セキュリティ対策室という場所
「どうかしら? 前向きに考えてくれない?」
野神室長の言葉に玲はビクッと反応した。
岡野高広が行方不明になってから一週間が過ぎた。今も彼の消息は不明だった。彼が最後に会った人間は玲と勤だった。二人は六日前に野神室長と谷口副室長から当日の様子を相談室で事細かに訊かれた。今この同じ相談室で玲が対面する相手はやはり同じ野神室長と谷口副室長だったが、六日前は勤も同席だった。だからその時、玲は平常心を保つことができた。だが今日は勤はいない。
「村上さん、そんなに緊張しなくていいよ。まあ野神さんは見た目きつそうだから仕方がないけど」
谷口副室長はニコニコしながらほうじ茶をすすった。実際、谷口副室長がいなければこの場にとどまることが出来たかどうか玲は不安に思っていた。
玲は自分が他者に対して許容範囲が広い方だと思っていたが、野神冴子に対してはなぜかとても萎縮してしまう。そしてそのことを不思議に思っていた。
「村上さん、あなたは売り場のパート社員としてとても有能だと伺っています。それから岡野君からも以前万引き犯を捕まえてくれたことも聞いています。私の部署、セキュリティ対策室に入ることはパート社員から正社員になってもらうということでもあります。待遇面でもとても良くなります」
「はい・・・・・・」玲は目の前に座っている野神室長の顔を一瞬見て、それから隣の谷口副室長の黒い瞳を見た。
「村上さんはフルタイムパートでしょ。一週間で四〇時間かぁ。大丈夫、大丈夫。残業は多いけど、あなたは若いのだから問題ない」谷口副室長はとても楽しそうに話していた。
玲はテーブルの上にある白いカップに目を移した。白いカップに入っているレモンティは既に冷めていた。
「あのぅ、岡野さんがもし帰ってきたら・・・」
「岡野君はもう帰って来ないわ」
「ああーっ、うんうん、残念ながら私もそう思うなぁ」谷口副室長はまたほうじ茶をすすった。
「そうですか」玲はそう言いながら(岡野君はもう帰って来ないわ)と先ほどの野神室長の言葉を頭の中で繰り返した。そして(また人間がいなくなるのかなぁ)と胸の中でため息をついた。
「村上さん、私たちの部署はあなたの力を十分に発揮できるところだと思うよ。それに私の勘だけど、セキュリティ対策室はあなたにピッタリとはまるのじゃないかって」
「ピッタリと、ですか?」玲は不安そうに谷口副室長の顔を見た。
「それとも野神さんが怖いかな?」
「谷口さん・・・」野神室長は隣に座っている谷口副室長を見ず、その視線は真っ直ぐ玲に向かっていた。
「いえいえ、そんなことありません」玲は慌てて首を左右に振った。
「野神さんがうちの部署に来たとき、伊能君も甲山ちゃんもビビっていたけど今は平気になっているよ。岡野君は最初から野神さんのファンだったけど。あれぇー、一番のファンが野神さんを襲っちゃったわね!」
「谷口さん」言われた当事者は隣の部下を一瞥した。
「アチャー、失言失言」谷口副室長は大げさに頭を掻いて小さく笑った。
玲は二人の会話を聞いて緊張がほどけていくような、逆に緊張がさらに増していくような矛盾した感覚の中にいた。
(そう言えば後藤前室長がいたとき、あたしはよくセキュリティ対策室に行っていた)玲は高梨香が行った万引き事件に関わり、セキュリティ対策室に何度か足を運んだ。しかしそれ以前にも勤と高広の関係に引っ張られたり甲山と話したりすることで、セキュリティ対策室にいた記憶がある。しかし今、彼女にとってセキュリティ対策室は以前ほど親しみのある場所ではなくなっていた。
(後藤前室長から野神室長に変わったからかなぁ?)玲はその答えに違和感を覚えた。そして自分は何か大切なことを忘れているのではないかと思った。
(セキュリティ対策室はあなたにピッタリとはまる・・・。谷口さんはそう言ってくれたけど)玲は静止した時間の中にいるような空間で考えていた。目の前にいる二人の存在感は消え失せた。
(セキュリティ対策室って何をする部署なのだろう?)玲は初めてそのことについて考えていた。
「セキュ対っていいわよねぇー、何もしなくっていいお給料貰えるのだからぁ」以前河合友子が休憩室で話していることを玲は思い出した。
「でも、このお店が事件や事故がほとんどないのはセキュリティ対策室のおかげじゃないのですか?」
玲はテーブル掛けの椅子に座っている甲山をチラッと見ながら、小さな声で答えた。甲山はお茶を飲みながらチョコチップクッキーをモグモグ食べていた。
「そぅおー? 室長の後藤ブーにロボットみたいな伊能、おちゃらけの岡野、何処にいるのか分からない谷口さん、そして甲山はあの調子だし。ヘンテコな奴ばっかりじゃない」
「河合さん、よく知っていますね」
「あたしに分からないことはないのよ」河合は左手を腰に当てペットボトルのカフェオーレを一口飲んだ。
「この店の保安関係者は優秀みたいだけど、それよりも裏の方はヤバいみたいよ、超ヤバいらしいの」河合はわざとらしく声をひそめた。
「裏の方って?」
「何よ玲ちゃん、しらばっくれて。ほら、掃除屋さんよ、お掃除屋さん! あのチームの中に裏保安部隊の人間が混じっているのよ。まあ人間っていうよりバケモノよ、ねえ甲山」
河合はそう言いながら甲山に近づき、右手を出してチョコチップクッキーを催促した。甲山は渋々チョコチップクッキーを数個河合に手渡した。
「セキュリティ対策室と保安部との連携はしっかりできています」甲山は茶色いバッグからシュガークッキーを取り出した。
「そういうことじゃないって」河合友子そう言いながらシュガークッキーを五個奪い取り二個玲に手渡した。
「アッ、これっ」玲はシュガークッキーを甲山に返そうとした。
「いいですよ、村上さん。食べてください」甲山は不愛想に言った。
「甲山、あなたはこんなものばかり食べているからビア樽みたいにブクブク太るのよ。あたしと玲ちゃんはあなたの健康のことを考えてクッキーを食べてあげているのよ、わかった?」
「はあ・・・」甲山は気のない返事をして急須から湯飲み茶わんに玄米茶をついだ。そしてその湯飲み茶わんを玲の前に置いた。
「甲山、あたしの分は?」
「河合さんはカフェオーレがあるじゃないですか」
「シュガークッキーにはお茶よ、お茶!」
甲山は食器棚から黒い湯飲み茶わんを一つ持ってきた。それからその湯飲み茶わんに玄米茶をつぎ河合の前に置いた。
「何か、辛気臭い茶碗ね」
「そうですか、河合さんにはよく似合うと思いますよ」
「こういう辛気臭いものは甲山が持つべきよ。あなた、何、その可愛らしい薄いピンクの茶碗は」
「これは私が買って持ってきたマイ茶碗です」甲山はすまして玄米茶を飲んだ。
「なによ、その偉そうな態度は。大体私たちがセキュ対のあなたと付き合ってあげているのだから感謝しなさいよ、ねえ玲ちゃん」
「あっ、はい」玲は怪訝そうに首を傾げた。
「別に無理して付き合ってくれなくてもいいんですけど」甲山はモグモグとシュガークッキーを食べながら答えた。
「玲ちゃんはまだ知らないだろうけど、セキュ対にいると友だちできないのよ。なんかみんな敬遠するのよねー」
「えっ、そうですか?」
「ねえ甲山。あんたなんか話し相手はあたしと玲ちゃんくらいしかいないよね」
「そんなことないですよ」甲山は茶色いバッグからラムレーズンクッキーの入った袋を取り出した。河合は当然のように右手を差し出した。甲山はぶすっとした表情を浮かべ、ラムレーズンクッキーを三個手渡した。
「玲ちゃんの分がないわよ」河合の高圧的な言葉に甲山は渋々クッキーを二個追加した。
「甲山さん、私はもういいです」玲は焦った。
「いいのよ玲ちゃん。甲山はこういう風に言われることが好きなのよ。ねっ甲山」河合友子はそう言うとラムレーズンクッキーをボリボリと齧った。
「玲ちゃん、セキュ対の部屋に他に人間が入ったのを見たことある? ないでしょ。あるとしたら万引き犯とか変なクレーマーとか保安関係者くらいよ。それにしても何でセキュ対の部屋はあんな所にあるのかしら? 入口の真上二階と一階の真ん中くらいでしょ。それにガラス窓は曇っているし。入ってみるとやたら広いし・・・。それなのにセキュ対部屋を知らない人も結構いるのよ。変なのーっ」
「河合さん、セキュリティ対策室の部屋はあそこじゃないと駄目です」甲山は玄米茶も飲まずクッキーも食べず真顔で言った。
「ふふーん、そうなのねぇ」河合友子はつまらなそうに言った。
「村上さん、返事は一週間後でいいわ。それまでよく考えてほしいの」野神室長は立ち上がり相談室を出て行った。
「玲ちゃん、待っているよ」谷口副室長は玲の右肩を軽く叩きながら退室した。
玲はしばらく呆然として目の前にある白いカップを眺めていた。そのカップは空だった。彼女はいつ冷めたレモンティを飲んだのだろうかと思った。




