岡野高広の失踪
「オーッ、やっと来たか」
高広は嬉しそうに右手を上げた。病室は四人部屋だが入院患者は高広しかいない。勤はやや呆れた表情を浮かべ、その隣にいる玲はニコッと笑った。
「元気そうで安心しました」
「俺はもう元気だけど、いろいろ調べられて嫌になる」
「まあ、あれだけの騒動を起こしたからしょうがないだろ」勤はパイプ椅子に座りながら言った。勤は食料品売り場の副責任者ということで、高広の事件を知らされていた。
「まさか俺がマインドコントロールされるとは思わなかった」高広は首を少し左斜めに傾けながら左手で頭をかいた。
「でも岡野さん、元気になって良かったです。はい、これ、お見舞いです」玲は少しはにかみながら小さな白い紙の袋を手渡した。
「ありがとう玲ちゃん。やっぱり勤とは違うねぇ」早速、高広は白い紙袋の中にある小さな箱を開けた。そこにはチョコレートケーキとイチゴショートがあった。
「休憩室でこのケーキ食べようぜ」彼は灰色のウィンドブレーカーをパジャマの上に着て二人を誘導した。
南向きの大きな窓がある休憩室に白いテーブルが四台あった。窓から陽光は差し込んでおらず、天井の灯りから白い光が降り注いでいた。エアーコンディショナーは二十五度に設定されている。
「岡野さん、コーヒーはホットですかアイスですか? それからミルクと砂糖はどうします?」玲が自動販売機の前で振り返りながら訊いた。
「玲ちゃん、ホットコーヒーでお願いしまーす。それからミルクも砂糖も多めで」高広は上機嫌で小箱の中からチョコレートケーキを取り出して紙製の丸い皿に置いた。
「もう一つのイチゴショートは明日食べますか」玲はホットコーヒーの入った紙コップと勤のアメリカンコーヒーの入った紙コップ、それから自分のホットレモンティの紙コップを白いトレーにのせ、高広の座っているテーブルに持ってきた。
「いや、もういいよ。俺、毎日ショートケーキはいらないから玲ちゃん、食べて」
「エーッ、いいのですか? 嬉しい!」玲はそう答えながら高広の対面の席に座った。そしてイチゴショートを取り出して、プラスチックの小さなフォークでそれを半分に切り分けた。
「はい、先輩」玲は切り分けたイチゴショートを紙の皿にのせ、隣の席にいた勤の前に置いた。
勤はアメリカンコーヒーを一口飲みながら高広を見た。
「それでお前もあの水樹君と同じように全く記憶がないのか」
「ああ、恥ずかしながら」高広はチョコレートケーキをモグモグと咀嚼しながら言った。
「しかしセキュリティ対策室のスタッフだと、その辺りの耐性は相当強いはずだけどな」
「まあな」高広は紙コップの中のコーヒーを小さなプラスチックのスプンでかき回した。
「確かに俺が野神室長を襲った時の記憶はない。けどその時に俺は何かに引っ張られた感覚があったような気がする。何かに誘われているような不思議な感覚だったな」
「お前にしては珍しい言い方だな」
「本当です。岡野さん、まるで詩人になったみたい」
「ふむ」高広は静かに頷いたので勤と玲は顔を見合わせた。
「あの感覚はこれまでにないものだった。何か大きなものに抱かれているような安堵できるものだった」
「でもあの時お前は無茶苦茶戦闘モードだっただろう?」
「まあ操られていたからな・・・・・・」その時、玲はビクッとした。
「こんにちは、お久しぶりですね」
玲の背後には長身の美しい男性が立っていた。その男はグレーのスラックス、アイボリーのシャツ、紺のブレザーというシックなファッションだが、映画俳優のように華やかな印象を周囲に与えていた。勤も高広も怪訝そうにその美しい男を見た。
「あの、警察の方でしたね。確か深町さん?」玲の言葉は半信半疑だった。
「ありがとうございます、村上玲さん。覚えていていただいて」深町智は親密な微笑みを浮かべた。
「誰だよ、この人?」高広が勤に訊いた。
「十日くらい前、村上さんがレジの時に水樹君に襲われただろ。その時に来られた警察の方だよ。お前も会っただろ」
「ああ、そうか」
「お前、大丈夫か?」
「ああ」高広はそう言うと目の前のコーヒーカップに目を落とした。
「そういえば僕も少し喉が渇きましたねぇ。ここで少し休憩していいですか」深町はそう言いながら先ほど玲が使った自動販売機に歩いて行った。そして冷たいウーロン茶を入れた紙コップを右手に持って戻ってきた。それから当たり前のように高広の隣に座った。
「初めましてかな? 僕はこの街の城北管区に勤務している深町です。先日はこのお二人にいろいろご協力して頂いたのです」
「そうですか。俺は彼らの同僚で岡野高広といいます。よろしく」
警察を嫌悪している高広を知っている勤と玲は再び目を見合わせた。
「こちらの病院に入院されている?」
「ええ、まあ」高広はウインドブレーカーのポケットからセブンスターを取り出して口に咥えた。すると深町はブレザーのポケットからライターを出して火をつけ高広のセブンスターの先に持っていった。
「ありがとうございます」高広はセブンスターを深々と吸い込んだ。
「あの時までに煙草はもうほとんど吸われることはなくなりましたね」深町は紺色のブレザーの内ポケットからピースを取り出した。それからライターで火をつけた。そして彼もピースを吸い込み白い煙を少し吐き出した。白い煙は天井に取り付けてある換気扇に吸い込まれていった。
「今となっては滑稽なことをしていた」高広は目の前の紙コップを見つめながら呟いた。
「確かに」深町少し頷いた。
玲は目の前に座っている二人の会話を聞き不安そうな瞳で勤を見た。勤は無表情で座っている。
「煙草というものを体に悪いというだけでこの世界から排除していった。その行為が自分たちの首を絞めていることが分からなかった」高広は苦悶の表情を浮かべていた。
「とても狭い視野だけでクラッシュ前の人たちは考えていた」高広の左手が持っていた煙草の灰がゆっくりと落ちてきた。深町智はテーブルにあったアルミの灰皿でその灰を受け止めた。
「でもやはり煙草は体に悪いようですよ。私も吸っていますが」
「ある種族では煙草だったか葉巻だったか忘れたが、それを回し飲みする習慣があった」
「それでコミュニケーションをとっていましたね。客人に対しても煙草を進めて礼をつくしていた人たちもいました」
「煙草一つにしても人間だけが関わっていたのではない」
高広の顔から苦悶の表情が消えた。
「おい、高広」勤の視線は真っ直ぐ高広に向かっていた。
「岡野さん、人間といってもいろんなタイプがいて様々な考えが存在しますよ」深町は煙草をゆっくりくゆらせながら微笑んだ。
「いろんな考え? どうせ自分の保身だけを考えている」
「まあ大抵の人間はそうですが。中には他者のことを真面目に考えている人もいますよ」
「あなたたち警察官がそうだというのか?」
「そうだといいのですが」深町智の顔にはずっと微笑みが浮かんでいた。
「高広、お前・・・・・・」勤は高広の小さな瞳を見ていた。勤の頭は何か引っかかる不快感を覚えた。そして彼の目には高広の黒い瞳が揺らいでいる様に見えた。深い闇のような黒からくすんだ灰色へ、そしてまた黒へと戻っていく。また高広の瞳には全く力がなく、見るということを放棄したような無機質的な質感があった。
「祭りがすでに始まっている」高広は呟いた。
「どんな祭りです?」
「よく分からない、だが既に始まってしまった」高広の瞳孔は開いていた。深町智は微笑みながらその瞳を冷やかに観察していた。勤の右手の指に玲の冷たい左手の指が絡みついた。
「古い者が新しい者かもしれない」
「それは希望ですか?」
「ある者にとっては希望であり、またある者にとっては絶望であるかもしれない」
「あなたは誰です?」深町智の顔から微笑みが消えていた。
「俺は岡野高広だ」高広はそう答えると目を閉じた。
「そうですか」深町智は紙コップのウーロン茶を一口だけ飲んだ。
五分経っても十経っても高広は目を閉じたままだった。その間、他の三人は何も言わず、ただ高広を見つめていた。高広は同じ姿勢のまま規則正しい呼吸を繰り返していた。
玲はその間、自分達がいる空間にとても小さな粒子が輝きながら現れて降りていき消え去りまた現れて降りていき消え去る光景を眺めていた。気がつくと高広は怪訝そうにコーヒーを飲んでいた。
「もう冷めている」
「高広、お前・・・・・・」勤がそう言うと同時に玲の絡んだ指が離れた。
「玲ちゃん、俺、ホットコーヒーを頼んだよね?」
「岡野さん、少し疲れが出たようで先ほどまで少し眠っていましたよ」玲はにこやかにそう答えた。
「アッ、そうなの。あれ、この人誰ですか? 失礼。何処かで会ったような・・・」
「初めまして、先日お店での強盗未遂事件でお伺いした城北管区の深町です。その節はいろいろお世話になりました」
「ああ、警察の方ね」
「たまたま皆さんを見つけて、一言ご挨拶と先日のお礼を申し上げた次第です。では失礼します」深町智は軽く会釈をすると軽やかに去って行った。
「ハンサムな警察官だな」高広は冷めたコーヒーを飲みながら呟いた。それからウインドブレーカーのポケットから煙草を取り出し口に咥えた。そしてポケットをまさぐりマッチを取り出した。「チッ」というマッチの発火音とともに小さな炎が現れた。彼はマッチのオレンジ色の炎を煙草の筒先に持っていき煙草に火をつけた。「ジジ」という煙草が燃える音がした。
「お前たち二人は不思議だな」高広の顔の周囲に白い煙が漂っていた。
「えっ、どういうことですか?」
「俺が煙草を吸っても嫌がらない」
「それは俺も煙草を吸うからだろ」
「いや、そういうことではない。もっと根本的なところで違う」高広は煙草を深く吸い込んだ。
「あたしは煙草を吸わないけど、勤先輩や岡野さんが吸っている姿は似合っていると思います。それに煙草の香りも大人っぽくて落ちつきますよ」
「勤、お前、玲ちゃんにここまで言ってもらって煙草吸わないのか?」
「ああっ」勤は慌ててジャケットの内ポケットに手を入れた。そして急いでマイルドセブンを口に咥えた。「シュポ」というライターの発火音がした。目の前に玲が持っているライターに炎が灯っていた。
「ありがとう」勤は煙草に火をつけた。
「煙草はなくなってしまうだろう」高広はぼんやりと空間を漂っている白煙を眺めている。
「ん?」
「自動販売機で表示してある銘柄も減りつつある」
「レジで販売している煙草もそうです」
「勤、煙草はどこで作られているか知っているか?」
「植物としての煙草は熱帯地方だろ。製造はいろんな国で行われているはずだ」
「いろんな国でつくられているか・・・・・・」
「つくっている国は減ってきているけど」
「それもかなり・・・」二人は静かに煙草を吸っていた。
「煙草を吸うことは生きていくことだ」高広の右手には火の消えた煙草が残っていた。
「生きていくこと?」勤の煙草は灰皿の中にあった。
「意志だ」高広は吐き出すように答えた。
三人はまたしばらく黙っていた。
「高広、お前、祭りが始まっているって言ったけど、どういうことだ?」玲は「アッ」と小さく叫んだ。
「祭りは祭りだ」
「何だよ、それは」勤は飲み干した紙コップを見つめた。彼は隣から玲の親密で心配そうな視線を感じていた。
「勤、この国には昔、たくさんの神様がいた」
「ん?」
「八百万の神々だよ」
「あ、ああっ・・・」
「この国は川・海・山・森などから豊かな恵みを与えられていたらしい」
「うん・・・」
「だが数多くの神々はいなくなってしまった」
「何故だ?」勤は無性に喉が渇いていた。気がつくと彼の目の前にアイスコーヒーの入った白い紙カップがあった。隣を見ると玲と目が合った。勤は急いで冷たい液体を喉に流し込んだ。
「我々が殺した」
「殺した?」
「ああ、殺した」
「俺たち人間が神様を殺せるのか?」
「殺すことは簡単だよ。いや神々を取り込んだのかもしれないな」高広は右上唇を歪めながら笑った。
「神様を取り込んだ? どういう意味だ」
「さあな・・・・・・」勤は目の前の男が高広の姿をした別の人間のように感じていた。彼はもう一口アイスコーヒーを飲んだ。無糖のアイスコーヒーはさっぱりした味で混乱しかけた勤の脳をクールダウンさせた。
「勤、お前は祭りを見たことがあるのか?」
「いや、ない。おそらく見たことも参加したこともない・・・かな?」
「フン」
玲は高広の言葉に冷やかさを感じていた。そんなことはこれまでなかった。
「もしかしたら、あれは祭りだったのかもしれない」勤は眉間に皺を寄せながら考えていた。
「何かのお面を被っているような・・・ネズミ? 狐かな?」勤の記憶の底に何かがチラチラと蠢いている。
「狐か・・・・・・」高広は呟いた。
(狐?)玲は以前遭遇した銀色の目をもつ狐を思い出した。本やテレビで見た狐とは明らかに異なっている生物だった。
(あの生き物は本当に狐だったのかしら?)玲は一瞬そう考えたが、その思考を止めた。この世界では言葉の意味が失われつつあるのだ。名前があるものを特定しようとも、その作業はいつの間にか意味をなさなくなってしまう。
(勤先輩はあの狐と思われる生き物を可愛くないと言った)それでも狐のことを考えている自分に玲は驚いた。自分の脳細胞が活発に働いて脳内の回路が様々に繋がっているように感じた。
その時、厚い雲の隙間から陽光が差し込んできた。休憩室の灯りを圧倒する黄金色の光が室内を満たした。玲は反射的に立ち上がり全身で太陽の光を浴びた。陽光に身をゆだねるのは何時以来なのかーその記憶も曖昧だった。
勤は眩しそうに雲の隙間からのぞいている太陽を見つめた。ふと目の前の高広に目を向けた。高広は陽光から身をそらし背中を丸めて両目を手で覆っていた。
「おい、高広、大丈夫か?」彼が言い終わると同時に太陽は分厚い灰色の雲に覆われた。
「ああ、病み上がりには陽の光はきつい」高広はまだ体を後ろに向けていた。しばらく呼吸を整えるように深く息を吐き出しては吸い吐き出しては吸っていた。それからゆっくりと瞼を上げたが、まだ両手は顔を覆っていた。彼の両目は疑い深く室内を見まわしていた。
「お前達が太陽を呼んだのか?」高広は体を戻しながら訊いた。
「まさか」勤は高広の問いかけを冗談だと思った。
「高広、お前の言っていること何かいつもと違うぞ」
「そうか・・・」
「煙草のことを真面目に話したと思ったら急に祭りの話、それから神様の話。お前らしくないぞ」
「俺だって真面目な話はするさ。いつも女の子のことばかり考えているわけじゃない」
「そうですよ、先輩。岡野さんだって真面目な話はしますよね」玲が会話に入ってくれたので勤は少しホッとした。だが高広の無機質的な表情に変化はなかった。
「後藤さんは・・・ひ・・・くぅ」高広はぼんやりした目で窓の外を眺めながら呟いた。
「えっ、後藤さん?」
「後藤前室長だよ」
「ああっ、前のセキュリティ対策室の責任者か」勤の脳裏にはやせ細った後藤前室長の姿が浮かんだ。
「あの人は偉かったかもしれない」
「お前、野神室長のファンじゃないのか?」
「まあな・・・」高広の声は静かに響いた。
「あの、岡野さん、今回のことはあまり気にしないでください。誰だってこういうことはありますよ」
「ありがとう、玲ちゃん。俺はそんなに気にしていないよ」高広はそう答えると小さ笑った。
「この際だから、ゆっくり休めよ。お前も結構なハードワークだったし」
「ああ、そうするよ」高広は落ち着いた顔で言った。
その日の夜、岡野高広は姿を消した。




