どんな時代であっても人様は変わっていくものではないでしょうか?
宮森華は巨大なショッピングモールを足早に移動していた。彼女の胸の中は言いようのない不安が溢れそうになっている。制服のスカートが膝の上で跳ねていることも彼女は意に介していない。「AFZ」という浮き上がる看板の建物を見つけ彼女は立ち止まった。
「AFZ」という文字が建物から離れて空中に浮かび上がっている。その文字が赤・橙・黄・緑・青・藍・黒と変化していく。華は敵意を抱くような眼差しで、その浮かび上がっている文字を十秒間見つめていた。彼女は入口の自動ドアが開くのをもどかしそうに待ちながら建物の中に入った。一階イベントホールの広い空間があり吹き抜けになっている。正面二階下には半透明の広い窓のある部屋が緩やかなカーブを描きながら突き出ていた。彼女はその突き出た部屋を凝視したが部屋の中の様子は見通せなかった。
華は左に曲がり食料品売り場に歩を進めた。彼女の背中には学習用具が入った藍色のリュックがのっている。彼女は食料品には見向きもせずに広大なスペースを右端から陳列棚に沿って歩き始めた。全ての空間を見極めようと丁寧に見て回った。陳列棚は一定の距離で区切られ、そこは幅二メートルの通路になっている。
華は通路に出ると左右を交互に見た。だが彼女の探している人物は見当たらない。彼女は携帯電話を取り出してダイヤルするが繋がらない。彼女は電話をかけることを諦めて再び陳列棚に沿って歩き始めた。酒のつまみが陳列棚の最後に置かれていて、そこから先は冷蔵食品、生鮮野菜に果物、それから冷凍食品が置いてあるスペースで、その奥にはパン屋があった。彼女は野菜が陳列してある台に沿って歩き、それが終わると果物が並べられている台に移動した。その間も彼女の黒い瞳は様々な人を捉えては捨て去っていった。
華は多くの人間を見ていたが自分と同じような人間は一人もいないような気がした。みんな明らかに自分と違う、目に映る顔は皆のっぺりとして作り物のような違和感を覚えていた。彼女は幼いころから他者との違和感を持っていた。もちろん一人ひとりの人間が違うことは当然だと思っていたけれども、彼女の違和感は根源的なレベルだった。周囲の人間が自分と同じ人間だとは感じることができなかった。彼らは自分と同じような姿、形をしているけども違った種類の動物のように、あるいはまたアンドロイドのように思えてしまう。
華が五歳の冬のことだった。その夜、彼女の母―明菜が眠っている娘の左足を切断して消え去った。華はそのことを不思議な夢のように覚えていた。
華の母はいつも娘に遠慮しているように接していた。そして明菜は華をじっと観察するような目で見ていた。母と娘という親子関係ではなかった。宮森通という名の父親はいたが存在感は全くなかった。彼が家に滞在しているときもあったが、華の記憶の中に父親はほとんど出てこない。彼女はそんな環境の中でも淋しさや悲しさを感じてはいなかった。
あの冬の夜、華の母はレーザーナイフで切断した娘の膝下の部分を冷凍保存容器に入れた。そして呆然としている娘に言った。
「華、あなたは私たちとは違うの。サヨナラ」
それから母親は家を出て行った。
華はあの出来事が夢ではないかと思うときがある。だがときどき左膝の切断面がじわーっと熱を帯びるときがある。その時は自分の左足が母に奪い取られたことを感じるのだ。だがその切断面が熱を帯びる感覚を華は嫌いではなかった。
彼女が冷蔵食品の置いてあるスペースから通路に入ろうとすると、左膝下の切断面が熱く脈打っていた。華は発熱している部分に右手を当てた。そして通路の奥の方を見た。それから急に駆け出した。背負っている藍色のリュックが上下に揺れている。黒髪のポニーテールも左右に揺れている。
華の捜している人物が陳列棚の左へ移動した。彼女の視界からその人物が消えた。華は無人の野を疾走するようにスピードを上げた。そして先ほどまで捜していた人物がいた所に着いて慌てて左側を見た。ハアハアと荒い呼吸を繰り返しながら目を凝らすと、視線の先にお菓子コーナーでチョコレート類をチェックしている林田勤がいた。
「林田主任さん!」勤は宮森華を見て少し驚き不器用な笑顔を見せた。
「どうしたの? 宮森さん。あれっ、授業は終わったのかい?」彼の腕時計は16時を示していた。
「ハァハァハァ、主任さん、晶に・・・、水樹晶に会いませんでしたか?」華の荒い息が勤にも届いた。
「晶君? いや会わなかったけど。どうした?」
「一昨日からいなくなっちゃったの、ハァハァ」華の意志的な黒い瞳に翳りが見える。
「一昨日から?」勤は作業する手を休めて頬が赤く上気している少女を見た。
「そう、主任さんと由美さんのお店で会ったでしょ。あの後からいなくなったの。携帯電話も繋がらないし・・・」華はすがるような瞳で勤を見た。
「しかしどうして僕を捜しに来たのかな? 僕と君はこの間初めて会ったばかりなのに」
「主任さん、晶は由美さんのお店で話している途中からおかしくなった。だからあの場所にいた人じゃないと晶の行方は分からないと思う」
「うむ、クラスの友達とかに当てはないのかな?」
「クラスメイトなんて一人もいないわ。私も晶も・・・。いえクラスのみんなだって同じ。それぞれが当たり障りのない話をしているけど、心の底では『もお、いいやぁ』ってみんな諦めているの。形式的な会話をしているだけ。私の言葉なんて全然みんなに届いていない」華は瞳を閉じ静かにため息をついた。
「じゃあ晶君は君にとって大切な友だち?」
「そう、晶は私が何でも話すことのできるたった一人の友だち。そして晶は私の話をちゃんと真剣に聞いてくれる。ときどき反論するけど・・・。由美さんに会わせてくれたのも晶なの」
「宮森さん、立川書店には行ったの?」目の前の聡明な女子高校生は頭を左右に振った。
「由美さんのお店は閉まっていた。晶と一緒に行くと開いているけど私一人だと何故かいつも閉まっている」一七歳の少女は唇を噛んだ。
「それで僕の勤めている店に来たのか。晶君の様子が変だから、またこの店で事件を起こすと君は不安になった?」
「主任さん、そういうことも可能性の一つとしてあるけど、私はそのことだけを心配して、このお店に来たわけじゃないです」華は少しムッとして勤を睨んだ。
「そうか」勤は不思議そうに答えた。
「男の人は鈍感だから仕方ないけど」
「んん?」二十八歳の会社員は首を捻った。
「由美さんのお店で晶は言ったでしょ。『マインドコントロールされたというよりも、それまでと違った自分があの行為をしたのではないか』って。私はそれが不安なの。晶はあの事件を起こす前に何かがあって、ううん、何かに遭遇してそれまでの晶と変わってしまった・・・・・・そんな気がする」
「変わってしまったから、あの事件も起こしたということか?」
「そう。それから晶は『一日一日過ごしているけど遡っているような気がする』って言っていた。私、晶からそんなこと聞いたのは初めてだったからとても驚いたの。そのとき晶がとても遠い存在に感じてしまった、何故だかわからないけど」
「でも晶君も一七歳だよね。多感な時期だし一人で考えたいこともあると思うよ」
勤は自分の言っていることがとても陳腐に思えた。
「うーん、今、そんな若い人っているのかしら。林田主任さんはいいですね、やっぱり」
華は少し安心したように笑顔を見せた。その様子は勤を戸惑わせた。
「晶はこれまで私と同じ時間を歩いていた。でも由美さんのお店で途中から何か違ってきた。あんなふうに深く考え込むことはこれまでもときどきあったの。でも一昨日のあの時から晶と私の時間がずれてきたって感じ始めて、それがすごく嫌で不安」
「時間がずれる?」
「うん、私と晶は一つの同じ世界で同じ時間の流れで生きてきた。でも一昨日のあの時から別々の世界で生きているように感じてしまった」
「それは宮森さんの想いが上手く晶君に伝わらないってことじゃない?」勤は脳をフル稼働させて言った。
「主任さん、それは恋愛感情のことですか?」華の顔は赤く染まった。
「うむ」
「そういうことじゃなくて・・・・・・。私が体全体で感じた違和感みたいなものです。晶のあんな状態は晶にとって凄く良くないことだと思う」
「凄く良くないこと?」
「例えば、街を出で行ってしまうとか、自分自身を激しく傷つけてしまって決定的に損なってしまうとか・・・」華は真っ直ぐ勤を見ていた。
「君がこの場所に来たのは以前の事件との関りではないということかな?」
「はい、私は林田勤さん、あなたに会いに来ました」
「うん」勤は華の黒い瞳が自分を見つめていることを素直に受け止めた。
「霧が凄いですね、林田さん」勤と華を乗せた自動車は、フォグランプを点けながら北東に向かっていた。
「晶君に紹介された雑貨屋には僕も一度行ったことがある。閉まっていたけどね」
「私は一度、晶と一緒に行きました。いつだったかしら? 数か月前だったかな」華は助手席に座りながら注意深く対向車を見ていた。深い霧の中、仄かに白い光が見えてきて、その光が明るさを増してくると自動車の形が浮き出てくる。短い間隔で対向車が現れてくる時もあれば、しばらくは霧しか見えない時間帯もある。
自動車のモニターは17時30分を表示していた。右側に華が通っている高校の校舎が薄っすらと見えてきた。勤はチラッと母校の校舎を見て一瞬顔を強張らせた。
「どうしましたか?」華は小さく笑いながら訊いた。
「いや、別に」勤は息を吐きながら答えた。
「廃墟みたいでしょ、私たちの高校」
勤はそれには答えずに前に意識を集中した。しばらくすると左側に古い木造二階建ての家が見えてきた。彼はその家の手前の空き地に自動車を停めた。少し湿った土の感触がタイヤを通じて伝わってきた。
華は助手席から降りて勤の紅い自動車を眺めて訊いた。
「勤さんの愛車、素敵ですね。何という自動車なの?」
「トヨタ・セリカ。中古で買った」
「ふーん」華はそう言うと辺りを見回した。周囲は相変わらず深い霧に覆われて数メートル先も曖昧な形しか見ることができない。それでも彼女は水樹晶と来た雑貨屋を覚えていた。
勤が入口のドアの前に立つと音もなくドアが開いた。勤が黙って雑貨屋の中に入ると華も慌てて店の中に入った。店の中は誰もおらず、しんとした雰囲気が漂っている。
「ごめんくださーい」勤の低い声が響いた。だが返事はない。
「不用心だな」勤は北側に陳列してある菓子類を見ながらゆっくりと歩いた。華は勤の水色ジャケットの背中の真ん中あたりを摘まみながらついて行く。二人が店の真ん中あたりに来た時に円筒のストーブを三脚の木製丸椅子が囲んでいるのが見えた。ストーブの上には丸いお盆が乗ってある。そのお盆には萩焼の湯飲み茶わんがあり、ほうじ茶の湯気が揺らいでいた。一番奥の丸椅子には藍色の着物を着た老婆が座っていた。
「いらっしゃいませ、林田様。本日はまた可愛らしいお嬢様とご一緒で、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は顔中に皺を作りながら笑った。
「どうも」勤は不思議そうにそう答えた。
「どうなされました、林田様?」
「あなたは僕たちがこの店に入ったときから、ここに座っておられたのですか?」
「ひゃひゃひゃー、さあそれはどうでしょう」老婆は再び楽しそうに笑った。
「お二人とも、どうぞこちらにお座りくださいまし。美味しいほうじ茶が入っております」老婆は銀色の瞳で勤、華を見つめた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」勤は老婆の隣の丸椅子に腰掛け、その隣の丸椅子に華が座った。
「ちょうど飲みやすい熱さになっていると思いますが」老婆は両手で湯飲み茶わんを勤に手渡し、それから華に手渡した。二人は黙ってほうじ茶を飲んだ。
「さすが、林田様とそのお連れ様は違いますなぁ」老婆は目を細めて言った。
「どういうことですか?」華は真っ直ぐ老婆を見て訊いた。
「私の淹れたお茶をすぐに味わって頂いたからです。あの岡野様もそうでした。ただ岡野様はコーヒーを淹れた時は少し疑っておられましたが、ぐぇほぐぇほぐぇほ」華は老婆が咳き込んでいるのか笑っているのか分からなかった。
「淹れてもらったお茶を飲むのは当然でしょ」華は何故かそう答えていた。
「これはこれは、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は眩しそうにポニーテールの少女を見た。
「おばあさん、水樹晶という高校生を知らないか?」勤はほうじ茶の余韻を楽しみながら問いかけた。
「水樹晶様ですか。よく存じ上げております」老婆はそう答えると立ち上がった。それから彼女は一番近くの陳列棚からサラダ味のおかきを一袋持ってきてお盆の上に置いた。そしてそのビニール袋を破り、お盆の上にある白い皿におかきを五枚並べた。
「ほうじ茶にはこのおかきがよく合います」
勤は円形のおかきを一つ掴み半分ほど口に入れ咀嚼した。それから残っている半分のおかきも口に入れ同じように咀嚼した。その後ゆっくりとほうじ茶を飲んだ。
「うん、良く合う。美味しい」
「それはそれはよろしゅうございました、ぐぇほぐぇほぐぇほ。そちらのお嬢様もどうぞ」
「おばあさん、私たちは晶を捜しているの! 一昨日からいなくなって。晶が何処にいるか、知りませんか?」老婆は華の黒い瞳を見つめ、それから目を閉じた。
「水樹晶様は一週間に一度は、この店に来ていただいております。二日前、珍しく雨の降った日もお顔を見せていただきましたよ、ひゃひゃひゃ」老婆はそう答えるとおかきに手を伸ばし、それを半分に割った。割った片方のおかきを口の中に入れた。それから「ボリ・・・ガリ・・・バキバキ・・・」という音を口の中から発した。
「それって、雨が降っている時に晶はこの店に来たの?」
老婆はほうじ茶を飲んだ。そして銀色の目でじっと華を見た。
「お嬢様・・・・・・」
「私は宮森華といいます!」
「失礼いたしました。宮森様・・・・・・、確かに雨が降っているとき水樹晶様は来られました」
「じゃあ、あの後、晶はここに来た・・・・・・」
「あの後って立川書店で別れた後? 宮森さん」
「そうだと思う」華は悲しい瞳で勤を見た。
「おばあさん、雨の降った日に晶君と会ったと言ったね」
「はい」
「その時、晶君は何か言っていませんでしたか?」
「はて、水樹晶様は特には何も仰らなかったと記憶していますが・・・。まあ私の記憶など、当てにはなりませんが、ひゃひゃひゃ」勤にとって老婆の笑い声は自嘲的に聴こえた。
「あの、おばあさん。晶は一昨日の夜、かなり遅い時刻にここに来たでしょ? そんな時刻にこのお店は開いていたの?」
「はい、開いております」
「本当にそんな遅くまでこのお店は開いているの?」
「このお店が必要だと感じられたお客様が来られた時は、いつでも開いております」老婆は眩しそうに華を見ていた。
「そんな・・・・・・」
「宮森様、真夜中近くの時間が遅いという考えは過去の遺物ではないでしょうか?」老婆はそう言うと一口お茶を飲んだ。そして懐から紐のついた布袋を取り出して中から目薬を手にした。
「林田様。申し訳ございませんが、私のこの目に目薬を注していただけませんでしょうか?」
勤は驚いたが老婆から目薬を受け取り小さな銀色に輝く瞳に目薬を注した。
「いやぁーありがとうございました。世界広しといえども私にちゃんと目薬を注すことの出来るお方は林田様しかおられませんからなぁ、ぐえっほぐえっほぐえっほ」
老婆は目から目薬なのか涙なのか分からないが透明な液体を流していた。そして懐から出した紫のハンカチで丁寧に目から下の部分を拭った。
「それは大げさでしょう」勤は少し笑ったがすぐに真面目な顔をした。華は少し怪訝な表情を浮かべて勤を見ていたが再び老婆に視線を向けた。
「おばあさん。晶が真夜中近くにこのお店に来たってことは分かりました。おばあさん、あなたは晶について何か知っているのではないですか?」
「そうですねぇ」老婆は答えながら、半分残っていたおかきを口に入れ「バキ、ゴキ」と音を出しながらゆっくりと咀嚼物を飲み込んだ。
「お願いします。晶について何でもいいから教えてください」華は立ち上がり老婆に向かって深々と頭を下げた。
「水樹晶様もこんなに可愛らしいお嬢様から慕われているとは、お幸せなことですなぁ、林田様? ひゃひゃひゃー」
「あっ、うん」勤は少し驚いて小さく二度頷いた。
「水樹晶様とはこの場所に座ってよくお話をさせていただきました。この店のお菓子などを買っていただきましたので、こちらでお茶を飲みながら水樹晶様のお話を伺いました」
華は強い光をたたえた瞳で真っ直ぐ老婆を見ていた。老婆はその視線に気圧されたのか瞼を閉じた。
「水樹晶様はよくご本のお話をされていました。お若いのにいろんなことをご存知で私は常々感服しておりました。水樹晶様は大変な読書家であられましたねぇ」
「・・・・・・」
「そして私が感じますに、水樹晶様はこの世界にあまり関心がないようにも見受けられました」
「関心がない?」華は呟いた。
「はい、水樹晶様の言葉の端々にある種の諦念があったかと存じます」
「諦念・・・・・・。諦めていたってことですか?」
「今は諦めを持って生きていくのが当たり前ですがーその種類もいろいろあるように思われます。現在に違和感を覚えるのか、未来を諦めているのか、過去を後悔しているのか、様々でございましょう?」
「そうなのかな? 私は分からないけど」
「宮森様も特別なお方ですから・・・。だからこそ水樹晶様はあなたのお側にいたかったのでしょう」老婆はチラッと華を見てまた瞼を閉じた。
「私の側にいたかった・・・ってどういうことですか?」
「宮森様、そのことは宮森様が一番よくお分かりかと存じますが」老婆がそこまで言うとしばらく沈黙があった。
「おばあさん、晶君はもうこの街にはいないということかな?」
「さあそれは分かりかねます。ただこのような時代であっても、水樹晶様はご自身の意思で生きていかねばならないと、気づかれたのではないでしょうか」
「晶はこの前、マインドコントロールされて・・・・・・、スーパーマーケットで強盗をしてしまったの。それも自分の意思だというの?」華は唇を噛みしめ老婆を睨みつけた。
「はい、伺っております。そのためにひどい目にあったとも仰られました。ヒヒヒ―ッ」老婆はチラッチラッと華を眺めながら楽しそうに笑った。
「おばあさん! あたな、何か晶にしたでしょ!」華は怒りのため顔が赤く染まった。
「ひゃひゃひゃー! 宮森様。そんなにお怒りになられると血圧が上がりますよ。イヤイヤ、お若いから大丈夫でしょうが。ぐえっほぐえっほぐえっほ」老婆は小さな目から涙を流し、体を揺らしながら喜んでいた。
「ガタ!」華が急に立ち上がり、彼女の座っていた丸椅子が倒れた。そして老婆の前に詰め寄った。
「おばあさん! 晶について何か知っているのでしょ!」華は老婆の細い右手首を掴んだ。
「キャ」その瞬間、華の体は浮き上がり一回転して勤の座っている太ももにゆっくりと背中から落ちた。
「おっととー」勤は慌てて柔らかな華の体を抱きかかえた。
「林田様は本当に女性に慕われますなぁ、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は何事もなかったように座っている。
「宮森さん、大丈夫?」勤は目の前にある華の顔を真っ直ぐ見た。華は呆然としていたが、勤の視線を感じ我にもどった。
「あっ、ハイ」彼女は勤の首に回してあった両腕をほどいた。それからゆっくりと勤の膝の上から降りて倒れた丸椅子を立てそれに座った。そしてぼんやりと老婆を見た。
「宮森様、どんな時代であっても人様は変わっていくものではないでしょうか? 私はただ水樹晶様の仰ることを聞き見守っていただけでございます」
「そんな・・・・・・」華は唇を噛んだ。
「晶君は変わってしまったということかな? おばあさん」
「さあそれは、どうでしょうか?」
「うーん・・・・・・、ところでおばあさん、あなたは先ほど宮森さんに何をしたのかな。彼女がいきなり宙に舞って僕のところに落ちてきたけど」
「宮森様のお力をそのままご自身にお返ししただけでございます」老婆は何事もなかったかのようにほうじ茶を飲んだ。
「ふむ」勤は腕を組んで何か考えようとしたが上手く考えがまとまらなかった。
華は自分の両手を眺めていた。彼女の両手が勤の体に触れたとき、これまで気づかなかった体のこわばりが消えていた。
「宮森様、林田様。人はこれまで見ていた風景が何かのきっかけで変わることがございます。そのことは善悪を超えたことかもしれません」
老婆はそう言うと目を閉じた。そして僅かな呼吸を繰り返し同じ姿勢を保っていた。それは電池が切れた玩具のようだった。
勤も華もこれ以上、目の前の老婆と話をすることはできないと感じた。彼らは黙って駄菓子屋を出て、トヨタ・セリカに乗り込んだ。深い霧の中、トヨタ・セリカはゆっくりと動き出した。セリカの運転席のモニターは18時30分を示していた。




