春はもうすぐそこ
異界のおっさんと酒を酌み交わした翌日、彼は約束通り現世へと弘樹達を送ってくれた。
その後、親や友人、大学等に無事である事を連絡したり(行方不明になっていた間は、遭難し千影に助けられたが、一時的に記憶を失っていたという事にした)、九郎達の手配で千影達の住む場所が用意されたり、部屋を解約し三人の待つ新たな部屋に引っ越ししたり等、色々とバタバタした日々を過ごし、ようやく日常が戻って来たと思えた頃には季節は初春を迎えていた。
「ひろ、いってらッ!!」
「行ってらっしゃいだよ、弘樹!!」
「行ってきますッ!!」
朝、誰かに見送られて家を出るのは良いものだ。
そんな事を思いつつ、弘樹は最寄り駅への道を駆ける。
昨夜は提出期限の課題があり、深夜までそれに掛かり切りだった。
それで寝坊をしてしまって、家を出るのがギリギリになってしまった。
全力疾走する弘樹を周囲の人々が驚いた顔で見ている。
幽世に迷い込んで良かった事の一つは、河童に相撲で勝った事で持久力と筋力がすこぶる上がった事だ。
これなら何とか滑り込みで電車に乗れる筈だ。
そんな感じで飛び込んだ電車の中、つり革につかまる弘樹の耳に女子高生の噂話が聞こえて来る。
「ねぇねぇ、知ってる? ダイエットおじさんの話?」
「ダイエットおじさん? なにそれ?」
「なんていうの? 時代劇とかに出て来る藁の傘と縞々のマントを着た奴いるじゃん」
「あー、なんかあれでしょ。清水の次郎長とかいうヤクザっぽい何かの」
「そうそれッ! 電車に乗ってると、いつの間にか自分以外の乗客が消えてて、その次郎長みたいな恰好をしたおじさんに、SMプレイをやられるんだって」
絶対に油取りさんだッ! 思わず声が出そうになるのを我慢して女の子の声に耳を澄ます。
「SMって、それのどこがダイエットおじさんなのよ? ただの変態じゃん」
「いや、それがさ。そのプレイが終わって気が付くと元の電車に戻ってるんだけど……二の腕とかお腹とか太ももとか、気になる所がなんていうの、キレッキレになってるっていうの」
「え、マジでッ!? SMはヤだけど、超会いたいんですけどぉ」
「だよねだよねッ!! 二の腕とか何なのって感じで減らないし、胸はすぐ減るのにさぁ」
「あたし、お腹と太もも、お願いしたーい」
「あたしもーッ」
そういえば、油取りは今後は若い人間を狙っていくと言ってた。
まぁ、何にしても人を幽世に取り込む事無く、解放している様だし、元気そうで何よりだ。
弘樹が苦笑を浮かべていると、電車は大学の最寄り駅についた。
電車を降りてホームを歩き改札へと向かう。
大学ではもうすぐ新学期という事で、新入生を迎える為の準備が行われていた。
様々なサークルが新入生獲得の為、趣向を凝らしているのを横目に構内を歩き、教室棟へと向かう。
「弘樹……暫く行方不明だったって聞いたけど、大丈夫だったの?」
「紗子……ああ、大丈夫だよ」
声を掛けて来たのは切れ長な瞳で黒髪ショートの女、弘樹の元カノ、紗子だった。
「そう……あのさ、別れて暫く経つけど彼女とか……」
元カノの紗子が何か言い掛けた時「弘樹ッ!!」と艶のある女の声が構内に響いた。
声に目をやれば黒いパンツスーツを着た黒髪の美女が、弁当箱らしき布の包を掲げこちらに駆け寄って来る。
「千影さんッ、なんで大学にッ!?」
「なんででは無いッ! お主が弁当を忘れたから届けに来たのじゃッ!」
「あっ、そういえば今朝は慌ててたから……すいません」
「せっかく手塩に掛けて作ったというに、忘れる奴があるか……」
そう言って弘樹に弁当を手渡した千影の首には翡翠の勾玉が光っている。
九郎が言っていた妖怪たちが実際にいると広く社会に公表するという話は、タイミングを計っているのかまだ為されていない。
その間、千影とミアには勾玉の変化の力を使い、人に化けて生活してもらっている。
なので、千影の今の姿は角も牙も無く、瞳の色も落ち着いた茶色のごく普通の人間の女性だ。
「弘樹、誰、その人?」
「あ、この人は隠千影さん。俺の……大事な人だよ」
「大事な人……」
そう呟いた紗子は思わず千影を睨む。
「ぬっ、なんじゃ?」
睨まれた千影は状況がよく分からず小首をかしげた。
「そ、そう、良かったわね! すぐに新しい彼女が出来てッ!」
紗子はそう言うとプイッと顔を反らし、回れ右してツカツカと歩き去った。
「弘樹、彼女とは確か恋人という意味ではなかったか?」
「あいつが勝手に勘違いしただけです……俺はいずれそうなって欲しいと思ってますけど……」
「ぬっ!? と、突然何をッ!? お主の気持ちは知っておるが……」
唐突な弘樹の告白に、千影はモゴモゴと戸惑いながら顔を赤らめる。
「えっ、そうなんですか?」
「お、狼の睫毛の時にのッ、じゃが儂とお主では年が違いすぎるッ!」
「ハハッ、そんな事、今更ですよ」
いつだったか、狼の睫毛で弘樹を透かし見た時、千影は弘樹の気持ちに気付いていた様だ。
だが、彼女は年の差を気にしてずっと、保護者として弘樹に接していたらしい。
「弘樹、大丈夫だったか?」
紗子とすれ違いその先に弘樹を見つけた友人の一人、隆一が声を掛けて来た。
隆一は弘樹を傷心旅行に誘ってくれたメンバーの一人で、弘樹と紗子の事もよく知っている。
自分達の所為で弘樹が行方不明になったと心を痛めていて、戻った時はとても喜んでくれたものだ。
「大丈夫って何が?」
「いや、紗子の奴、お前から乗り換えた彼氏と上手く行かなくて、すぐ別れてさ。それでお前とよりを戻そうとしたんじゃないかと……」
「そうなんだ……あいつ、押しが強いからなぁ……」
「別れた理由もそれが原因らしい……所でその人は?」
「彼女は隠千影さん、俺の命の恩人だよ。千影さん、友達の高島隆一です」
「ふぅ……んんッ……隠千影じゃ、弘樹がいつも世話になっておる」
千影は紅潮していた顔を手で仰ぎ、咳ばらいを一つして表情を改めると、ニコリと笑みを浮かべた。
その笑みを見た隆一は一瞬ポカンと口を開けた後、弘樹の首を抱え耳元で囁く。
「お前、助けてくれた人は、お母さんポジとか言ってなかったかッ? めっちゃ若くて美人じゃねぇかッ?」
「実際にお母さんポジだよ、今だって俺が忘れた弁当を届けてくれたんだ」
弘樹が受け取った弁当を隆一に見せると、彼は「弁当ってこんな美人に……羨ましい奴」と弘樹の頭をガシガシとかき回し、千影に向き直った。
「俺は高島隆一です……あの、こいつの事助けてくれてありがとうございましたッ!」
隆一は、弘樹から離れると千影に深々と頭を下げる。
「気にする事は無い、儂がしたくてしただけじゃからの……弘樹、いい友人を持ったようじゃの」
「ええ……本当に戻って来れて良かった」
「フフッ、頑張ったかいがあったわい……では儂は仕事に向かう」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
「うむ」
千影はパンプスを鳴らして颯爽と去って行った。
「……喋り方は変わってるけど、何だかカッコいい人だな」
「うん、千影さんは凄くカッコいいよ」
「そのカッコいい美女が何でお前の弁当を届けに来るんだよ……やっぱり彼女なのか?」
「え、いや、今はまだ違うけど……」
口ごもった弘樹の肩を抱くと、隆一は「詳しく聞かせて貰おうか」と言ってジトッとした目を向けた。
「俺、これから授業が……」
「……んじゃ、大学が終わった後付き合え。色々詳しく聞かせて貰うから」
「はぁ、分かったよ」
弘樹はため息を吐いて、どう説明したものかと頭を悩ませた。
そんな弘樹の頭の上、桜のつぼみが膨らんでいる。冬は終わり、吹き抜けた春一番がその桜のつぼみをふわりと揺らした。
本格的な春はもうすぐそこまで来ていた。
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