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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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真夜中の高層マンション

「パン!」乾いた音が響くと河合友子のふくよかな体がゆっくりと倒れ始めた。その体はレジを区切っているボードに引っかかるように止まった。彼女の眉間から赤い血が一筋流れ落ちていた。瞳孔は上転し口は呆けたように半開きになっている。全身が小さく痙攣し始めた。

(河合さん!)

 玲は目を開けると天井の小さな灯りが見えた。オレンジ色の光が部屋を僅かに照らしている。ベッドの横にある三段ボックスの上からグラスを取る。I・W・ハーパーの香りと氷の解けた水が残っている。彼女はグラスの中にある味のない水を飲み干した。そして三段ボックスの横にある小さなステレオセットのCDスイッチを押した。古いジャズボーカルの曲が流れてきた。(ナット・キング・コール・・・・・・フライ・ミー・ツゥ・ザ・ムーン)

 玲は人の声が聞きたかった。生きている人の声が。ナット・キング・コールの端正な声が頭の中に入ってくる。ナット・キング・コールはとっくに死んでしまっていた。

(私を月まで連れていって・・・そんなロマンティックな時代があったのかなぁ?)彼女は冷蔵庫から氷を数個取り出し持っていたグラスに音もなく入れた。それからI・w・ハーパーをなみなみとついだ。テーブルの椅子に腰掛け、ゆっくりとグラスを傾けた。ひりつくような熱い液体が喉、食道、胃へと流れていった。

「今度は河合さんかぁ」

 玲は故意に言葉を口に出してみた。その声は自分の中から発せられたものではなく、部屋の壁から響いてきたような気がした。

「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ」

 低い声が部屋に響いたが、やはりその声は自分の喉から発せられたものではなく空気中から湧き出たように聴こえた。玲は声を出すことを諦めた。

(先輩は眠っているのかな。勤先輩の声が聞きたい、先輩の肌に触れたい)部屋の時計を見ると午前4時4分だった。右手のグラスを揺らすと乾いた氷の音がした。I・W・ハーパーの琥珀色が一瞬氷を包むが、すぐに氷から流れ落ちてしまう。

 玲はゆっくりとI・W・ハーパーを飲んだ。それからグラスを三段ボックスの上に置くと自分の両手を見た。白く細く頼りなく、そしてのっぺりとした掌に見える。(この指が勤先輩―勤さんと絡み合ってそして激しくキスした。先輩のペニスが自分の中に入ってきたとき、現実の重みを感じた。今は今だと・・・・・・)勤の唇が乳首を含んだとき、彼の手が脇腹を撫でたとき、玲は本当の性的快感に震えた。

(あれは本当に自分だったのだろうか?)いつの間にか玲の頭の中はいろんな想いや過去の出来事、風景の断片が錯綜していた。彼女はグラスを手に持ち、残ったバーボンウイスキーを飲み干した。そしてまたグラスを三段ボックスに置いてあった場所にもどした。それからベランダの引き戸をあけ外に出た。

 ベランダの前にも巨大なマンションが建っている。それは黒い鉄の塊のように見える。

玲の住んでいるマンションと彼女の目の前にあるマンションの間を風が走っている。前髪が揺れて瞳を塞いだ。玲は髪の隙間から明け方の空を見上げた。そこには真夜中を思わせる漆黒の闇だけがあった。星は見えない。分厚い雲が塞いでいる。目の前のマンションには灯りがついている部屋が幾つもあった。

(人はずっと動いている)玲は今が夜の終わりでもうすぐ新しい一日が始まるという感覚がなかった。朝、昼、夜の区分は彼女にとっても、ほとんどの人間にとっても意味がなかった。

 以前見た夢を思い出した。人間らしき物体がぶら下がって、その縄が切れてその物体が落ちていくーそんな夢だった。その夢を見たとき、玲はとくに恐怖を感じなかった。ただ単にぶら下がっている物体が落ちていく場面を見ただけだった。その物体はボクシングのサンドバッグのようでもあったし、黒革の袋に細長いものが入っているようにも見えた。彼女はその夢を見たことすら忘れていた。数日前、後藤前室長が四階から落下したとき、その夢と一致したのだ。

「ヒュー」という音が鳴り強い風が吹いた。玲は髪を押さえながら夜空を仰ぎ見た。分厚い雲が激しく動いているような気がした。一瞬、雲が裂け紫色の星が見えたように思えた。黒い鳥の群れが彼女の前を横切った。

「紫の星・・・・・・」彼女は再び闇に覆われた空を見上げた。けれども夜空は分厚い雲がすべてを覆っていた。

(いいことがあればいい)玲はそう願いながら部屋に入った。そして目覚まし時計のアラームが鳴るまでぐっすり眠った。



 勤はラガービールを飲みながらナッツを齧っていた。彼はナッツが奥歯にかみ砕かれている感触が好きなのだ。

 部屋の壁にかかってある丸い時計の針は午前一時を回っていた。

 食卓の白い灯りの下、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返していた。一定期間が経つと彼は村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返す。それ以外の期間は他の小説を読んでいる。どうしてこの作品を読み返すか勤自身もわからない。ただこの小説を読んでいると体の中の絡んだ部分がーそれは頭の中なのか、体の一部なのか、複雑な感情なのか分からないがーそれらが少しほどけていく感覚がある。そしてビールが飲みたくなるとか、部屋を少し片づけてみるとか、玲にメールしたくなるとかそんな気になる。だから今ビールを飲んでいる。

(水樹君か・・・)勤はすでに昨日になった、野神室長と玲と一緒だったロアノでの会話を思い出していた。

「顔面血まみれで倒れている犯人は高校生で名前は水樹晶。私立高校の三年生よ」

 野神室長は何の感情も含まずにそう言った。この高校生にも見覚えがないかと野神室長は二人に尋ねた。勤は全く記憶になかった。玲も見覚えがないと答えていた。野神室長はそう答えた玲を少しの間、凝視していた。

(いったい昨日の話し合いは何だったのか?)勤は野神室長の整った顔を思い出した。玲を襲った犯人の詳細・・・そのことを知ってどうするのだろう? 彼はまた血にまみれた高校生の顔を思い出した。(こんなことは日常茶飯事なのだ。うちの店舗が奇跡的にそんな事件が少なかっただけで・・・・・・)

 勤は缶ビールを飲み干した。冷蔵庫からもう一缶取り出してステイオンタブを引っ張った。

(でもどうして、うちの店舗は安全なのだろう?)ナッツを口に放り込み咀嚼した。そして新しいビールを飲んだ。よく冷えている。

 この会社に入って間もなく新人研修として、この店舗の安全神話を聞かされた記憶がよみがえった。店舗のある地域の治安の良さ、高度なセキュリティシステム、業界トップといわれる保安部隊、有能な人材の発掘などなど。

(よくわからない)

 新入社員だった勤は会社の説明を一通り聞いてある程度理解したが、納得はしていなかった。

 彼は缶ビールを持ったままベランダに出た。周囲も彼が住んでいるマンションと同じような建物が幾つも建っている。彼の部屋は二階だが時折強い風が吹く。空は厚い雲に覆われている。相変わらず星は見えない。

 勤は玲に誘われて彼女と初めてセックスをした夜、白い月が出ていたことを思い出した。そして二度目のセックスをする前に銀色の目をした狐に遭遇したことも思い出した。今にして思えばそれらはとても不思議なことだった。

(白い月も銀色の目をした狐も現実の出来事だったのだろうか?)缶ビールを飲みながら夜の闇を見つめていた。白い体、玲の華奢な体が自分の体に巻き付くように吸いついて彼女の中に激しく射精した。その感覚は今も覚えている。

 部屋から漏れる僅かな光の中、勤は自分の掌を見つめた。指は短く爪も平たく繊細さを感じられない手。その形状通り、不器用な自分自身を思った。そしてこの現実世界について思いを馳せた。

 過去の物語―この世界の動きが極限まで速くなって、ある時点でクラッシュした。その後、世界の風景は色褪せ、物事は進化しているのか退行しているのか曖昧になった。すべての領域が侵され、個別の名前の意味が失われつつあった。

(明日も曇りだろうか)彼はそう思いながら残っているビールを飲み干した。西側にある高層ビルの部屋には多くの部屋に灯りがついていた。黒い鳥たちが急降下して目の前を通りそして急上昇して勤の視界から消えた。

「玲・・・・・・」彼は独り言のように言った。






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