狼と鏡
こちらを威嚇する狼の群れ、その群れの中でも一番大きな個体が前に進み出て口を開ける。
『ここは我らの縄張りぞ!! 通りたくばその人間を置いて行け!!』
「わっ、喋ったッ!?」
「はぁ……妖の住む世界じゃと言うておろう。住む獣も現世のそれとは違う……」
千影は驚く弘樹に苦笑を浮かべると、狼に向き直り声を張り上げた。
「それは出来ぬ!! この者の願いの為に儂らは雲外鏡に会いに行くのじゃ!! それなのにこの者を貴様らに渡しては本末転倒じゃ!!」
『グルル、ただで通す事は出来ぬッ!!』
「では押し通るとするかの!!」
千影が右手を翳すと、その手に金属の輝きを放つ長く黒い棒が現れる。
「千影さん、ちょっと待って下さい!」
今にも飛び出しそうに千影の左腕を掴み、弘樹は彼女を制止する。
「なんじゃ弘樹? 山犬如き儂の敵ではないぞ」
「そうかもしれないですが、戦えば千影さんも怪我するかもしれないじゃないですか!」
「ではどうせよと?」
「あの、お弁当がありましたよね? あれで何とか交渉出来ないでしょうか?」
「弁当……あれは昼に弘樹と一緒に食べようと思って……」
眉根を寄せ口をへの字にした千影を見て、弘樹の顔は緩みそうになったが、狼の群れの事を思い出しグッと堪えた。
「一つ残して分け合いましょう」
「ぬっ……一つの弁当を二人で……それも良いかもしれぬな……おい、山犬ッ!! この弁当をくれてやるッ!! その代わりここを通せッ!!」
『弁当だとッ!? そんな物がその人間の代わりになるかッ!!』
「……これで妥協せぬなら、お主らを皆殺しにしても良いのじゃぞ?」
千影の声が低く響くと同時に弘樹にも分かる程、空気が切迫して行くのが感じられた。
当然、狼達も鋭敏にそれを感じ取り、先程から喋っている大狼以外は尻尾を股の間に挟み、怯えた様子を見せている。
『グッ……この腑抜け共が……クッ、弁当を寄越せッ!! 今回はそれで勘弁してやるッ!!』
「偉そうな山犬じゃ……ほれ、受け取れッ!!」
千影が竹籠で編まれた弁当箱を投げ渡すと、大狼は器用にそれを口で受け止め、森の中へと姿を消した。
「はぁ……助かった……」
「弘樹、なぜ止めた? 儂はあの山犬程度であれば一瞬で倒せたぞ」
「格闘技の師匠の教えです。無用な諍いは憎しみの連鎖を生むって……それは俺も身を以って経験したので……」
「身を以って……何があったのじゃ?」
「友達が不良……ガラの悪い連中に絡まれていたんで、習っていた拳法を使って撃退したんです……でもその後、友達と一緒に集団で襲われて……俺もボコボコにされたし、友達は骨折で入院しちゃったし……あの時、別の方法を取っていたらそんな事にもならなかった筈です」
鬼である千影なら、あるいは狼の百や二百は敵ではないのかもしれない。
しかし、千とか二千なら負けるかもしれない。もしくはもっと強い用心棒を連れて来て復讐されれば……。
いくら個人の武勇が優れていようと多対一では負ける事もある。
その事が骨身に染みた弘樹は集団に襲われて以降、暴力での解決ではなく話合いで争いを回避する様になった。
そんな弘樹の事を、元カノの紗子は不満に思っていたようだが……。
「憎しみの連鎖か……やって、やられて、やり返されて……確かに堂々巡りで虚しいの……すまん、お主を差し出せと言われて少々、頭に血が上ったようじゃ」
そう言って弘樹を見た千影の目は弘樹を通り過ぎ、別の誰かを見ている様に感じられた。
「……そんなに似てるんですか?」
「うむ、目元などよう似ておる……もしかするとお主は主様の末なのかもしれんのう」
そう言って微笑む千影の目は優しく、だが何処か寂しそうに見えた。
「……行きましょうか」
「……そうじゃの」
千影が弘樹に優しくしてくれるのは、亡くなった主の姿を弘樹に重ねているからだろう。
先程の目でその事を悟った弘樹は、やはり千影を好きになってはいけないと改めて気持ちを引き締めた。
■◇■◇■◇■
「雲外鏡ッ!! おるんじゃろう、出て来いッ!!」
山の中腹、雪で真っ白に染まった山の斜面に黒く深い穴がポッカリと開いている。
千影はその穴の中に両手を口の横に翳し呼び掛ける。
『うるさいのじゃッ!! そんな大声で呼び掛けられたら洞で反響して耳がおかしくなるじゃろうがッ!!』
千影に負けず劣らずの大声が洞の中から返って来る。
その後、うねる霞の様な物で支えられた鏡が洞窟から姿を見せた。
『誰かと思えば隠の鬼か……ムッ、その小僧は人間ではないかッ!?』
「うむ、まさしくこやつは人間じゃ」
千影は平然と話していたが、弘樹は鏡が喋ってると若干引いていた。
『まさかここに来たのはその人間の小僧の為かッ!?」
「そのとおりじゃ。こやつを元の世界に帰す手掛かりを……」
『断るッ!! 儂は人間の陰陽師によって何年も暗い蔵の中に封じられていたのじゃッ!! 恨みはあっても恩はないわッ!!』
「あのー」
『何じゃ人の子ッ!?」
弘樹が声を掛けると鏡の部分に瞳が浮かび、彼をキッと睨みつける。
その事に多少たじろぎながらも弘樹は言葉を続けた。
「……俺に出来る事があれば何でもやりますので、どうか力を貸して貰えないでしょうか?」
『貴様に出来る事など…………本当に何でもするか?』
「はい……誰かの命に係わる様な事以外であれば……」
『フンッ、ではここから南に湖が見るじゃろう?』
うねる霞が指差した先には陽光を反射してキラキラと光る湖が見える。
回りは雪に覆われているが、不思議とあの湖は凍ってはいない様だ。
「あの光ってる奴ですね」
『うむ。あの湖の湖畔近くにある砥石を拾って来てもらおうか』
「砥石ですか?」
『そうじゃ、それも儂の顔を磨いても良い様な大きな物じゃ。最近、あの湖に河童の一族が住み着いてな、砥石が拾えず難儀しておったのじゃ』
雲外鏡の顔、つまり鏡な訳だが、その大きさは直径一メートル程だ。それを磨くのだから、砥石もある程度の大きさが必要な筈だ。
それに河童か……。
『欲しい石はこれじゃ。これと同じ物を見つけて来い。そうすれば話ぐらいは聞いてやる』
雲外鏡はうねる霞の先に掌程の石を差し出した。
赤茶色の光沢のある石を弘樹が受け取ると、千影が口を開く。
「それと同じ砥石じゃな、では儂が取って来よう」
『待て、隠の、お主が運んだのでは意味が無い。儂はこの坊主に恩を受けそれを返す。そうで無いといかん』
「硬い事を言うな」
『そういう訳にはいかん。大嫌いな人間に手を貸すのじゃ、多少の面倒は引き受けてもらわねば……』
雲外鏡は遺恨のある種族である人に手を貸すのに、何か言い訳が欲しいのだろう。
そう感じた弘樹は視線を千影に向ける。
「あの、千影さん、大丈夫です。同じ物を見つけて運んで来ます」
「じゃが人には重労働じゃぞ? それに湖には河童が住んでおるというし、人が近づくのは……」
難色を示した千影だったが、弘樹としても彼女に頼りっきりでは余りに情けない。
「それでも、雲外鏡さんの言う様に自分の事は自分で何とかしないと……」
「ふぅ、仕方ないのう……雲外鏡、弘樹を守るのは構わんのじゃろう?」
『勝手にせい。小僧、なるべく平たく大きなモノを頼むぞ。その方が輝きが良くなるでな』
「分かりました」
雲外鏡に頷きを返し、弘樹は千影と共に湖へ向け歩を進めた。
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