龍が空を泳ぐ世界
トントントン。翌朝、そんな音で弘樹は目を覚ました。
布団を抜けだし襖を開けて廊下を歩き囲炉裏の間に入ると、出汁の香りが漂い弘樹の腹がぐぅと鳴る。
「おはよう、弘樹……フフッ、朝から元気な腹の虫じゃの」
黒い着物に割烹着を着て味噌汁の具を包丁で切っていた千影が、腹の音で振り返り微笑みを浮かべる。
「おはようございます……良い匂いだったものでつい……」
「朝餉はすぐに出来る。その前に顔を洗ってこい」
「分かりました……それにしても早起きですね?」
「儂はいつもこの時間には目を覚ましておる。客人は久しぶりじゃから今日は少し早く目が覚めたわ」
千影はそう言うと嬉しそうに笑った。
彼女は一人、この山の中の家で暮らしているようだ。
寂しくないのだろうか……。
そう考えた弘樹は、割烹着の背中が何だか愛おしくなった。
そんな気持ちを振り払い、洗面所の桶に張られた水で顔を洗い口を濯ぐ。
山水を引いているらしいその冷水は、波立った弘樹の心を凪いでくれた。
千影が用意してくれたのは、白米に味噌汁、漬物に玉子焼きといたってシンプルな物だった。
ただ、空腹もあってか全てがとても美味しく感じられた。
「ふふっ、そんなに美味そうに食ってくれるなら、作った甲斐があったというものじゃ」
「いや、どれもホントに美味しいです」
「さようか……正直な奴じゃ」
千影は料理が褒められて嬉しいのか、ニコニコと笑いながらご飯を口に運んでいる。
「今日は昨日、話した雲外鏡の所へ行こうと思う……こちらの飯を食い、風呂で現世の臭いも大分落ちたし、話ぐらいは聞いてくれるじゃろう」
「現世の臭い? ……そんなに臭いんですか?」
「まぁの。大昔は人もそれ程、臭くはなかったが、知り合いの妖どもの話ではここ二百年程で臭気が増したらしいの。実際、弘樹も随分と臭かったしの」
「……もう一回、風呂に入りましょうか?」
鬼とはいえ女性に臭いと思われるのは弘樹としても頂けない。そう考え言った言葉で千影は弘樹に顔を寄せ、形の良い鼻をスンと鳴らす。
「あっ、あの、どうですか?」
不意に顔寄せられた事で。何とも言えない甘い香りが漂い弘樹は思わず顔を赤らめながら尋ねる。
「そうじゃの、もう一度入った方が良いかもしれぬ……やはり背中を……」
「いや、それは結構ですからッ!」
「さようか……」
「ごっ、ご馳走様ですッ!! じゃあ風呂に行ってきますッ!!」
少し残念そうな千影に申し訳無く思いつつも、食事を終えた弘樹は食器を土間にあった洗い場で洗い、逃げる様に風呂へと向かった。
風呂でぬか袋だろう、布の袋で丹念に体を洗う。
この袋で千影さんも体を……駄目だ駄目だ、命の恩人に俺は何を……。
湧いて出た煩悩をお湯を被って洗い流し、湯船に身を沈める。
「あ―――……」
彼女に振られたばかりだからだろうか。人外であるにも関わらず千影の事が気になってしょうがない。
「昨日、会ったばかりなのに……」
恋人だった紗子と別れたのは、彼女が別の男に乗り換えたからだ。
一方的に別れを告げられショックを受ける弘樹を後目に、紗子はじゃあねと颯爽と去って行った。
そんな紗子の事も弘樹の中ではもう過ぎ去った過去になりつつある。
都合良く出来ているなぁ。自分の気持ちの変化に苦笑しつつ、弘樹は風呂から上がり脱衣所で体を拭いた。
脱衣所には千影が用意してくれたのだろう、下着の他、白い肌着と黒い和風の上下、上は長袖の作務衣的な物、下は裾の絞られた袴の様な物、足元は脛まである足袋が用意されていた。
着慣れない服に苦戦しながらも、何とか服を着込み弘樹が囲炉裏の間に戻ると、千影も自分と似たような服に着替えていた。
その服の上から黒い皮の鎧を着こんでいる。
「ほう、中々似合うではないか」
「え、そうですか? あのそれより千影さんは何で鎧を……?」
「道中はそれなりに危険なのでな。安心せい、お主は儂が守ってやるわい」
「は、はぁ……」
千影は困惑気味の弘樹に黒いマントの様な物を渡すと、自身もそれを羽織った。
「弁当も持ったし準備はいいの……では、行くとするか?」
「はいッ!」
千影が用意してくれた黒革のブーツを履いて、弘樹は彼女の後に続き家を出た。
吹雪は止んでおり、空は青く澄み切っていた。
冬の透き通る様な空気が心地よく鼻を抜ける。
……ここは本当に俺の世界じゃないんだろうか?
そんな弘樹の疑問は見上げた空に龍が泳いでいた事で一瞬で解けた。
「龍ッ!! 千影さん、龍がッ!?」
「神仙や妖の住む世界じゃと言うたろう? 龍ぐらいおるわ」
「襲って来たりしませんよねッ!?」
「龍は水や大地、空に漂う気を喰らい生きておる。機嫌を損ねぬ限り何かを襲ったりはせぬ」
「そ、そうですか……」
「それより、急ごう。天気が良い内に距離を稼ぎたい。おぶされ」
千影はそう言うと弘樹の前にしゃがみ込み、こちらに視線を向ける。
「えっと……流石に女の人におぶって貰うのは男として情けないかなぁと……」
「ふむ……今も昔も男は面子にこだわるか。難儀な物じゃ……辛くなったら言え。運んでやるでな」
「はい……なるべくそうならない様に頑張ります」
立ち上がり歩き出した千影の後を追い、弘樹は雪深い山道を歩き始めた。
ギュっギュっと雪を踏みしめる音を立て、千影と弘樹は歩みを進める。
「雲外鏡はこの山の中腹、洞窟で暮らしておる。奴の好きな酒も用意したし、多分手を貸してくれるじゃろう」
そう言って千影は弁当と酒を入れた肩から下げた袋をポンッと叩く。
「その……うんがい……きょう……さんは……ふぅ……どんな事が……出来るんですか?」
体力はある方だと思っていたが、新雪に足を取られながら進むのは中々に骨が折れた。
そんな弘樹と違い、千影は疲労した様子も無くすいすいと歩を進める。
やはり種族の差だろうか……。
「雲外鏡は世の全てを映し出す事が出来る。その力を使えば現世へ戻る方法も探す事が出来よう」
「世の全て……を」
「うむ……疲れたか?」
「ええ、まぁ……」
「では手を引いてやろう」
千影はそう言うと弘樹の右手を握り、雪道を歩き始めた。
不思議な事に彼女に手を握られると、弘樹の体は軽くなった様に感じられた。
細くしなやかな手の感触にドキドキした事が影響しているのかもしれない。
そんな事を考えていた弘樹の手を千影がギュッと握った。
何事かと視線を上げれば、見上げた山道の先に黒い毛並みの狼の群れが牙を剥きこちらを威嚇していた。
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