1【祝祭】 「ロアノ」から
第1部「祝祭」
「あたしとつきあっても、あまりいいことないですよ」
村上玲はオレンジジュースをストローで飲みながら平然と言った。
「それ、どういうことかな?」
林田勤は動揺を隠せないでいた。だから彼は冷めかけていたコーヒーを一気に飲み干した。喫茶店「ロアノ」のスピーカーからはヨハン・ゼバスティアン・バッハの管弦楽が流れている。勤は内ポケットからマイルドセブンを取り出し口に咥えた。それからライターで火をつけようとしたが、ガスがないのか上手くつかない。
「貸してください」
玲はライターを受け取ると「シュッ」という音がすると、勤の煙草に火をつけた。
勤は大きく息を吸い白い煙をゆっくり吐き出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」玲のメガネの奥にある青味がかった瞳が小さく光っている。
勤にとって村上玲は理想の女性に思えた。何よりも惹かれたのは彼女の紅いフレームのメガネだった。その紅くて大きいメガネが玲をとても可愛く見せた。
これまで勤はメガネをかけた女性にあまり良い印象を持っていなかった。眼鏡をかけた女はなんとなく冷たいイメージがあった。しかし玲は違った。彼女のメガネをかけた姿はとても可愛くて暖かい雰囲気がした。もちろんメガネをかけてない彼女もとても可憐だったけど、勤にとってみれば紅いメガネの村上玲がベストだった。
勤は(俺のこと嫌いか?)なんてことは言いたくなかった。彼女のこれまでの接し方を思い出すと自分に対して好意を抱いていると思うのだ。例えばパート社員のシフトで困ったときはいつも「あたし、替わりましょうか」と言って助けてくれた。自分が疲れたときはさりげなく甘いお菓子を差し入れてくれた。何よりも自分と話すときの玲は眩しそうな瞳で微笑みを浮かべている。同僚の岡野高広も「いいなあ、玲ちゃんに優しくしてもらって」と羨んでいる。
勤が玲を「ロアノ」に誘って「つきあってほしい」と告白したときも自信満々だった。これまでもお互いが半分恋人気分で接してきたと思っていた。彼女の否定的な返事を聞いたときは、聞き間違えではないかと自分の耳を疑った。
「あたしって、凄く運の悪い女です」玲はオレンジジュースをストローでかき混ぜながらポツリと言った。
「運の悪い女?」勤が確認するように訊くと玲子はコクンと頷いた。
「それは村上さんの身の上に辛いことや悲しいことが、いろいろあったということかな?」
勤は話しながら喉の渇きを猛烈に感じた。
「あっ、コーヒーのおかわりをお願いします。勤先輩、今度はアメリカンでいいでしょ。それから、お水も」
二人が座っているテーブルを通り過ぎようとしたウエイトレスに玲は声をかけた。
勤は今まさに思っていたことを玲が代弁したので驚いた。しかし思い返せば彼女はとびぬけて勘がよかったのだ。例えば万引きの常習犯を捕まえたのも玲だった。
一年前食料品売り場のお菓子コーナーから時々商品が消えたことがあった。一週間から二週間の間にチョコレートやキャンディー、ビスケットの類が盗まれていた。当然店としては防犯カメラを詳しくチェックし直し、万引き犯を捕まえるために監視を強化した。しかし万引きが発覚してから数か月が立ち半年が立っても万引き犯を捕まえることができなかった。その間にもチョコレートが一個、のど飴が一袋、クッキーが一袋等様々な菓子が定期的に盗まれていた。
万引き犯を捕まえる係は勤の同僚の岡野高広だった。彼は防犯カメラから不審な人物を特定し、自分の気配を消しながら犯人らしき人物が万引きした直後に捕まえてきた。その検挙率は百パーセントに近く、会社からの評価も高い。だから時々ほかの店舗から高広に万引き犯を捕まえてほしいという依頼があると、彼はそちらに派遣されてしまうほどだった。
しかし今回の案件に関しては高広も全く解決の糸口を見つけられなかった。彼は防犯カメラに映った映像から、他の人が気づかない犯人の些細な動きを見つけ出す能力があった。しかし今回の万引き犯は高広の目をもってしても特定されることはなかった。
休憩時間に高広が勤に万引き犯を捕まえられない愚痴を言っていたときだった。
「あたし、万引き犯に心当たりがあります」
いつの間にか勤の傍にいた玲がそう言った。
「エッ、本当?」
思いもよらない言葉を聞いた高広は怪訝な表情を浮かべた。しかし声を発したのが玲だったので彼の表情は見る見るうちに和らいでいった。
「玲ちゃん、ホント? お願い、僕を助けて!」高広が拝み倒すような大げさな仕草をしたので、玲はクスッと微笑んだ。
「前回の万引きから十日くらい経つので、そろそろ次の犯行の時期ですよ」
「うん」
「あたし、その万引きの犯人を捕まえましょうか?」
その言葉に高広と勤は顔を見合わせた。
二日後午前零時近く玲は和服姿の腰が曲がった老婆がレジを通るとき緊急呼び出しボタンを押した。ヘルメットとプロテクターで身を守った保安部の屈強な男が走ってきた。それから勤も慌てて駆けつけた。
「先輩、この人が万引き犯です」
「へっ?」老婆は緊張感のない声をあげた。
「ほら、ここに盗んだものがあります」玲はそう言いながら老婆の着物の袖の中からチョコレートを一箱取り出した。
「ちょっとチェックします」屈強な男がゴーグルを装着し、その老婆を全身くまなくチェックした。
「大丈夫です」屈強な男は野太い声で報告した。
「先輩、あたしもこの人、大丈夫だと思います」
「あっ、ああ」勤は曖昧に返事をした。
勤と玲と屈強な男は万引きした老婆をセキュリティ対策室に連れてきた。「それでは」と言い残し屈強な保安部員は去って行った。
セキュリティ室長の後藤と高広は怪訝な表情を浮かべた。
「林田君、このお婆さんが万引き犯なのか?」
後藤室長は疑惑の目を老婆ではなく勤と玲に向けた。
「後藤室長、そうです! でもこの人、お婆さんじゃないですよ」答えたのは玲だった。
「エッ?」後藤室長と高広が同時に声を上げた。
「ヘエーッ、そこまで分かっているんだぁ」老婆と思われる女の口から若々しい声が漏れてきた。
「ウーンっと」と唸ると老婆が背伸びをした。背筋を伸ばした老婆は玲よりも十センチ高かった。そして数秒前まで老婆だった女は右手で左耳の下を触った瞬間、薄い皮を剥くように特殊マスクを剥ぎとった。マスクの下からは少女の白い顔が現れた。くっきりとした眉、よく動く黒い瞳、大きくも小さくもない形の良い鼻、少しだけ口角が上がって微笑んでいる口、頬は健康そうなピンクに染まっている。
「!」
後藤室長も高広も驚きのあまり声を失っていた。
「私を捕まえるなんて、この店はちゃんと有能なスタッフがいますね」アップしてまとめてあった白髪を崩し、少女は嬉しそうに言った。
「き、き、きみーっ!」後藤室長は丸い顔面を紅潮させて、不思議な少女に問い詰めようとした。
「私は高梨香、ちょっと悪い女の子ですわ」万引きをした香は悪びれず、後藤室長に投げキッスをした。
「き、き、君ぃー。ン? 高梨?」頭髪の薄いところまで赤くなっていた後藤室長は高梨という名前を聞いたとたん、急にクールダウンした。
「そう、タ、カ、ナ、シ。ウフフッ。後藤のオジサマ、お久しぶりです」
高梨香と名乗った少女は小悪魔的な微笑みを浮かべて後藤室長を見つめていた。
「アーッ、林田君、村上さん、ちょっと席を外してくれないか」
後藤室長は二重顎を震わせながら慌てて二人を室外へ追い出した。勤は後藤室長の突然の態度の変化に驚いたが、玲はヤレヤレと半ば諦め半ば納得した表情で退室した。
数日後、休憩室で高広は勤と玲に声を潜めて事件の顛末を話した。「絶対秘密だぞ! 他の奴に言うなよ!」と高広は真面目な顔で言った。
「万引き犯はうちの会社のお偉いさんの娘だったそうだ」
「フーン、それでおとがめなしか?」
「おとがめどころか何もなかったということだ」
「まあ、そうだろうなぁ」
「ちぇ、お前は直接今回のことと関係がなかったからいいけど、俺の身にもなってみろよ。この半年間の俺の苦労は何だったんだよ!」高広はセブンスターを深く吸い込み、それから思い切り白い煙を吐き出した。
「でも彼女はどうして万引きなんかをしたのでしょうか?」玲はメガネの紅いフレームを少しだけ動かしながら訊いた。勤は彼女のその仕草を横目で一瞬間だけ捉えた。
「そこのところも全く分からないのよねぇ」
「担当者のお前にも後藤室長は話さないのか?」
「ああ、うちの上司は今回やたらガードが固くて、俺がちょくちょく訊いても知らんふりしやがる」高広は煙草の白い輪を吐き出しながら、つまらなそうに答えた。
「でも玲ちゃんはどうして高梨香が万引き犯ってわかったの?」
「ウーン・・・・・・」玲は右手の人差し指を眉間にある眼鏡の紅いフレームに当てながら少しの間考えていた。
「あたし、ここ数か月レジの仕事をしている時、万引き犯のことを頭の隅っこに置いといてお客さんを通していました。勤先輩から岡野さんが困っているってことも聞いていたし、万引き犯を放置しているわけにもいかないし」
「エーッ、玲ちゃん、俺のこと心配してくれたの!」
「うちの社員だったら万引き犯をのさばらせているわけにはいかないだろ」
「いやいや俺のことが心配だったのね」
「そんなことよりも、なぜ村上さんが犯人を特定できたかってことだろ。今の話の中心は」
「ハイハイ、そうでした」
玲は二人の会話を聞きながら小さく笑った。
「あたしがレジをしているとき、ときどき姿形は違うのに同じ雰囲気の人がいました」
「ふーん、雰囲気ねぇ」
「それでちょっと前から、その同じ雰囲気をしている人を尾行していました」
「尾行かぁ、やるねえ玲ちゃん」高広は嬉しそうだった。
「彼女は三階か四階で変装を解くみたいで。今日みたいなおばあさんから中年のくたびれた主婦、それからキャリアウーマンのような颯爽とした女性。いずれも違う人物のようだけど同じ雰囲気だったので尾行しました」
「うんうん、それで」
「それぞれの人物が三階か四階のトイレに入って出てくるときは制服を着た綺麗な女子高生でした」
「へーぇー」高広は感心して独り言のように息を吐きだした。
「でもそれだけじゃあ、犯人を特定することはできないのではないかな?」
「ええ、そうですね」玲は勤の方に目を向けながらにっこりと微笑んだ。勤にはメガネの奥の瞳が青く輝いているように見えた。
「あたし、彼女がーつまりそれぞれに変装した人物が万引きするところを見ました」
「えーっ! 本当? 俺があんなに防犯カメラを何回も見ても全く分からなかったのに現場を見たの。婆さん、主婦、キャリアウーマンっということは3回」
「彼女は防犯カメラの死角を探し当てて、そこで万引きしたと思います」
「うちの防犯カメラに死角があったかなぁ? うーん」高広はしばらく考え込んでいた。
「その後レジで支払いをする前に一個だけ体のいろんな所に盗んだものを隠してレジを通るのです」
「ふーん」
高広は釈然としないようで腕組みをしたまま首をひねっていた。
「まあしかし事件が解決したからいいか」高広は新しいセブンスターに火をつけて大きく息を吸い込んだ。
「どうしたのですか?勤先輩」
「あ、ちょっと前のことを思い出して」
「前のこと?」
「ほら、村上さんが万引き犯を捕まえたときのこと」
「あーっ! 高梨香ちゃん」
「そうそう、うちの重役の娘。うん? 香ちゃん?」勤はそう答えるとアメリカンコーヒーを一口飲んだ。コーヒーは思ったよりも冷めていた。
「あれから香ちゃんと時々連絡とっているっていうか。まあ大体は向こうからメールが届くのですが」
「えっ?」
「たまに一緒にお茶とかに行くの。私、彼女に気に入られたみたいで・・・・・・」
「うーん」勤は無意識に両腕を組んでしまっていた。(万引き犯の女子高校生と彼女を捕まえたパート社員が仲良くお茶する? どういうことだ)
「勤先輩、彼女はまだ十六歳だっていうじゃないですか。一緒にいるあたしよりも年上にみられているみたい」玲は不服そうに頬を少し膨らませて、ストローを咥えていた。
二人のテーブルの横を無表情なウエイトレスが通りかかると「すみません! シフォンケーキのセットお願いします。飲み物はホットレモンティで」玲は素早く注文した。
「おやつタイムです。半分個、しませんか?」
「あっ、ああ・・・・・・」勤は彼女の展開の速さについていけなかった。BGMはバッハからモーツァルトの室内楽に変わっていた。
(「あたしって、凄く運の悪い女です」っていったいどういうことだ?)勤は先ほどの玲の言葉の意味を繰り返し考えていた。(運が悪いー彼女自身の境遇のことだろうか? それとも彼女に関わった人たちのこと? 例えば彼女とつきあった男たちに良くないことが起こったとか・・・・・・、ん?)
勤が何かを思い出そうとしたとき、目の前に玲の紅い眼鏡があった。
「!」彼は反射的にのけぞった。
「勤先輩、ハイ、ケーキ」玲は楽しそうにシフォンケーキの載っている白い皿を勤の前に置いた。
結局、勤は玲から二人の付き合いについて色よい返事をもらうことはできなかった。しかし店を出るとき「また美味しいケーキ御馳走してくださいね。あっ、今度はお洒落なディナーがいいなあ」と玲は瞳を輝かせて勤に言ってきた。
勤は少々頭の中が混乱しながらも「ああ、美味しくて素敵な店を探しておくよ」と返事をした。