅の大きさに驚いた。けれど高校生という時期はそんなものだろうし、こんな世界で仕方がないのだと自分を納得させた。彼女は左腕にある腕時計を見た。茶色い革ベルトをあしらった腕時計の針は九時五分を指していた。

「そろそろ出ましょうか?」玲はそう言うと注文書を手にして立ち上がった。






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