天の川銀河
「今夜はスコッチウイスキーを飲む」
クロノのカウンターに座った玲は目の前にいる名都にそう言った。
「ボウモアあたりかな?」名都は水の入ったグラスを玲と隣の勤の前に置きながら訊いた。
「いや、アードベッグ。ロックで」
「林田さんはいつものハーパーですか?」
勤は小さく頷いた。
「勤先輩、私の異動の件どう思います?」玲はシングルモルトウイスキーの入ったグラスの重みを確かめるように、右手で透明な光を発しているグラスを目の高さに持ち上げた。そしてゆっくりとグラスにピンクの唇をつけた。
「ふむ」勤もゆっくりとバーボンウイスキーを口に含んだ。しばらく二人はウイスキーの味を確かめるように沈黙した。カウンター席の天井に取り付けてあるダウンライトの黄色い光が二人に降り注いでいる。
玲は勤といるとき、ときどき自分の体のネジが全て緩んでいく感覚があった。彼女は何も考えずに、隣にいる勤と同じ時間を過ごしていることに身を委ねればよかった。
「村上さんは以前、セキュリティ対策室に異動するならば、この仕事を辞めるって言わなかったかな?」
「エッ、言ってました?」
「ここで、亡くなった後藤室長の話をしたとき。セキュリティ対策室は変な人ばかりと対応しなくちゃいけないから嫌だと」
「あーっ、言ってましたね、そう言えば。あの時はまさか自分がセキュリティ対策室に異動になるなんて思ってなかったので。そんなに深く考えていなかったです」
「ふむ」勤はそう言うとI・W・ハーパーを一口飲んだ。
玲はまたグラスを高く掲げて反射する光を眺めた。グラスの凹凸が十字の形をした光をいくつも生み出していた。彼女はグラスを下ろして右手で小さく揺すった。グラスの中にある球形の氷が「カラカラ」という鐘の音のような音を響かせた。
「岡野さんはもう帰って来ないって野神室長は言ってました。谷口さんも・・・」
「・・・・・・」
「先輩はどう思います?」
「うん、俺としては戻ってほしい」
「そうですよね。どうしてみんないなくなるのかな」
カウンターの上に勤の左手が置いてあった。玲は彼の人差し指の爪の付け根を右手人差し指の爪で軽く掻いた。勤は玲の硬いピンク色の爪が自分の人差し指の爪の付け根に引っかかる感覚が心地よかった。
「村上さんは異動のこと、どう思っている?」勤は左を向いて玲の顔を見た。玲もそれに合わせて右を向いた。
「うーん、よく分からないです。谷口さんはセキュリティ対策室にピッタリとハマるって言ってましたけど・・・」
「谷口副室長がそう言ったのか。そういえば彼女は最近ずっとセキュリティ対策室にいるな」
「あっ、そうですね。こんなに長い間、谷口さんがセキュリティ対策室にいるのを見たの、あたし初めてです」
「俺も」
「先輩のハーパー、少しあたしにも飲ませてください」
「うん」勤は自分のグラスを玲の目の前に置いた。すると玲も自分のグラスを勤の前に置いた。玲はゆっくりとグラスを傾けてI・W・ハーパーを味わった。勤は一口だけアードベッグを飲んだ。
玲はこれまで口の中に広がった香がドンと地面に落ちた感覚があった。(ウィスキーの風味がこんなに違うなんて! マンションでもハーパーを飲んでいるのに)彼女はI・W・ハーパーの違いに驚いた。
(勤さんといると時間がゆっくり流れている・・・・・・)隣では勤が右手で口を押えて目をパチパチと瞬いていた。
「勤先輩、どうしました?」
「初めてアードベッグを飲んだけど、凄いな」
「フフッ、凄いでしょ」
「村上さん、よくこんなお酒、知っているね」
「あたし、いろんなお酒を味わうこと、好きです」勤は眼鏡の奥に光る藍色の瞳がまっすぐ自分の目に向けられていることを強く感じた。その藍色の瞳の中には小さなダイアモンドが七個か八個集まって輝いているように見える。
「名っちゃん、アードベッグをもう一杯。勤先輩はどうします?」勤は遠い場所から玲の声を聞いた。改めて隣を見ると玲が頬をピンクに染めて微笑んでいる。
「じゃあ俺もハーパーをもう一杯」
バーテンダーの制服に身を包んだ名都が小さく笑いながら、玲のグラスを受け取り、それから勤のグラスを受け取った。。
「村上さんが食品売り場からセキュリティ対策室に異動するのは残念だ」
「フフッ、本当ですか」
「でも君はセキュリティ対策室で働く方が君の能力を十分に発揮できるような気がする」
「先輩、なんか人事課の人みたいな言い方していますね」
「エッ、いや、そうかな」
「やっぱり異動した方がいいのかなぁ」
「・・・・・・」
「お給料も上がるし」
「うん、お金は大切だ」
「そうですよね」玲はひと口アードベッグを味わった。
「俺も正直、村上さんがいなくなると辛い。他の人のシフト変更の調整とかが大変になるし」
「アーッ! 先輩、あたしをそういう風に見ていたのですか?」玲の顔が勤の顔すれすれに近づいた。勤は反射的にのけぞった。
「相変わらず、仲がいいですね」名都がグラスを磨きながらクスクス笑った。
「あたしと先輩はラブラブだもん」玲は勤の左腕に自分の両腕を絡ませて体をあずけた。
「でも玲ちゃん、他の部署に異動するのでしょ」
「うん、仕方ないよ。あの人に言われたら逆らえないし」
「ふーん」名都は不思議そうな表情を浮かべた。
「それに林田主任も異動した方がいいって言ってくれたし」
「村上さん、自分でちゃんと決めないと駄目だよ」勤は珍しく心配そうな表情で言った。
「はい、わかってます・・・」紅いフレームの眼鏡の奥の瞳は閉じられていた。
しばらく二人は黙っていた。
名都はカウンターの奥で球形の氷を造っている。
「ごめん、村上さんはいつも物事をしっかりと深く考えているよね」勤は理由の分からない不安を自分の胸の中に抱えていた。
「いえ、勤先輩。先輩の言う通りです、あたしは・・・・・・」玲は小さくため息をついた。そして眼鏡を外して白いハンカチでレンズを拭いた。それからそっと眼鏡をかけた。
「いつも自分で決断して何かするってことがないのです」
「そうかな?」
「何か、周りの都合で自分は動いている気がします」
「それは多かれ少なかれ、大抵の人はそういう風に動いていると思うけど」
「はい、そうですけど・・・」
「今回の異動のことも、そう感じるのかな」
「ええ、まあ、そうかなぁ」玲は球形の氷しか残っていないグラスを右手で持って揺らした。球形の氷は回転したが音は出なかった。
「お代わり、どうします?」名都が訊いた。
「うん、アードベッグをロックで」玲は名都の顔を見るために上を向いた。
「かしこまりました」名都は静かに答えた。
身を切るような寒い夜だった。空はいつものように分厚い雲に覆われて星も月も見えない。玲は大きな道路の側に整備された歩道を歩き続けた。高層マンションが立ち並ぶ風景は見慣れている。街路樹もなく時折点滅信号が鈍く光っている。彼女は機械的に右足左足を交互に前に出した。青いカジュアルシューズの底が歩道に降りるたびにコンクリートの冷たさを感じる。
部屋を出て一時間が過ぎた。人通りが少ない通りを玲は歩いていた。黒いフードコートのポケットに手を突っ込み数メートル先の地面をぼんやりと眺めながらゆっくりと歩を進める。
玲はその夜、部屋にいることが耐えきれなくなった。過去の記憶が違う形となって地面から蛇のように彼女の体に巻き付いて這い上がってきた。好きなジャズソングを聴いても何も心に響かなかった。お気に入りのスコッチウイスキー、アードベッグを飲んでも味が分からなかった。彼女はベッドに仰向けに寝て深い呼吸を繰り返した。ぼやけた白い天井を眺めていると徐々にその天井が降りてくるように思われた。彼女の部屋にある何もかもが彼女に悪意を持っていた。玲は急いで財布をジーパンの後ろ右ポケットに突っ込みフードコートを羽織った。毛糸の白いマフラーを首にグルグルと巻き蒼い毛糸の手袋をはめて部屋を出た。
逃れるようにこの街に来て一か月が過ぎた。仕事も住む場所も見つかった。でもまだ彼女の心は安定していない。(いつものことだ・・・・・・)と自分に言い聞かせた。
玲は人が多く歩いている通りを探していた。しかし彼女が探しているような賑やかな通りはなかった。用水路のような小さな川に沿った道を歩いていると視線を感じた。左斜め前に真っ赤なコートを着た女の子が立っていた。彼女は玲を見てニコッと笑った。大きな瞳が印象的だった。彼女は玲の左手をとって言った。
「私のお店で少し休みませんか?」何の抑揚のない言葉だったが玲の耳から脳の中までスムーズに入って行った。
細長いビルの五階に彼女の店はあった。入口の木製ドアに「クロノ」とだけ書いてあった。
「おはようございます、マスター」玲を連れてきた女の子はカウンターの中にいる中肉中背の男に声をかけた。男は黙って小さく頷いた。
「好きなところに座っていてくださいね。私もすぐ準備しますし」玲は言われる通りカウンターの一番奥の席に腰を下ろした。それからフードコートをコート掛けに吊るし、マフラーもそこへ引っかけた。
「どうぞ」マスターは小さなグラスを玲の前に出した。琥珀色のコンソメスープが入っていた。
玲はその温かいスープを用心深く飲んだ。鮮やかなコンソメの風味が喉の奥から胃へ広がっていった。彼女のこわばっていた体も少し楽になったような気がした。
「お待たせしました」紅いコートを着ていた女の子はバーテンダーの黒い制服を身に着けていた。その制服は彼女を大人っぽくさせた。
「初めまして、北見名都と言います」
「あっ、あたし、玲・・・。村上玲といいます」玲は名都の言葉に引き込まれるように自分の名を告げた。それから暫くの間、玲は室内を見渡していた。七、八人くらいしか座れないカウンターと四人掛けのテーブルが二つあるだけだった。
「スコッチウイスキーがたくさんある・・・」玲はカウンターの向かいに陳列されてある酒の瓶を見て呟いた。
「スコッチウイスキー、何にされます?」名都は球形の氷を作っていた。
「じゃあ、ボウモアのロックで」
「ボウモアのロックですね、かしこまりました」
名都は球形の氷が入ったバカラのグラスにボウモアを注ぎ、少しなじませた。そしてその重量感のあるグラスを玲の前にある黒いコースターに置いた。
「前のお店にはスコッチウイスキーがなかった」玲はグラスをかざしながら言った。
「前のお店、じゃあ違う街からこの街へ来たのですか?」
「そう」玲はグラスに唇をつけた。マスターと呼ばれた男がチラッと玲を見た。
「前に住んでいた街から逃れるようにこの街に来たの」
「そうですか」名都は玲を見つめて、また球形の氷を造り始めた。
玲が一杯目のボウモアを飲み終えた頃、常連客が一人入ってきた。そして二杯目のボウモアを飲み終えた頃にはカウンター席は玲を含めて四人の客がいた。
玲が店を出るときに名都はドアまでやって来て言った。
「また来てくださいね、玲さん。待っています」
玲は微笑んで小さく頷いた。エレベーターで地上に降りると世界は深い闇に包まれていた。街灯の白い光もぼやけている。
玲は見上げてクロノの位置を確かめた。彼女が出てきたビルの五階の窓から僅かに白い光が漏れていた。
「あたし、セキュリティ対策室に異動します」タクシーの後部座席、玲の声は控えめだった。
「うん・・・」
「職場で先輩とあまり会えなくなるなぁ」
「うん・・・」
「淋しくなるなぁ」
「うん・・・」
「ホントですか?」勤は右腕で玲の右肩を抱いてそっと引き寄せた。
二人を乗せたタクシーは闇夜の街を静かに走って行く。玲は安心したように勤に体を預けていた。
勤は玲の重みを感じながら窓の外を眺めていた。ぼんやりとした街灯の光が等間隔に流れていく。明かりの灯っていない家が時折見える。そして高層マンションが連なって現れ消えていく。タクシーは音もなく玲のマンションの前で停車した。
マンションのエントランスに向かって二人は歩いて行った。エントランスの前にある幅の広い階段に誰かが座っていた。
「こんばんは、グホッグホッ」かすれて耳障りな声と咳が玲の耳に飛び込んできた。
玲はその声に反応せず体を勤に預けてマンションに入ろうとした。
「ん・・・?」勤は立ち止まった玲を振り返った。黒いハーフコートを着た玲は真夜中の闇に溶け込んでいるようだった。
「お若い二人がこれからお楽しみのところ、お御足を止めさせて申し訳ございません。ぐぇほぐぇほぐぇほ」
玲は無意識に横にいる人の顔を見た。静かな闇の中その顔は引きつるように笑っていた。マンションのエントランスの薄い光に反射した小さな目は銀色に光っていた。玲の視線に誘われるように勤もその人影を見た。何か丸まった物体がもぞもぞと蠢いているように見えたが、和服を着た老婆だった。薄い闇の中に二つの目だけが銀色に小さく光っていた。
「お嬢様、今からその殿方と夜の営みをなされるのですか? ヒッヒッヒッ・・・」
玲はその言葉に引きずれるように老婆をじっと見つめた。
(あたしは娼婦・・・・・・)玲の頭の中にその声が響いた。その声は自分の声でもないようで、また誰の声でもないような気がした。
「本当に好きな方と、巡り会うことはできないのです。ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は顔を歪めて笑った。
玲は自分の体が空洞になったように感じた。体の輪郭だけが存在して中には薄い空気が漂っているだけだった。
玲は自分の中を通過して行った様々なものを思い出した。(あたしにも親と呼べるような人がいたのだろうか? 父親は母親はどんな顔だったのか? 少女時代に仲の良い女の子と手を繋いで歩いたことがあった? 好きな異性と抱き合ってキスしたことがあっただろうか、その時あたしの胸は喜びに震えたのだろうか?)
玲の脳裏には周りの風景が流れていき自分だけが佇んでいる様子が浮かんできた。彼女の周囲には様々な出来事があった。しかしそれらは全て彼女には無関係だった。玲はいつもこの世界から放り出されてポツンと一人だけ別の場所にいた。自分の手を見れば透けて見えそうだった。
「パリに行ってきたけど、あそこはまだ元気があったわよ」河合友子の言葉が聴こえる。(本当に河合さんはパリに行ったのかしら? 活気のある人が住んでいる場所が存在するのだろうか?)
玲はこれまでいろんな街を彷徨ってきた記憶を辿った。ずっと前から何かを求めて彷徨い歩いてきた。好きと想える男に体を開いてきた。どの街も灰色の景色で、そしてどの男も何も 与えてくれず、自分も男たちに与えるものはなかった。いつも男にしがみついている自分の体を天井から冷めた目で眺めているだけだった。(何もない、いや少しずつ自分が擦り減って無くなっていくみたい・・・)彼女の中にその空ろな感覚だけがあった。
「あなたは誰ですか?」勤の低い声が玲の耳に届いた。その振動が彼女の耳から脳へ届きそして全身へ拡がっていった。
「ヒヒヒッ」老婆はゆっくりと勤を見た。
「林田様はあたしのことをご存知でしょう?」老婆は口角を上げたが頬はたるんだままだった。
「いや、知らないな」
「あたしは林田様とあなた様のお友達をよく存じ上げております、ぐぇほぐぇほぐぇほ」老婆は猿が嘔吐するような仕草を見せた。彼女の口の右端から涎が一本流れ落ちた。老婆は懐から手ぬぐいを取り出し口の周りを丁寧に拭いた。
「それは高広、岡野高広のことですか?」勤は玲を引き寄せながら訊いた。
「岡野様はとても素敵な殿方ですねぇ」
「高広は何処にいるのです?」勤は老婆に詰め寄った。彼の目の前には老婆の銀色の目があった。二人は無言のまま暫く見つめ合った。勤にとって老婆の銀色の目は深い井戸のように思われた。無機質的な銀色がやがて灰色になった。やがてその灰色はくすんでぼやけた黒に変わっていった。そしてぼやけた黑の中心に漆黒の小さな点が現れた。漆黒の小さな点はどんどんスピードを増して遠ざかって行くように感じられた。いくら追いかけてもその小さな点には届かない、永久に届かないーそんな無力感が勤の胸に湧いてきそうだった。
「ヒヒヒ―ッ、林田様は時の狩人かもしれませんね・・・・・・」老婆は静かに目を閉じた。勤は自分の右腕を優しく引っ張る玲の両手を感じた。
「時の狩人?」勤は無意識のうちにその言葉を繰り返した。
「人様はご自身を守ろうと生きてきましたが、やはり限度というものがございます。自分を守ることは自分を殺すことにも繋がりかねません、ヒッヒッヒッ。そこの可愛いお嬢様はご存知のようですが」老婆はそう言うと再び目を開けた。その小さな目に異常なほど力強い銀色の光が宿っていた。
玲はその銀色の光が自分を覆いつくし世界の果てへ運び去っていくのではないかという恐怖に襲われた。彼女は自分の体が素粒子レベルまで分解され無に還元されていくように思われた。時も空間も感情も思考も記憶も何もかも崩壊していく、それはある種の安らぎでもあるように感じられ、とても恐ろしく間違ったことのようにも思われた。
「ほほぉ―っ」老婆は口を丸めて感心したように声を出した。
(村上さん?)玲は勤の聞きなれた不愛想な声を聴いた。
玲は霧散したと思われた自分の体の両手がはっきりと見えた。勤の右腕を掴んでいる両手から自分の体が再構築される感覚があった。自分の体が加速度的に再生していく奇妙な喜びに彼女は包まれた。
「・・・さん?」勤は不思議そうに玲の顔を見つめていた。
「あっ、ハイ」
「どうしたの、ボーッとして」
「エッ、あの、ちょっと眠くなって」玲は自分が何を言っているのか分からなかった。
一陣の風が通り抜けた。大きな蛇がのたうち回っているように、つむじ風がうねるように吹き上がった。アスファルトの道路の砂塵が舞い上がっていく様子を玲は追いかけるように見上げた。
重く垂れこめている雲が静かに割れていった。無数の星が集まっている天の川銀河が姿を現した。
「これはこれは・・・・・・」老婆は小さな目をさらに細めながら、夜空の一角に現れた天の川銀河を見上げた。勤も玲もこれほどの数の星を見たのは初めてだった。
玲はどれぐらいの時間が経ったのか分からなかった。気がつけば天の川銀河は分厚い雲に覆われ姿を消した。
「今夜はいいものを見させてもらいました、ぐえっほぐえっほぐえっほ」老婆は目を閉じて眉間の下の鼻筋を右手の親指と人差し指で軽くマッサージしていた。
「林田様」
「ん?」
「先ほどのご質問にお答えしましょう。岡野高広様はご自身の意思で動かれておられます。ヒッヒッヒッ」老婆は呪文を唱えるように言った。
「それはどういうことですか?」
「その言葉通りです、ぐえっほぐえっほぐえっほ」老婆はまた眉間の近くをマッサージした。
「ふむ」勤は頷いた。
「お二人のお楽しみを邪魔して申し訳ございません。ヒッヒッヒッ。それではごきげんよう」老婆は喘息の小さな発作のような音を出しながら真夜中の闇に溶けるように消えて行った。
「勤さん・・・」
「エッ!」勤は自分の右腕に体を預けている玲を見た。玲は恥ずかしそうに俯いていた。
「あのお婆さん、野神室長が私たちに見せた写真の人でしょう? それに岡野さんが行った駄菓子屋さんの人じゃないかな」
「エッ、そうだったのか」勤は難しい表情を浮かべて考えた。
「フフッ」玲は嬉しそう微笑んだ。そして勤の胸に顔をつけて彼を抱きしめた。




