俺の名は
バンッ
玄関の扉を勢いよく開け放った。今から俺は、
「……何をするんだっけ?」
右手には妻がいつも使っている包丁が握られている。肩は大きく上下し、自分でもわかるくらいに頭に血が上っていた。しかし、自分が今どこに向かおうとし、そこで何をしようとしていたのか、全くわからない。背後で今開けた玄関扉が静かに締まるのを聞く。その音につられて振り返ると、そこには外壁がグレーで屋根が青の一軒家が建っていた。自分の家である。それなのに、まるで既視感がなかった。わけがわからない。その家をしばし眺めた後、包丁を持ったまま外にいては何かと不都合だろうと思い、ひとまず家に入ることにした。そこで扉に手を伸ばした時、インターフォンの上にかけられた表札に目が留まる。真っ白だ。本来なら苗字が書いてあるはずなのに。俺はそのまま扉に入る。確かなことは俺には妻の小枝子と娘の陽菜がいるということだ。
「小枝子? 陽菜?」
二人を呼びながらリビングに入った時、線香の匂いが鼻をくすぐった。不思議に思いリビングを見渡すと、部屋の隅にそれを見つけた。小枝子と陽菜の写真が飾られた、小さな祭壇を。右手から包丁が滑り落ちて床で音を立てた。
そうだ。俺一人を残して二人は死んだのだ。それだけははっきりしている。ではどうして? なぜ彼女らは死んだ? 事故? 自殺? それとも他殺? わからない。しかし、そうだ思い出した。俺は復讐をしようとしていたのだ。先ほど包丁片手に家を飛び出したのは、まさに復讐に向かうところだったのではないか? だが、誰にどうやって? 妻と娘はどのように殺された? いや待て、そもそも、
「俺って、誰?」
床上に転がる包丁が鈍く光る。もう一度小枝子の遺影に目をやった時、
「それは決まってなかったんだろうな」
背後で声がした。
「誰だ!」
咄嗟に背後を確認し身体を固くすると、そこには青いマントを付けた細身の青年が立っていた。マントの下には黒のスーツが纏われている。髪は発光しているようにさえ見える白色で、目はけだるげな雰囲気を醸し出していた。
「これは失礼。塵芥会青龍隊隊長、古財響也と申します」
青年は品よく頭を下げた。
「な、何者だ! 泥棒か!」
「違う。俺はお前を元の世界に連れ戻しに来た」
青年は先の丁寧な自己紹介とは打って変わって砕けた雰囲気で語り、静かに俺に近づいてくる。
「やめろ! 近づくな!」
「お前はこの世界の住人じゃない。創作物の世界から抜け落ちたんだ。しかも、ボツ作品の中からな。だから細かい設定が曖昧なままなんだろうな」
「変なことを言うな! 通報するぞ!」
「はいはい、早く済ませるからさ」
青年は俺の足元の包丁を手に取った。俺を一瞥し、包丁を手元で弄ぶ。
「ひっ……や、やめろ」
「俺も早く帰らないとキキに怒られちまうからな」
弄んでいたナイフを青年が放り投げた。それが彼の胸元辺りまで落下した時、青年は俺を見たまま片手でそれを払った。余裕さえ感じるほどゆったりとしたその動きに反し、包丁はものすごい勢いで青年の左側の壁に吹き飛んだ。目をやると、包丁は粉々に砕けていた。
「……は?」
目の前で繰り広げられた異様な光景に言葉を呑む。青年は包丁のことなど忘れてしまったかのように、気だるげにマントの下に手を入れる。そこから取り出されたのは、先ほどの包丁、のようなものだった。あの包丁のデザインなのだが、刃渡りだけが五倍ほどになっていた。もはや片手剣である。なんでもない歩道を歩くように、青年は俺に近づいてくる。包丁のような片手剣を持って。俺はじりじりとあとずさり、遂に壁に背中が付く。足から力が抜け、ずるずると腰が砕けていく。
「た、頼むよ……」
「じゃあな。俺たちには輪廻が無いから、まあ安らかにな」
ひゅっ、と喉の奥で空気が通って、体が硬直した瞬間、胸元に鋭い衝撃が当たる。目の前の青年は「ね? 早かったでしょ」と言い残し片手剣をずるりと抜くと、どういう原理か一瞬で姿を消した。足の先、手の先が冷えていくのを感じる。対照的に胸は激しく脈打っている。ふと視界に映ったそれに目をやると、それは「文字」だった。俺の足先、手先が文字に変わって蒸発していくのだ。滲む視界の先に目を凝らすと「復讐劇」「最愛の妻子」「劣等感」「自暴自棄」といった言葉が俺の体から抜け出ては消えていった。
「ああ」
青年が言わんとしていたことが、何となくわかった気がした。俺を生み出したのは両親ではない。あれは、高校生くらいの、若い、「作者」だった。
「ただいま帰りましたー」
「あ、こざい! おかえりー」
キャンプ地に戻ってきた古財にキキが飛びつく。隊長・古財は「よう、キキ」と言いながらその幼女の体をひょいと抱きかかえた。
「ピエトロの奴はどこに行った?」
「任務だよ。でもただの家出少女が相手だから一人で行くって言ってた」
「ああ、まああいつなら問題ないだろ。どうせ寄り道してるんだろうけど」
キキは古財の腕から降りると、ピカピカに磨いた戦鎌を持ってきて古財に見せた。
「今までで一番大きい鎌よ! すっごくカッコいいでしょ」
「ほう。本当だな。お前より大きいんじゃないか?」
「そんなに私チビじゃない!」
戦鎌を振り回しながら、幼女は怒りの視線を向ける。
「ところで、こざいも任務だったんでしょ? できた?」
「もちろん」
「そりゃそうか」
キキは鎌の部分を古財の首筋にあてる。
「こざいだもん。当然だよね?」
古財は鎌には目もくれず、「ああ、当然さ」とほほ笑んだ。青龍隊のキャンプ地に、いつまでも終わらない夜が漂っていた。