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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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「パリに行ってきたけど・・・」と河合友子は言った


「パリに行ってきたけど、あそこはまだ元気があったわよ」

 AFZ地下一階の休憩室で河合友子はそう言いながら、サンドイッチを美味しそうに頬張った。

「そうですか」

 玲はホットレモンティのカップをテーブルに置きながら頷いた。

「シャンソンも流れているしルーブル美術館も健在。でも、だんだんこっちみたいになっている感じ。あーあぁ」

「河合さんはいつこちらに戻られたのですか?」

「今日の朝。飛行機の中ではずっと寝ていたけど、やっぱり体はだるいわ。ボーッとしている」河合はそう言いながら両手を上に上げて、肉付きの良い体を「うーっ」呻くような声を出して伸ばした。

「そう云えば私が休んでいる間、ヤバイことがあったでしょ。強盗だって。玲ちゃん怖かった? 大丈夫だった?」

「ええ、まあ、何とか」玲は少しはにかみながら答えた。

「あのぉー」後方から声がかかり二人はビクッとした。

「ミックスナッツクッキー食べませんか?」ビア樽のような容姿の女性が二人にミックスナッツクッキーの入ったビニール袋を手渡した。

「甲山―っ! いるのだったらいるって言いなさいよ」河合は早速手渡されたミックスナッツクッキーを大きな口に入れた。

「二人が入ってくる前からいましたが」

「そう、見事に気配を消すわね、その体形で」河合はペットボトルのブラックコーヒーを流し込んだ。それから口の端についたコーヒーを右手の甲で拭った。

「河合さん、食品売り場の社員ならちゃんと清潔なハンカチで拭ってくださいよ」

「うるさいわね、元はといえばあなたがクッキーをくれたからコーヒーがついたのよ」

「それって屁理屈ですよ」甲山とは思えぬ機敏な返答に玲は少し吹き出した。

「何よ、玲ちゃんまで」河合は玲に冷たい視線を投げかけた。

「すみません、すみません」玲は慌てて謝った。

「それで犯人は近所の高校生だって?」

「ええ、何かマインドコントロールされたみたいな感じです」

「ふーん、最近はそんなのばっかりね」河合はミックスナッツクッキーをポイポイと無造作に口に放り込みながら話した。

「でもうちの店舗はこの手の犯罪はとても少ないのですよ」甲山は不満そうだった。

「ハイハイ、当店舗はセキュリティがしっかりしていますからね。あっ、高校生といえばちょっと前に変装の名人で万引きしていた子がいたよね」

「えっ、何のことですか」甲山は持っていたミックスナッツクッキーを落としそうになった。

「何、しらばっくれているの」河合は右手を出してミックスナッツクッキーのお代わりを催促した。甲山は無言でミックスナッツクッキーを数個渡した。

「私はここにいる玲ちゃんが大活躍したってことも知ってるのよーっ」

「はあ」甲山は不満そうだった。

「その犯人はうちの会社のナンバー2の娘でしょ。その娘とこの前の強盗した高校生、何か関係ないの? 同じ高校だとかさ」

「いえ、別に・・・・・・」甲山は急須から湯飲みに玄米茶をつぎながら答えた。それから彼女はゆっくりと熱い玄米茶を飲んだ。

「ふーん、」河合は丸い頬を上に上げてニヤニヤした。

「あれっ」玲が部屋の灯りを見つめた。河合も甲山もその声につられて玲の視線を追った。

「ひょっとして、あれ、蛾ですか?」甲山が自信なさそうに言った。

「フーン、本当の蛾みたいね、超珍しい!」

「あの羽の模様、人の目みたいですね」玲は眼鏡の紅いフレームを少し動かして照明の鈍い光をかわした。

「どこから入ってきたのかしら。甲山、セキュリティ対策室の怠慢でしょ。昆虫を店舗に侵入させるなんて」

「はあ、でもここは店舗じゃないですよ」

「あの蛾は実は人工的な奴で、ボカン! って爆発したりして」

「それはないと思いますよ」甲山はそう答えるとクッキーを齧った。

「本当―っ? でもさ、あたしたちだって石だって元は星屑と一緒でしょ。有機物と無機物が結びついちゃっても可笑しくないわよ、ねえ玲ちゃん」

「ええ、まあそうですが」玲はまだ灯りの周囲を飛んでいる蛾を見ていた。

「玲ちゃん、何よ、ちゃんと私の話聞いているの? あなた、あの気色悪い蛾が好きなの?」

「いえ、別にそう言うわけじゃないです。ただあの蛾の模様が気になって」

 甲山はミックスナッツクッキーを齧りながらじっと玲の顔を見ていた。「ボリボリボリ」という音が小さく響いていた。

 天井の照明の周囲を飛んでいた蛾は羽を畳みスーッと河合の近くに急降下した。

「わわっ!」河合は慌てて蛾をよけた。蛾はゆっくりと舞い上がり、玲の頭上を旋回した。そして羽を広げるとヘリコプターが着陸するように、玲の茶色の髪に降り立った。

「へぇー、玲ちゃんは虫にも好かれるんだ」河合は納得したように頷いた。

「でも同じ好かれるなら蛾よりも蝶の方がいいですよ」甲山はそう言うと急須から玄米茶を湯飲み茶わんについだ。彼女は玄米茶が急須に残っていないか確認するように何度も急須を上下に動かした。

「蝶なんてほとんど見たことないじゃない。甲山はあるの?」

「いえ、ないですけど」

「あんたは突然変異種のコガネムシくらいしか昆虫、見たことないでしょ?」

「はあ、まあ。河合さんほど長く生きていないので仕方ないです」

「何よ、その言い方。私がまるであんたより百年以上生きているってこと?」

「そうは言ってません」

「じゃあ、何よ!」

「五十年くらいじゃないですか」

「ムッ」河合はわざとらしく甲山を睨んだ。

「ププッ」玲は吹き出しそうになるのを我慢するために右手で口を覆った。

「玲ちゃん!」河合は玲を見たが、その視線は玲の髪にとまっている蛾に向かった。すると蛾はゆっくりと羽を広げ、両目のような模様が河合の視界に飛び込んできた。

 一瞬の静寂があった。何かが「もぞっ」と蠢く気配がした。

「河合さん! いけません!」甲山が慌てて河合に駆け寄った。それと同時に河合は額を押さえてうずくまった。

「あっ」玲が叫ぶと蛾は飛び立っていた。

「村上さん、蛾を捕まえて」甲山に言われるまでもなく玲は右手に捕獲用特殊繊維網を握っていたが、蛾の姿は室内から消えていた。

 うずくまった河合の額から幾筋もの血が流れていた。




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