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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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玲の額にトンボが当たった

「嫌ねぇ雨なんて」河合友子はペットボトルのブラックコーヒーを飲みながら呟いた。

「あたし、雨なんてここに来てから初めてです」

 玲は休憩室のガスコンロから沸騰した白いコーヒー用ポットに少し水を注いだ。そしてそのポットを持ってきて、テーブルに置いてあるコーヒーフィルターに熱湯を注いだ。柔らかなモカブレンドの香りが部屋に漂った。

 甲山がテーブルの上にピンクと白のマグカップを置いた。それから河合友子、玲、自分の前にクッキーの入った袋を置いた。

「あら、今日はやけに準備がいいじゃない、甲山」河合友子は自分の目の前にあるクッキーの入った袋を持ち上げてチェックした。

「今日は村上さんの栄転祝いと一応河合さんの快気祝いですから」

「何よ、一応って。常識的には玲ちゃんの栄転よりも私の復帰の方が大事なことじゃない?」

「そうですか?」

「何? 甲山! 私が復帰したのが不満なの!」

「いえ、思ったより早く元気になったので・・・」

「何よ、早く元気になったほうがいいでしょ!」

「頭からチップが飛び出したのに二週間で職場復帰するなんて。河合さん、頑丈ですね」甲山は自分のクッキーの入った袋を開けながら答えた。

「甲山ぁー、人をゴリラかダンプカーみたいに言ってんじゃないわよ!」

「河合さん、よくゴリラをご存知ですね。でもゴリラは分かるけどダンプカーは比喩としては変じゃないですか?」

「ププッ」玲は危うく口の中のコーヒーを吹き出しそうになった。

「れーいーちゃーん」河合友子が睨んだので、玲は慌ててコーヒーを飲み込もうとした。

「ゴホッゴホッゴホッ」コーヒーが気管に入ったのか、玲は激しく咳き込んでしまった。

「玲ちゃん大丈夫? 甲山が出来の悪いジョーク言うから玲ちゃんが咳き込んだじゃないの、もお」河合友子は玲の背中を摩りながらまたも甲山を睨んだ。

「えっ、私ですか?」甲山はそう言いながらもクッキーを食べていた。

「甲山、罰としてクッキーをもう一つ!」河合友子は威圧的に右手人差し指を甲山明美の顔の前に突きつけた。

「えっ? もうクッキー食べちゃったのですか?」甲山はそう言いながらも、もう一袋差し出した。

「うるさいわね、でも今日のクッキー美味しいわ。甘さが刺激的で。これ何?」

「今日は塩クッキーじゃないですか?」玲がクッキーを口に含みながら言った。

「河合さん、そんなことも分からないのですか? 味覚はゴリラ以下ですね、体はゴリラ並みなのに」

「ププッ」玲はまた吹き出しそうになった。

「れーいーちゃーん」河合友子は玲を見て、おもむろにペットボトルのブラックコーヒーを飲んだ。

「ところで河合さん、どうして頭の中のチップが飛び出たのでしょうね」甲山はいきなり真顔になった。

「うーん、そうねぇ・・・」河合友子は塩クッキーを齧りながら考えた。しばらく彼女は記憶の森に分け入り何かを探していた。玲と甲山は顔を見合わせた。

「やっぱり、あの変な蛾を見たためだとは思うけど」河合友子は塩クッキーを齧りながら答えた。

「そういえばあの時、蛾がこの部屋に入ってきていましたね」玲も思い出すように言った。

「蛾を見ること自体がとても珍しいし、この職場の休憩室まで来るっていうことは、あり得ないことですけど」甲山は塩クッキーを指でつまみながら不思議そうに言った。

「あの蛾、玲ちゃんの頭の上とまったじゃない。蛾って人の頭にとまる習性があるの?」

「多分ないと思いますよ、そんな習性。確か夜になると電灯とか人工的な光に集まるらしいです」

「ふーん、甲山。あなたよく知っているわね、どうでもいいことは」

「河合さんが訊いたから答えたまでです」

「あら、そうだったわね」河合友子はブラックコーヒーで喉を潤した。

「じゃあ、どうして玲ちゃんの頭の上にとまったの? 玲ちゃんの頭が光っていたのかしら」

「村上さんの頭は蛍光灯のように光は発していないと思いますよ」

「まあ、そりゃそうだわねぇ」

「あの・・・信じてもらえないかもしれないですけど、私、トンボに当たったことがあります」玲は白いマグカップを両手で温めるように持って呟くように言った。

「トンボに当たった?」河合友子は訝しそうな表情を浮かべた。

「村上さん、生きたトンボを見たことがあるのですか?」甲山も不思議そうな表情をした。

「はい、そのことはこれまで誰にも言ったことはなかったのですが・・・・・・」

「へぇー、凄いわね。トンボって木に止まってミーミーってうるさく鳴く虫でしょ」

「河合さん、それはセミですよ」玲はまたまた吹き出そうになったが必死で我慢した。

「トンボは目が大きくて飛行機みたいに羽が横にあって尾がすーっと長い昆虫ですよ」

「あーっ、蚊をバリバリ食べちゃう虫ね」

「変なことは知っているんですね」甲山は塩クッキーを齧りながら上目遣いで河合友子を見た。

「河合友子は何でも知っているのよ」

「はあ、そうですか」甲山は半ば呆れて、それから玲に視線を移した。

「村上さん、トンボを目撃しただけでも奇跡的なのにトンボがあなたに当たったのですか? 例えばあなたの頭とかに」

「ええ、ある日の夕方、街を歩いているとトンボを見かけて、『ああっ、トンボが飛んでる』って思ったら、あたしの頭にコツンと当たって」

「へえぇー、甲山みたいに鈍いトンボもいるのね」

「河合さん、昆虫は基本、人にぶつかったりしないと思いますよ。この場合、不思議なのはおそらく村上さんの方です」甲山は茶色いバッグからクッキーの入った袋を取り出した。それから塩クッキーを六個取り出し玲に渡した。

「ありがと」玲は照れながら言った。

「そう言えばそうねぇ。この前の蛾も玲ちゃんの頭にとまったし」

「河合さんもちゃんと考えることができるのですね」

「甲山! あなた、今日はえらく強気じゃない?」河合友子は水色のブルゾンジャケットのポケットからメンソレータム味のマールボロを取り出しライターで火をつけた。それから大きく息を吸い込み白い煙を甲山の顔に吹き付けた。

「ケホッケホッケホッ」甲山は右手を振って顔の周囲にある煙草の煙を拡散させた。

「止めてくださいよ、河合さん。あれっ、河合さん、煙草吸ってましたか?」甲山はまだ少し咳をしながら眼鏡を外して眼のふちをハンカチで拭った。

「何か、退院してから急に煙草が吸いたくなったのよ」河合友子は口を丸くして煙草の煙で輪っかを作った。

「河合さん、上手ですね」

「でしょう、玲ちゃん。甲山、あなたも何か言いなさいよ。お上手だとか素敵だとか」

「そんなこと、どうでもいいです。でも河合さん、どうして突然、煙草が吸いたくなったのでしょうね?」

「うーん、多分チップを外したからかなあ」河合友子はアルミ製の灰皿に煙草の灰を落としながら答えた。

「えっ? チップ外したのですか」甲山は驚いた。

「なにそんなに驚いているのよ。私の危機回避能力、まあ勘の良さはチップが無くても大丈夫なのよ」

「そうですかぁ?」

「ほら、この間の高校生が玲ちゃんを襲った事件。玲ちゃんには悪かったけど、ちゃんと危機を回避したでしょ。フランスに旅行したけど、ああいうことって私の生き方がそもそも危ない場面を無意識のうちに避けているのよ、玲ちゃんそう思わない?」

「ああっ、ハイ・・・」玲は小さく頷いた。

「それは河合さんの自分勝手な性格が、たまたまそうなっただけじゃないですか」甲山は少し呆れていた。

「うるさいわね!」

「村上さんの頭に蛾がとまったとき、河合さんの危機回避能力は発揮されませんでしたね。チップが頭から飛び出し倒れてピクピク体が痙攣してましたよ」

「うるさいね、ピクピクピクピクって。人を釣り上げられた魚みたいに言わないでよ。だいたい甲山がもう少し早く教えてくれたら、あんなふうにならなかったのに」

「えっ? また私ですか」甲山は思わず自分を指さした。

「まあ、あのことがあったからチップは要らないと思ったのよ。結局あの時はチップが役に立たなかったじゃない。そもそも人間の体に機械をいろいろ入れているなんて不自然じゃない? ね、玲ちゃん」

「ああっ、ハイ。そうですね」

「でも以前河合さんは私と村上さんは体に何も入れていないって言ったら、かなり批判的でしたよ。今の時代、自分を守るには最先端の科学技術を上手く活用しないといけないって言ってませんでした?」

「あら、そうかしら」河合友子はペットボトルのブラックコーヒーを飲み干して、新しいマールボロに火をつけた。そしてまた目の前にいる甲山の顔に煙草の煙を吹きかけた。

「ゲホゲホゲホッ、河合さん止めてくださいよ。そういう子供っぽいことは」

「あら、甲山。こういうことが子供っぽいことなの。よく知っているわね」

「何となくそういう気がしただけです。それよりも河合さん、脳のチップがなかったら海外旅行に行くことが出来なくなるんじゃないですか?」

「チチチチ、大丈夫、大丈夫よ」河合友子は右手人差し指を立てて、甲山の目の前で左右に振った。

「さっきも言ったでしょ。私の生まれ持った危機回避能力があれば、何処にでもいけるのよ。ニューヨークだってロンドンだってモスクワだって」

「モスクワはもうないですよ」甲山は呆れたように言った。

「あら、そうだったかしら」

「あそこはとっくに人が住んでないです」少しの間、沈黙があった。

「河合さん、ホントにこの間パリに行ったのですか?」

「何よ甲山、その言い方は! 私はあなたみたいに出不精じゃないわよ。行動的なの、アクティビティな女なのよ」

「ホントは仕事が嫌になって家でゴロゴロしていたんじゃないですか? 旅行のお土産もないし」

「ハハーン、甲山。あなたはパリのお菓子が欲しかったのね。パリのクッキーとか板チョコ、ビスケットとか食べたかったのでしょ?」

「別にそんなこと言ってませんよ」甲山はそう言いながら塩クッキーをモソモソ食べていた。

「甲山、私はねぇ、あなたにこれ以上太ってほしくなくて、心を鬼にしてパリの美味しいお土産をわたさなかったのよ。分かる? この優しい親心」

「河合さんは私の親じゃないですよ。じゃあ村上さんには美味しいパリのお土産を渡したのですね。いつもシフトで穴開けたのを塞いでくれるのは村上さんだし」

「うっ、それは・・・・・・。玲ちゃんはあまり甘いものが好きじゃないのよ、ねっ玲ちゃん」

「あっ、ハイ。そうですね」玲はそう答えながら二人を交互に見た。

「そうですか? 村上さんも美味しそうにクッキー食べているようですけど」

「あーっ、あれはねえ、玲ちゃんの優しい親心なのよ。甲山を傷つけないために。ね、玲ちゃん」

「あっ、ハイ」そう言うと玲は慌てて白いマグカップに唇をつけた。それから一口だけコーヒーを飲んだ。

「村上さん、いつからうちの部署に来るのですか?」甲山もコーヒーを一口飲んだ後、少し上目遣いをしながら訊いてきた。

「多分、明後日くらいにはセキュリティ対策室にお世話になると思います。今、主任さんがシフトの調整をしてくれています」

「えーっ、玲ちゃん、明後日には行っちゃうの? 困ったなあ」

「河合さん、これまでのようにドタキャンできなくなりますね」甲山は嬉しそうだった。






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