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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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I・W・ハーパーとボウモア

「それで河合さんは一か月ほど休むことになったわけです」玲はI・w・ハーパーの入ったグラスを両手で抱えながらそう言った。

「ふむ」勤は玲と同じI・W・ハーパーのロックを飲みながら頷いた。玲も勤と合わせるようにグラスを傾けた。

「いつも楽しそうなお二人が今日は静かですね?」黒い制服を着たバーテンダーの北見名都がレーズンバターの載った小皿を二人の間に置きながら尋ねた。

「名っちゃん、私だって悩みはあるのよ」玲は少し不機嫌そうに答えた。名都は小さく笑ってカウンターの奥へ移動した。

 勤はレーズンバターを小さなフォークでとり口の中に入れた。バターが溶けだすのを待つようにゆっくりと口を動かした。レーズンの鋭い甘さとバターの緩い甘さが混ざって喉を通過した。

「村上さん、これ美味しいよ」勤は自分の使ったフォークでレーズンバターを一個とり玲の口元へ持っていった。玲は少し驚いたが慌てて差し出されたものを口に含んだ。彼女は小さく口を動かしてそのレーズンバターを飲み込んだ。

「ホント、美味しいですね。あたしレーズンバターってほとんど食べたことなかったけど、こんなに美味しいんだぁ」玲はそう言うとグラスをゆっくりと傾けた。

「先輩、前にあたしって運の悪い女だって言いましたよね?」

「ああ」勤は自分のグラスの氷をゆっくりと回しながら答えた。

「やっぱりそう思いません?」

「えっ、どういうことかな?」

「ほら、後藤前室長は飛び降り自殺するし、マインドコントロールされた高校生が強盗するし、河合さんは大けがしたし・・・」

「でも、それは偶然が重なったじゃないのかな? それにこんな時代だから」

「ふふっ、先輩って前の時代を知っている感じですね」

「いや、まあ、いろんな本を読んで今と違うのかなって思っただけだよ」

「勤先輩は読書家ですからね、偉いなぁ」

「偉いのかな?」

「偉いですよ」

 玲は小さく頷きながらグラスに唇をつけた。そしてゆっくりとⅠ・W・ハーパーを口に含んだ。勤は玲が美味しそうにバーボンウイスキーを飲んでいる様子をじっと見た。玲は勤の視線を気にすることなくⅠ・W・ハーパーを味わっていた。

「河合さんのケガは脳に埋め込んだチップが不具合を起こして飛び出たらしいです」

「飛び出た?」

「はい・・・」

「ふむ」勤は曖昧に返事をしながらグラスのウイスキーを少し飲んだ。

「河合さんのチップは危険を察知する力を増幅するものらしいです」

「護身用ってわけか」

「はい」

「じゃあ、急に勤務を交代して休むのも危険回避というわけか」

「多分そうだと思います。でもそれだけではなくて自分の都合を優先させる場合もあると思います」

「河合さんの性格から考えればそっちの方が多いじゃない? 彼女の空けた穴を埋めるのは大体村上さんだから・・・。村上さんも大変だね」

「いえいえ、あたしなんか大したことないです」玲は右手をブンブンと横に振りながら否定した。彼女の頬がピンクに染まり始めていた。

「でも良かったです」玲はグラスに唇をつけながら呟いた。

「良かった?」

「はい、河合さんの怪我が大したことなくて。アッ、今回の怪我は命に別状がないから」

「確かに」玲はそう答えた勤を眩しそうに見つめた。勤は玲の視線に気づくことなく何事か考えていた。そして胸ポケットからマイルドセブンを取り出し口に挟んだ。ライターを探そうとすると彼の口元に玲の差し出したマッチの炎があった。

「ありがとう」勤は大きく息を吸い込んだ。そして白い煙をゆっくりと吐き出した。

「それで、休憩室に蛾が入ってきたんだって?」

「はい、あたし蛾を見たのは初めてだったけど、他の人も蛾だって言っていました」

「フーン、蛾ねぇ」

「勤先輩は蛾を見たことありますか?」

「林田主任だったら蝶を見たことがあるのでは?」勤の席から二つ離れた席から若い女の声がした。その女は二人を見て微笑んだ。

「香ちゃん!」玲は不思議そうに高梨香を見つめた。

「こんばんは、お二人さん」香はそう言うとウイスキーの入ったグラスを軽く上げた。

「香ちゃん、どうしてここに?」

「フフフッ、玲さんにしては単純な質問ですねぇ。私はこのお店が気に入ったからここに来ただけです」

 香はウェーブのかかった髪をかき上げながら楽しそうに言った。

「主任さん、よかったら隣に座っていい?」香はそう言いながら既に勤の右隣の席に座っていた。

「高梨さん、君はまだ高校生だろう」

「主任さん、私はもう大学生です、飛び級で。それに年齢なんて意味がありますか?」

「うん・・・まあ、そうだな」勤は不満そうな表情を浮かべた。

「でもまた事件でしょ、勤さんも大変ですね」香はつぶらな黒い瞳をまっすぐ勤に向けた。

「香ちゃん、どうしてそのことを知っているの?」玲が香の顔を覗くような姿勢で問いかけた。

「高梨家は何でも知っているのです。フフフッ」玲も勤もぼんやりと香の微笑みを見つめた。

「じゃあ香ちゃん、あたしたちのお店で最近事件や事故が続いている原因もわかるの?」

「あらっ、それは玲さんも知っているのでしょう、おそらく」香はそう言うとグラスを差し上げ中に入っている丸い氷を見つめた。

「やはり後藤前室長か・・・・・・」

「さすがぁ勤さん!」香はさり気なく両腕を蛇のように勤の右腕に絡ませた。

「名っちゃん、おかわり!」玲はグラスを高く差し上げた。

「ハーパーでいいですか?」名都はカウンターの奥から出てきた。

「ハーパーでいい!」

「わかりました」名都は少しだけ微笑んだ。

「それでは私もおかわりをお願い、マスター」

「同じお酒で?」黒野は氷を丁寧に削っていた。

「そうボウモア」

「かしこまりました」黒野の声が低く響いた。玲は誰かの視線を感じた。名都が玲を見つめていた。玲が名都と目が会った瞬間、名都が小さく首を傾げた。そして玲は深呼吸した。

「後藤前室長が結界を張っていた?」勤が呟いた。

「そうですねぇ、結界といえばそれらしきものなのでしょうね」

「どういうことかな?」勤は隣の香を凝視した。

「後藤のオジサマはお店っていうか働いていた部署とマッチしていたんじゃないかって、パパは言っていました」

「セキュリティ対策室が?」

「先輩、タバコの灰が落ちますよ」玲が透明の丸い灰皿を勤の前にそっと置いた。

「ああ、ありがとう」勤は短くなったタバコを灰皿に押し付けた。タバコの白い煙は細くなり消えた。

「先輩もお酒なくなりましよ。おかわり、いるでしょ?同じのでいいですか」玲は小首を傾げ勤の目を覗き込んだ。

「あっ、ああ」勤は気圧されたように頷いた。

「名っちゃん、先輩もおかわり。ハーパーで」玲は勤のグラスを右手で高く差し上げた。名都はそれに応えるように小さく頷いた。

「セキュリティ対策室は御守りだとパパは言っていました」そう言って香はボウモアを一口味わった。

「御守り?」

「どこのお店も事業所もそういった観点で人材を配置しているということですね」

「それが後藤前室長?」

「ほかの人もそうなんじゃないかな? 私が玲ちゃんに捕まって対策室に行ったとき、そんな感じがしたもん」

「どんな感じだろ?」勤は呟いた。それからグラスの液体を見つめて、その液体をグイっと飲んだ。

「いい雰囲気でしたよ、福福として」

「福福なの?」玲は口を尖らせて香を見た。

「そう福福!」

「福福しいのは後藤室長の顔じゃないですか」玲の言葉を香は微笑みながら受け止めた。

「じゃあどうして後藤前室長は異動したのかな?」

「さあ、わかんない」香はあっけらかんと答えた。そして美味しそうにボウモアを口にした。

「勤さん、知りたい? 知りたかったら今度、それとなくパパに訊いてみようかな?」

「いや、別に」

「本当?」勤の目の前に香の黒い瞳があった。なぜかその瞳が勤にはとても大きく見えた。勤の視野全体を覆うような瞳に映った。そしてその瞳の色が少しずつ変化していった。

「先輩・・・・・・」勤は左腕を指で突かれている感覚を覚えた。

「ん?」左を向くと不思議そうな表情を浮かべている玲がいた。

「どうしたのですか? さっきから固まったみたいにずっと動かないし」

「えっ?」勤の声はかすれていた。

「はい、お水」勤は差し出された水をゆっくりと口の中に湿らせた。

「あれ、高梨さんは?」

「とっくに帰りましたよ。10分前かな」

「えっ! 帰った?」

「ええ、先輩、彼女がおやすみなさいって挨拶してもぼんやりしていましたよ。何か考えごとしていたのですか」

「いや、うん、まあ・・・」

「何か悩み事があったら、あたしに言ってくださいね」玲は微笑みながら小さな声で言った。

「ああ、わかった」勤は自分がどこにいるのか、今の時刻は何時なのか、そんなことも分からなかった。

「勤先輩、疲れていません?」

「うーん、体だけは丈夫だと思っているけど」勤はハーパーを一口飲んだ。氷が少し溶けたバーボンウイスキーは優しい口当たりだった。

「先輩は体も心も丈夫だと思いますよ」

「そうかな」

「でも最近はこれまでなかった出来事が続けて起きたので、先輩も少し疲れちゃったんですよ」

「そうかもしれない」

「そろそろ帰りませんか?」

「うん、帰ろう」

 玲は立ち上がると勤の左腕を両手で抱え持つと、そっと引き上げた。





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