街の外の風景
高広は国道の側にある広い歩道を歩いていた。風が強く砂ぼこりを巻き上げている。目を保護しているゴーグルに時折小さな砂粒が当たる。藍色のフードコートを頭から被り一定のリズムで歩を進めている。
「畜生、俺が外に出ているときはいつも風が舞ってやがる」高広は故意に思っていることを口にした。
「22時10分か」
高広は左腕の腕時計を見て再び声を出した。
(いったい何日歩き続けたのだろうか?)彼は街を出てから、どれくらいの時間が過ぎたか分からなくなっていた。
(この前、食べ物を口にしたのはいつだったのか)それも忘れかけていた。背負っている黒いリュックの中には栄養食品がかなり残っている。
彼の脳裏に入院時の様子が現れた。(病院の休憩室で誰がいたのか? 勤と玲ちゃん・・・。香ちゃんはいなかったか? んん? ショートケーキがあった。玲ちゃんが買ってきてくれたのか。あの二人は仲が良い。ええと、何か嫌なことがあった。そうか・・・、急に太陽が現れて陽光が部屋いっぱいに満たされた。恐ろしい。体が燃え尽きてしまいそうだった。何だ、あれは? あんな禍々しい光を浴びたら一瞬たりとも生きていけやしない)彼はそう思いながら歩いていたが、頭の中には何度も陽光が部屋いっぱいに満たされる光景が浮かび上がってくる。(勤と玲ちゃんもよく平気でいられるものだ。あの二人、おかしいのかもしれない)
それから野神室長の顔も浮かんできた。セキュリティ対策室で高広が野神室長を襲ったときの映像だ。彼が右足の踵で野神室長の顔を蹴り落そうとしたとき、彼女が腕を十字にしてその攻撃を防いだのだ。(あの時、野神室長は小さく笑っていた。確かに・・・。目の表情もいつもと違っていた。俺が自分を襲うことが分かっていたような)
高広は歩きながら、過去に起こった様々な出来事に囚われていた。彼はこれまでほとんど過去を振り返る作業をしたことがなかった。そんなことを考えるより現実を楽しく過ごすことの方が有意義だと思っていた。だが街を離れて歩き続ける間、様々な記憶が蘇ってきた。その現象は彼が意識的に行ったわけではなく、様々な記憶が勝手に頭の中に浮かび上がってきたのだ。
高広の前方に薄い光が見えてきた。彼がその光に近づくと、そこには自動販売機が三台設置されていた。彼は真ん中の自動販売機に硬貨を数枚入れた。それから微糖の缶コーヒーのボタンを押した。聞いたことのある電子音―「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のメロディが流れて、ゴトンという音とともに取り出し口に缶コーヒーが落ちてきた。彼は自動販売機の横にあるベンチにリュックを置き、自分も座って缶コーヒーのステイオンタブを引いた。そして温かい液体を喉に流し込んだ。
「岡野様、コーヒーは美味しゅうございますか?」ベンチの端に雑貨屋の老婆が座っていた。高広は老婆の問いかけには答えず、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
「ぐぇほぐぇほぐぇほ、あたしが淹れたコーヒーの方が美味しゅうございますか?」老婆は杖の持ち手に両手を重ねながら笑っていた。
「フン」
「岡野様、どうしてこのような所におられますので?」高広はそれにも答えず、老婆を一瞥した。
「ずっと歩かれていたのでしょう。お元気なことで、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は目を閉じて楽しそうに笑った。
「婆さん、あんた、何者だ?」高広は真っ直ぐ前を見ながら呟いた。
二人の目の前を一台のトラックが砂塵を巻き上げて走り去っていく。
「あたしは岡野様よりほんの少し長く生きている者です、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆はまたも楽しそうに笑った。
「俺よりほんの少し?」
「はい、ほんの少しだけ長くこの世界を見ております」
「フンッ」高広は飲み干した缶コーヒーを道路に向かって投げ捨てた。「カラン」という音とともに缶コーヒーはアスファルトの道路の上をバウンドした。それからその小さな物体は「カラカラカラ・・・」と転がる音を発して闇の中に消えていった。
「俺より長く生きているってことは、昔のことも、あのことが起こる前のことも知っているのか?」
「はい、存じ上げております」老婆も前を見ながら話していた。
また大型トラックが一台、街の方からやってきて走り去っていく。
「俺を操って面白いか?」高広は顔を左に向けて老婆を見た。
「はて、何のことでございましょう」老婆は相変わらず杖の持ち手に両手を重ねて前を見ている。二人の前を先ほどのトラックとは逆方向にトレーラーが走り抜けた。砂塵が激しく舞い上がり彼らの視界を塞いだ。
「あんたは高校生を操り俺の職場のスタッフを襲わせた。そして俺をマインドコントロールして俺の上司を襲わせた。違うか?」
「それはそれは大変なことで。ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は銀色の目で高広を見た。彼女の口は大きく開き心底楽しそうに笑っていた。
「何がそんなに面白い・・・」高広はゆらりと立ち上がった。彼は深く呼吸をして自分を落ち着かせようとした。(こんな婆さんをぶちのめしても何もいいことはない)そう思いながらも右半身の構えをとっていた。鼻から息を丁寧に吐き出し自然と空気が入ってくるように呼吸を繰り返した。しかしそれでも頭の方に血が上り暴力的な衝動が高まっている。
(このふざけた婆さんのせいで俺はあの街を出なくてはならなくなった)高広の精神は冷静であろうという領域と破壊的な暴力願望の領域がせめぎあっていた。
「岡野様、老人虐待はいけませんよ、ヒヒヒ―ッ、ガッハハァ」老婆の笑いは挑発的だが捻じれた哀愁も帯びていた。彼女の歪んだ笑いが引き金となり高広は一気に老婆との距離を詰めた。
「バタバタバタバタ!」羽音とともに二人の間に黒い物体が横切った。その瞬間、高広は大きく後方に飛んだ。
「カラス?」高広は黒い鳥が飛んで行った方向を見つめた。そして構えていた両手をだらりと下げた。
「岡野様、カラスをご存知で? しかしあの鳥はカラスではございません、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は杖をついた姿勢のまま横目で高広を見ている。
「チェッ」高広は大きく息を吐き出し、自分の近くにある自動販売機に千円札を一枚入れた。
「婆さん、何か飲むか?」
「これはこれは、ありがとうございます。あたしは岡野様と同じものでしたら何でも結構でございます」
「ふん、じゃあ青酸カリでも飲むか」
「ヒヒヒ―ッ、岡野様とご一緒でしたら、本望でございます。ロミオとジュリエットのようですなあ」老婆の手が震え杖の先がコンクリートの地面と擦れてカタカタと鳴っている。
「ケッ!」高広がボタンを押すとディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウオーター」の最初のフレーズが電子音で流れてきた。取り出し口に缶ビールが一個落ちてきた。高広が続けてボタンを押すとまた同じメロディが流れ、「ゴトン」という音とともに缶ビールが取り出し口に落ちてきた。彼は缶ビールを一つ取り出すと、それを老婆の方に放り投げた。老婆は前を見ている姿勢のまま、右手で飛んできた缶ビールを受け取った。
「うひょひょーっ、キリリと冷えたビールでございますなあ。ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は缶ビールを自分の額に付けて喜んでいた。高広は老婆の言葉を無視して缶ビールのステイオンタブを引いて、冷えたビールを食道に流し込んだ。
「岡野様、誠に申し訳ございませんが、もう一度お尋ねいたします。どうしてこれまで住んでおられた街を離れられたのですか?」
しばらく高広は黙っていた。その間にも大型トラックやトレーラーが二人の目の前を交互に走り去っていく。
(俺が歩いている間、こんなにもトラックやトレーラーが走り去っていったのだろうか?)高広は目の前の光景を不思議そうに眺めていた。
「岡野様に何があったのか存じませんが、あなた様はまだ街に留まられた方がよろしいのではないでしょうか?」
高広は老婆を見た。老婆は相変わらず前を見て静かにビールを飲んでいた。高広もそれにつられてビールを飲んだ。
「婆さん・・・・・・」
「はい」
「俺は街を出たいと思ったわけじゃない。気がついたら外に出ていた」
「ほぉー、そうでございますか」老婆は高広の方を向いていた。
「俺がどこに行こうが俺の勝手だ」
「それはその通りでございます、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆はそう答えるとビールを飲み干した。そしてゆっくりと立ち上がり空になった缶ビールを空き缶専用のごみ箱に入れた。
「岡野様、祭りはまだ始まったばかりでございます。そのことはどうか、お忘れなきよう」
老婆は高広が歩いてきた方に向かって歩き始めた。彼女は高広の目の前を横切り、やがて闇の中に消えてしまった。




